リーディスの伝説を纏って
翌朝。朝霧が晴れるのを待って、わたしはミースの工房の扉を叩いた。
一歩足を踏み入れると、外の朝とは隔てられたように、工房の中だけ時間がゆっくり流れていた。乾いた木材と、古い布地の匂い。棚には精巧な人形たちがずらりと並び、貴婦人のドレス、王子の軍服、森の妖精のローブを纏っていた。
ガラス玉の瞳が一斉にこちらを見つめているような錯覚に、喉の奥がかすかに乾いた。ふんわり広がるチュール、光を吸い込むサテン。極小のパールや、手作業で縫い付けられた小花の一輪一輪に、職人が針を通した跡が残っている。
深く息をするのが、なんとなく憚られた。床板が小さく軋み、その音だけが工房の奥へ響いた。
布を傷めるから、とミースに言われて、マウザーグレイルは入口で預けた。腰が軽い分、心は落ち着かない。
試着室の閉ざされた空気は、澄んだ静けさを湛えていた。壁に掛けられた姿見が、頼りない灯りの中でぼんやり浮き上がっている。わたしはそっと、自分の長い黒髪に手を伸ばした。指先に絡む黒く艶やかな糸は、この世界で積み上げてきた時間そのものみたいに思える。
指で黒髪を梳いていると、背後からミースが音もなく近寄る気配がした。
「失礼するわね」
囁き声とともに、彼女の指がうなじに触れる。ひやりとした感触に、肩が小さく跳ねた。
職人の指は驚くほど器用で、流れるように髪をすくい上げると、小さくまとめてヘアネットの中へ収めていく。ウィッグの下で自毛が暴れぬよう、布地一枚隔てて撫でつけられる感触。頭皮を締めつける微かな痛みとともに、鏡の中の輪郭が少しずつ変わっていくようで、背筋が細く震えた。
「これでウィッグがきれいに乗るわよ。……ふふ、おでこを出すと可愛いわね」
からかうような口調とは裏腹に、その眼差しは真剣そのものだ。ミースは満足げに目を細めると、恭しく台座からウィッグを手に取った。
薄い緑色。けれど、それはただ染められた繊維の束ではなかった。窓から差し込む陽光を含み、しっとりとした艶を返している。一本一本の流れが生きていて、人工の整い方とは違う。
人毛を丁寧に脱色し、染め上げたものだ。静かに黙らせるような気配が宿っている。その完成度に、わたしは息を呑んだ。
ふわり、と頭部に重みが乗る。
……違う。ただの「物」が乗った感覚ではない。人の髪特有のひやりとした感触と、しっとりした重みが頭全体を覆った。
視界の端に、若緑色の髪が降りてきた。ミースの指が素早く動き、こめかみや襟足の位置を調整していく。細やかな手つきで髪の流れが整えられるたび、鏡の中の像が揺らぎ、別の輪郭へ組み直されていった。
肩に触れる髪が、さらさらと布を擦るかすかな音を立てた。頬に触れる毛先もあまりに自然で、肌へ馴染んでいった。背筋が粟立つのに、鏡の中の顔からは目を離せなかった。
鏡に映るわたしは、もう見慣れた黒髪の「ミツル」ではない。若緑の光を帯びた髪が表情を柔らかく縁取り、瞳の色さえ違って見せる。床がわずかに遠のくような目眩がした。
かちり。
ウィッグを固定する金具の硬質な音がして、わたしは我に返る。
「よし、完璧。次はドレスね」
絹の擦れる音とともに、純白のドレスが差し出された。白。けれど、ただの白ではない。朝霧を含んだような、しっとりした白だ。
袖を通すと、ひやりとした上質な生地が肌に吸い付いた。
背中に回ったミースの手が、編み上げの紐を引き絞る。きゅ、と肋骨が締め上げられる。肺の中の空気が押し出され、強制的に背筋が伸びた。ドレスがわたしの身体を、縫い目に沿う形へ押し込んでいく。
襟元のレースが視界の端で揺れ、首筋に細い影を落とした。胸元の刺繍は、灯りを受けるたび細くきらめいた。スカートは幾重にも重なり、重みがあるのに、動くたび羽根のようにひらいた。
「どうかしら?」
職人の矜持を滲ませた声が、静寂を破った。わたしは鏡の中の像を凝視し、喉の奥で言葉を失う。そこに立っているのは、わたしであって、わたしではない誰かだ。
「素敵……夢みたい」
