鳥かごの中の黒髪姫
旅立ちの朝は、痛いほどに透き通っていた。
宿の窓を開け放つと、まだ誰も歩いていない石畳の匂いを含んだ、冷たく湿った風が滑り込んでくる。肺の奥まで染み渡る清冽さは、出発を祝福しているようでもあり、二度と戻れない日々に別れを告げる静かな拒絶のようでもあった。荷物はもうまとまっている。最小限の衣類と必需品、それから――何より大切な「新しいわたし」になるための装具たち。鞄はすでにスレイドの背に括り付けられ、革紐は荷の重みを受けてぴんと張っていた。
窓から見下ろすと、宿の前で待つスレイドの傍らにヴィルが立っている。手綱を緩く握ったまま、彼は何も言わず、ただ黙って顎をしゃくった。顎先の動きが、行くぞ、と告げた気がして、わたしは一度だけ部屋を振り返る。乱れたシーツや使い古された水差しに視線を落とす。この一月あまりの仮住まい。けれど、そこには確かに、わたしたちの「休息」があった。
小さく息を吐き、扉を閉める。錠のかかる硬い音が廊下に響き、この一月を扉の向こうへ残した。
外に出ると、空は淡い青磁色に染まっていた。東の光が街路樹の若葉を透かし、石畳の上に光の斑点を落としている。葉が風にそよぐたび、その粒がきらきらと揺れる。スレイドが小さく鼻を鳴らし、蹄を踏み替えた。あまりにも穏やかな風景だった。朝の光の下を歩き出しても、足取りには名残惜しさが残り、わたしたちはミースの工房へと向かう。ヴィルが手綱を引き、スレイドの蹄が石畳を静かに叩く。
工房の扉には、まだ「準備中」の札が掛かっている。けれど約束の時間は来ていた。わたしはためらいがちに、ノッカーを叩いた。重厚な木の扉が、軋みもなく内側へと開かれる。乾いた木屑とニス、それにほの甘い香油の匂いが、開いた扉の奥から漂ってきた。
工房の中には、相変わらず微かな物音まで遠く感じるほどの静けさが満ちていた。棚に並ぶ精緻な球体関節人形たち。硝子の瞳を持つ彼女たちは、物言わぬ視線でわたしを静かに見下ろしている。
その中央、窓辺の作業台にミースはいた。彼女は差し込む朝の光の中に溶け込むように座り、器用な指先で仕上げ途中の人形を操っていた。逆光に透ける亜麻色の髪。伏せられた睫毛が落とす影。空中を舞う微細な埃が、彼女の手元をよぎるたび、黄金色に光った。
声を出すのが惜しくて、人形の腕が彼女の指先でひとつ動くまで、わたしはその場に立ち尽くした。喉の奥がきゅっと狭まる。この場所で、厳しさと愛情のどちらも隠さない彼女の手つきを見ている時間が、どれほど救いになっていたのだろう。
「……ミースさん」
作業台の静けさを乱さぬよう、声を抑えて名を呼ぶ。ミースは驚く様子もなく、ふっと指を止め、ゆっくりと顔を上げた。朝の光を映した瞳が、わずかに潤んで見えた。
「いらっしゃい。……早かったのね」
いつも通りの穏やかな笑み。けれど、その目元には隠しきれない寂しさが残っている。
「ミースさん、いままでお世話になりました。いろいろと無理ばかり押し付けてしまって、ほんとうに申し訳なかったです」
一歩前に出て、できる限りしっかりと礼を述べる。言葉を重ねるごとに喉元が熱を持ち、声を震わせずにいるだけで精一杯だった。
「ふふ、ミツルちゃんったら、そんなにかしこまらないで。わたしの方こそ、お礼を言わせてちょうだい」
ミースは作業台に肘をつき、口元をほころばせてわたしを見つめる。
「あなたのような素敵なお人形さんを彩ることができて、本当に幸せだったわ。職人冥利に尽きる、というのはまさにこういうことね」
「わたしが? お人形さん……ですか?」
思わず問い返すと、ミースは目を細めて微笑みを深めた。
「あら、気分を害したならごめんなさい。あくまで喩えよ、喩え」
彼女は立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。スカートの衣擦れが、静かな工房にさざ波のように響く。
「でもね、あなたを見てこう思ったの。ありえないくらいきれいで繊細で……触れれば壊れてしまいそうなのに、芯には折れない鋼が通っているって」
自分の腕を見下ろす。あざは薄くなったけれど、まだ消えていない。鋼、という言葉が似合う気はしなかった。
「そうでしょうか……」
ミースは返事を待たず、作業台の端に置かれた針山へ指を伸ばし、一本抜き、また静かに戻した。音のない動作が、言葉より雄弁に“本気”を示す。
「人形って不思議なものでね、一見無表情で儚げだったりするんだけど、見る人のその時の思いや感情によって違って見えてきたりする。わたしたち職人はね、そういう器を作るの。魂を込めるっていうのは、人形に魂を宿すという意味じゃなくて、見る人の心を映すことのできる器を作るってことなの」
彼女は一度言葉を切り、わたしの目をまっすぐに見た。
「でもね、あなたは違った。器なんかじゃない。最初から鋼の魂が宿っていた。わたしがしたことは、その魂がいちばん美しく輝くように仕立てただけ。素材が完璧だったからこそ、最高の傑作が出来上がった。そう言っても過言じゃないわ」
目の前に立った彼女から、ふわりと柔らかな匂いがする。香油の甘さの奥に、木屑の乾いた匂いが混じっていた。
「おかげで私も心の底から楽しかった。こんな機会は、長い職人人生でも滅多にないのよ」
