琥珀に溶ける父の背
予定よりも一週間ほど遅れて、その日はやってきた。待ち望んだ知らせが、舞い落ちる羽根のように、すとんと手元へ届いたのだ。
ウィッグとドレスの完成。
報せを聞いた瞬間、強張っていた肩から見えない鉛が滑り落ち、肺のいちばん奥まで、ほどけた空気が満ちていくのを感じた。息を吸うことさえ、こんなに心地よかったのかと、短い錯覚が差し込むほどに。
その夜。宿屋の食堂の片隅で、ヴィルとふたりだけのささやかな祝杯を挙げた。周囲には他の客のざわめきがあるはずなのに、わたしたちのテーブルだけが薄い膜で隔てられたかのように静かだった。使い込まれた木の器の中で、波打つ琥珀色の液体が、魔道ランプの灯火を弾いて鈍く、濡れた光を返している。
「ようやくだな。長かったような、あっという間だったような」
ヴィルが器を軽く掲げ、ふわりと漂う果実の香りを楽しむように目を細めた。横顔に刻まれた皺の一つ一つが、ランプの光で柔らかく縁取られていく。
「本当ね……。ミースさんのことだから、きっと素晴らしいものに仕上がっているはずよ」
器の縁に指を添えたまま、ヴィルが肩をすくめる。
「大金を弾んだ以上、それに見合う仕事は当然だろう」
憎まれ口を叩くのに、その声にはいつもの棘がない。使い込んだ革のような温かみが混ざっていて、胸の奥が、こっそりほどけそうになる。
「相変わらず手厳しいのね」
コツン、と柔らかな音が鳴り、わたしたちは互いの器を合わせた。分厚い木の縁に唇を寄せると、果実のふくよかな酸味といっしょに、多くの旅人たちの喉を潤してきた木の温もりが、じんわり指先へ戻ってくる。
「あの目といい手つきといい、口を挟む余地などない、まさに一流の職人だ。それが礼儀というものだろう」
彼は一口飲み干すと、ふと真面目な顔でこちらを見据えた。ランプの明滅が、彼の瞳の底で揺れている。食堂の喧騒が、ひと呼吸ぶんだけ遠のいた気がした。
「それにしてもこの一ヶ月あまりの間、お前はよく頑張ったな」
「わたし? 修行のことかしら?」
「お前くらいの年頃なら、普通は音を上げて逃げ出すところだ」
「そうかしら?」
ヴィルは器を傾け、液面を揺らしながら、遠い日を掘り起こすようにまぶたを伏せた。
「昔、騎士団に研修に来た貴族の子弟どもがいてな。それがどいつもこいつへなちょこで、俺が直々に面倒みてやったっていうのに、一週間もしないうちに誰も来なくなった」
「あらま……でも、それって後で問題にならなかった? 相手はお貴族様でしょう?」
「そんなものはユベルが突っぱねた」
「ど、どんな風に?」
「『ご命令通り、方々には騎士団ならびに騎士たるものを正しく理解していただきました。すなわち目的を満了したがゆえに、自ら去ったのです』――とな」
ヴィルは喉の奥でくつくつと、楽しげな音を鳴らした。
あまりにも父らしい、慇懃無礼な正論。想像がつくだけに、わたしもお腹の底からこみ上げる笑いを堪えきれなくなる。
「ふふっ……さすがは、父さまね。ぐうの音も出ないわ」
「全くだ。あの時の貴族どもの顔といったら、お前に見せてやりたいくらいだ」
彼は懐かしむように視線を遠くへ流し、残った酒をゆっくりと煽った。
空になった木の器が、テーブルにコト、と置かれる。その乾いた音が、ふたりの間に落ちていた笑いの余韻を優しく吸い取っていった。
ヴィルは長い息を吐き、改めてわたしを見据える。その視線は、先ほどまでの冗談めいたものではなく、剣を構えるときのような、静かで重たい温度を帯びていた。
「だが、お前はそんな連中とは比べ物にならん」
短く落とされた言葉に、笑い声が喉で止まる。
「歯を食いしばって、泥を啜ってでもくらいついてきたからだ」
「根性だけは認めてくれた?」
「それだけじゃないぞ。筋の良さはもちろんだが、お前は賢い。理屈だけでも体だけでもなく、両方を上手く噛み合わせるから成長も早い。足さばきだってなかなか様になってきた」
魔道ランプの灯が揺れ、木の器の縁がぬるく光った。
「さすがに褒めすぎじゃないのかしら?」
確かにヴィルの言うことは半分だけ当たっている。前世の嗜み程度の古流。その身体操作の経験が基盤にあるからに過ぎない。けれど――
「いいや、そんなことはない。俺が観る限り、お前の足さばきはユベルの癖にそっくりだ。歩幅の出し方じゃない。踏み替えの気配が薄いところだ。踏む前に膝がほどける。体重を預ける場所が、いつも同じだ」
指先に吸い付く木肌が、さっきより少しだけ冷たく感じた。器の縁をなぞる爪の先が、微かに震える。
「父さまの……癖?」
口にした途端、自分でも驚くほど声が細くなった。喉の奥がきゅっと狭まり、息の通り道が頼りなくなる。
「そうだ。お前、前に出ようとしても地面を蹴らないだろう。蹴ったら音が出る。音が出たら、動く前に読まれる。ユベルはそれを嫌った。あいつの稽古は、いつも静かだった」
ヴィルは器を持ち上げもせず、卓の木目だけを見て言った。まるで、そこに昔の夜の影が染みているみたいに。
「……たしかに、そうだったかも」
けれど、それは父の稽古を眺めていただけで、真似できる類の癖じゃない。見て覚えるより先に、身体の奥で組み上がっているものだ。
思い当たるのは、前世の記憶だった。
柚羽家道場の板張り。埃と汗の匂い。前世の父――玄昌の声はいつも低く、言葉少なだった。