吐息とともに漏れた言葉は、半分が嘘で、半分が本音だった。
美しい。圧倒的に美しい。けれど、それ以上の――得体の知れない引力が、視線を鏡から剥がさせてくれない。
「……似ている」
無意識に、唇が動いていた。
若緑色の髪。気品に満ちた、聖性を帯びた白いドレス。その姿が、記憶の奥の一枚と重なる。前世の学園祭、あの華やかな舞台の上で演じた『精霊の泉の姫巫女』の衣装と、恐ろしいほどに。
鏡越しに、ミースがくすりと笑う気配がした。
「あら、やっぱり気づいた?」
「えっ?」
見透かしたような響きに、ドレスの裾を掴む指先が強張る。
ミースは悪戯っぽく、けれどどこか厳かに目を細め、仕上げとばかりにわたしの髪をブラシで梳いた。
「この髪の色とドレスのデザイン……ただの思いつきじゃないのよ」
「……どういうことですか?」
鏡の中で、彼女の瞳がわたしを射抜く。さっきまで布と縫い目を追っていた職人の顔ではない。古い物語の続きを知る語り手の顔だった。
「とある古い伝説をモチーフにしてみたの。あなたも聞いたことがあるでしょう? 遥かな昔、救世を成し遂げたリーディスのお姫様の話」
心臓が大きく打ち、その音が肋骨の内側へ響いた。室内の空気まで、急に冷えたように感じられた。
「たしか、メービスって……?」
「ご名答。精霊の泉の加護を与えられた、伝説の姫巫女メービスよ」
名前が出た瞬間、世界から音が消えた。耳の奥で、血液が流れる音だけが轟々と響く。
「ほら、有名なメービス金貨の裏に刻まれている、あの方よ」
「はい。知っています。けど……」
「文献によるとね、彼女は若緑色の髪と翡翠色の瞳を持って生まれたんですって」
ミースの声が、試着室の静けさへすっと落ちた。
「派手な髪の色のせいで疎まれる境遇だった、とも書かれてる。けど、精霊からのお告げを受けたことで、王様は彼女が救世の運命を背負った者だと認めて旅立たせたらしいわ」
――精霊からのお告げ。旅立つまでの経緯も、似ている。
メービス。その名は、この世界においては伝説であり、そしてわたしの前世においては――
「あなたは黒髪だけど、瞳の色がまさにメービスのイメージそのままなのよ。最初見た時、ピンときた。だからこの色を選んでみたわけ。それとドレスはね、文献に残る彼女の衣装を私なりにアレンジして再現したものなの」
喉が鳴りそうになり、息ごと飲み込んだ。若緑の髪の下へ押さえ込まれた黒髪が、急に頭を締めつけるように感じられた。
「それにね、もう一つ面白い偶然があるの」
「偶然って……?」
ごくり、と喉が鳴る音が、静まり返った試着室にやけに大きく響く。舌の裏まで乾き、口の中から湿り気が失せていく。
「文献によればね、メービスには、彼女に付き従い命がけで守り抜いた『聖剣の騎士』がいたとされているわ。その騎士の名前、知ってる?」
いいえ、と首を振ろうとした。けれど、声が出ない。逃れられない予感だけが、足首を掴んでいた。
ミースは楽しげに、けれどはっきりとその名を告げた。
「リーディス王国最強の騎士ヴォルフ。ヴォルフ・レッテンビヒラー」
息が止まる。吸い込んだ空気が肺に留まり、次の鼓動が来るまでのわずかな時間が、ひどく長く感じられた。
「ふふ、あなたの連れているヴィルさんと、どことなく響きが似ているでしょう?」
首筋から背中へ、細い冷えが走った。
似ている、なんてほどのことはない。けれど、唇を震わせるあの音が、耳の奥で重なってしまう。そこに獰猛な輪郭が貼り付くのが、怖い。
まぶたの裏に、あの日の舞台が浮かび上がった。眩しいスポットライト。埃っぽい幕の匂い。注がれる視線の熱。姫巫女の衣装を着たわたしと、騎士役を演じた茉凜。あのときの高揚と、肌がちりつくような緊張が、そろって戻ってきた。
今、マウザーグレイルは手元にない。茉凜の声も、ここには届かない。
鏡の中のわたしは、ただ青ざめた顔で立ち尽くし、自分の形をした他人を見つめ返していた。
遠くで、教会の鐘が聞こえた気がした。祝福の鐘にも、これから始まる何かを弔う鐘にも聞こえた。