頬が熱くなる。照れくさくて視線を床板へ落とす。けれど同時に、誰にも触れさせなかった胸の奥へ、その言葉の温かさが少しずつ届いてくる。
「そ、そんな風に言われると恥ずかしいですけれど……ありがとうございます」
ぎこちなく返すと、ミースはくすくすと喉を鳴らして笑った。少女のような無邪気な響き。
「まあ、本当に純粋で可愛いわね。まるで本物のお姫様みたい」
――お姫様って。
意味はわかる。身体の奥から、ミツルの喜びが不意に湧き上がる。けれど同時に、それを冷淡に否定しようとするわたしがいる。喜びをそのまま受け取れず、口元が緩みかけたところで止まる。
「……ねえ、ミツルちゃん?」
ミースが、もう一歩近づいた。ミースの手が伸びてきて、わたしの頭に触れた。ウィッグをつける前の、ありのままの黒髪。忌むべき色。隠すべき呪い。けれど、その指先には汚らわしいものへ触れる躊躇いなど微塵もなく、大切なものに触れるように黒髪を優しく撫でていった。
「少しでもあなたの力になれたなら、私はそれだけで十分報われるの。……あなたと出会えて、本当によかったって思ってる。ありがとうね」
掌の温度が髪を通って頭皮へ沁み込み、頭蓋の内側までやわらかく広がっていく。その温かさに、目の奥がじわりと熱を帯びた。彼女は詳しくは知らないはずだ。それでも、この黒髪がどれほどの意味を持ち、わたしがこれから何に向き合うのか――職人の勘で、その重さだけは感じ取っている。そんな気がしてならない。だからこそ、彼女は黒髪そのものへ手を触れてくれたのだと思う。
「これからも自分の信じる道を進んでいって。どんな逆境があっても、あなたならきっと乗り越えられるわ」
彼女の指が、わたしの頬を包み込む。
「それと……機会があったら、またここに寄ってちょうだい。成長したあなたに会いたいの。あなたに似合う衣装も、また作ってみたい。きっと素敵になるはずよ」
その言葉は、呪いでもあり、祈りでもあった。帰ってきなさい、と直接は言わず、それでも帰る場所を残してくれる声だった。喉元が焼ける。別れの瞬間が、こんなにも苦しくて、美しいものだとは思わなかった。
わたしは涙を堪え、顔を上げた。彼女の瞳に映るわたしが、泣き顔であってはいけないと思ったから。
「はい、ミースさん。わたし、必ず……また会いに来ます」
精一杯の声でそう言い、深く頷く。髪と頬に残る掌の温度を、忘れまいと思った。それはきっと、足を止めそうになるたび、わたしを前へ向かせる。
ミースは穏やかに頷いて、もう一度微笑んだ。それは完成した最高傑作を送り出す職人の顔だった。
「その日を楽しみに待っているわ。だから元気でいてね、私のお気に入りのお人形さん」
別れはひどく切なく、けれど陽だまりのように穏やかだった。棚に並ぶ無数の人形たちが静かに見守る中、わたしは深く、長くお辞儀をした。
扉を開け、外の世界へ踏み出す。背後で扉の閉まる音がして、木屑と香油の匂いが朝の冷気から切り離された。朝の日差しが、涙を堪えた目にまぶしく差し込んだ。
ヴィルが愛馬スレイドを伴って待っていた。彼は何も聞かず、ただわたしの表情を一度だけ見て、引き綱を引いて歩き出した。その変わらない歩調を追って足を動かすうち、張っていた肩がわずかに下がった。
それでも内側には、いくつもの感情がほどけないまま重く沈んでいた。ミースの言葉に支えられながらも、足元に伸びる影のように、未来への不安は消えない。これから向かうリーディスの地では、黒髪は不吉の象徴とされる。ミースの最後の微笑みには、その偏見と理不尽を知る者だけの深い哀しみが滲んでいたのかもしれない。「可哀想な子」ではなく、「戦う子」への手向けとして。
歩きながら、ふと母の姿を思い描く。記憶の中の母は、いつもどこか遠くを見ていた。幼いわたしが廊下の隅で足を止め、窓辺の背中を見上げたことがある。差し込む光が肩先だけを白くして、声をかける前に喉が冷えた。あの時の沈黙の硬さを、今なら少しだけ分かる気がする。
「……きっと、寂しかったんだ」
そっと呟くと、声は風にほどけ、どこまで届いたのか分からなかった。隣を歩くヴィルの耳には届いただろうか。彼は前を向いたまま、何も言わない。その沈黙が、今はありがたかった。
母が飲み込み、諦め、手放してしまった自由を、今度はわたしが掴みにいく。母が見られなかった景色を、わたしの目で確かめるために。小さく拳を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みが、決意の輪郭をはっきりさせた。この黒髪も、白い肌も、すべて母から受け継いだものだ。ならば、呪いとしてではなく、折れない証として抱えていく。しなやかに、けれど逸らさずに。
街外れへと続く一本道。工房を離れるわたしたちの上に、朝の日差しが眩しいほどに降り注ぐ。足元には濃い影が伸び、その先の道だけが白く光っていた。この先にどんな理不尽が待っていても、進むべき道を諦めるわけにはいかない。わたしは柄の冷たさをもう一度確かめ、顔を上げる。
南から風が吹いた。頬を撫でる風は、もう昨日の匂いを含んでいない。潮はまだ薄く、代わりに土と鉄の匂いが先に立つ。海は遠いのに、方角だけは確かにリーディスだった。
わたしは新しい一歩を、静かに踏み出した。