『よいか、足を運ぶときは跳ねるな。置くな。歩くみたいに、ただ運べ。音を立てる前に、息を整えろ。理屈は頭で終わらせるな――骨に落とせ』
あれは身につけたふりをしていただけで、ずっと奥に沈めたままだと思っていた。
けれど転生して、幼い器で戦うたびに、考えるより早く足が選んでしまう。転びそうな時、痛みを避けたい時、相手の視線から半拍ずらしたい時。理屈を拾い上げるより前に、膝がほどける。体重が静かに移る。音を嫌う歩き方が、癖みたいに滲み出ている。
父――ユベルの稽古を見たから似たのではない。前世のわたしが、理屈を掴んで身体へ落とすというやり方を、知っていたからだ。
そして、そこでふと気づく。
ヴィルが見抜いているのは「似ている」という形じゃない。形を生む手前の、もっと根っこの部分なのだと。父だけのものではなく、前世のわたしにもあったもの。だから、偶然みたいに見える一致が起きる。
「……似てるって言われてもね。わたしは、父さまに教わったわけじゃないわ。ほら、朝の修練とか魔獣と戦う姿を見てた。そんなくらいしか……」
言い訳みたいに聞こえるのが嫌で、言葉の最後を曖昧に流した。舌裏が乾いて、果実酒の甘さがむしろ遠い。
「分かってる。教わったから似たんじゃない。だから言ってるんだ」
ヴィルはようやくこちらを見た。目の奥で灯が揺れ、沈む影がゆっくり形を変えていく。
「お前が、そういう理屈を選べること。それを体に落とし込めること。それがあいつ譲りの資質ということだ。強さってのは、何も力や技だけで成り立つわけじゃない。ここも重要だ」
そう言ってヴィルは、ぼさぼさ頭の金髪を指さした。
「……そうなのかな?」
問いかけというより、自分に言い聞かせるような声になった。ヴィルは小さく頷く。
「そうだとも。何度も言ってるだろう。お前は紛うことなきユベル・グロンダイルの娘だと。“父親から受け継がれた命”は、今もちゃんとお前の中に生きている」
足さばき一つ。それがたとえ偶然の一致だとしても、わたしは嬉しかった。
「お褒めに預かり光栄……といいたいところだけど、強さというにはまだ程遠いわ。お陰様で芯は少しずつできつつある、という実感はあるけれど」
「焦ることはない。お前はまだ若いんだからな」
言いながら、ヴィルが器を大きく傾ける。雫が断続的に滴り、彼は底に残った最後の一滴までを干した。
ごとり。
無造作に器を置く拍子に、張り詰めていた彼の肩からふっと力が抜け、纏っていた空気が変わる。声の角が丸く、粘度を増した。
「何よりお前は負けず嫌いで、何度倒れたって諦めることを知らないからな。これと決めたら努力し続ける気概こそが、大切な根っこだ」
なめらかな口調で語りながら、彼は手酌でワインをなみなみと注ぐ。揺れる液面を見つめる瞳は、焦点がわずかに甘く、ここではない遠い場所――過ぎ去った時間を見ているようだった。
「……不器用過ぎるとは思うんだけど、わたしにはそれしかないから」
「誰だってそんなものだ。俺にしたって……そう、ユベルの前では無知なガキも同然だった」
ヴィルの太い指先が、愛おしむように器の縁をなぞる。師弟という言葉だけでは足りない、重い時間の堆積がそこにある。
「それでも腐らず成長できたのは、俺自身の強くなりたいって気持ちと、それを見込んで粘り強く付き合ってくれたあいつがいたからだ。……本当に、あいつには感謝しかない」
だからこそ、ヴィルはわたしに対しても手心を加えず、本気で向き合い続けてくれたのだと思う。亡き友の面影を、わたしの未熟な剣閃のどこかに探すように。
胸の奥が熱くなり、言葉が喉で立ち止まった。わたしのほうこそ――その一言が、舌の裏で溶けたまま残る。
「何事も一朝一夕ではいかないってことは、わかっているつもりよ」
器の底に残った雫を見つめながら、わたしは自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
「それでいい。それがいいんだ。……俺は、お前はいずれ一流に、いや俺やユベル以上になれると信じている」
最後にぽつりと落ちた肯定の言葉が、どんな飾りよりも重く、温かく胸に染みた。
向かいに座るヴィルの顔は、戦場の鋭利さを鞘に収め、どこか親しみのある陽気さと、隠しきれない寂寥を帯びている。彼がこんなふうに穏やかに笑える時間が、わたしにとっても救いなのだと、遅れて気づく。
空になった器に、彼がまたワインを注ごうとする。わたしは少し迷ってから、自分も空になった器を差し出した。器の底が、指の腹にあたたかい。
「おや、いつもなら一杯だけなのに珍しいな。いけるのか?」
ヴィルの眉が、面白そうに跳ねる。
「今夜だけよ。……なんだか、とってもいい気分だから」
トクトクと注がれる音を聞きながら、わたしは珍しく二杯目にまで手を伸ばしていた。指先が微かに熱い。視界の端が、心地よく滲んでいく。
《《ううう……美鶴のドレス姿、楽しみだな。きっとお姫様か、それか妖精さんみたいになっちゃうんじゃない? うふへへっ……》》
脳裏に響く茉凜の声は、酔いのせいか、いつもより少しだけくすぐったく鼓膜を揺らす。無邪気な想像に、わたしの期待も、酵母の泡のようにふくらんでいった。
その夜は、泥のように重い眠りではなく、上質な羽根布団に包まれるような、甘く柔らかな微睡みへと落ちていった。




