あざだらけの乙女
休息日と呼ばれる日でさえ、掌の熱は簡単には引かなかった。
わたしが「強くなりたい」と口にした時、ヴィルは少しだけ目を細めて、それから迷いなく受け止めた。あの人のまっすぐな視線の前では、言い訳も逃げ道も見つからない。認められたい。いつか隣に立てるようになりたい。そう思う――そのくせ、彼がこちらを見るたび、背中の中心が妙に熱くなるのが悔しい。
夜明け前、まだ冷たい空気の中で起きる。水で顔を洗うと、指先がきしむ。寝ぼけた身体に木の匂いが先に入ってきて、稽古剣の柄が掌へ吸い付いた。振り下ろすたび皮が熱を持ち、離したくないのに指の腹がじわじわ痺れてくる。
朝餉は急いでかき込む。湯気と塩気が喉を通り過ぎる頃には、もうスレイドの背に跨っていた。ヴィルと並んで街外れの草原へ向かう。馬の体温が鞍越しに伝わり、革の匂いが鎧の内側へこもる。冷たい風が頬を撫でるたび、これから始まる鍛錬を思い出して、息が浅くなる。
乗馬の稽古は容赦がない。ヴィルの短い指示に合わせて手綱を引く。馬のリズムは気まぐれで、重みは一定じゃない。革が指の腹で小さく鳴り、汗と草の匂いが混ざって鼻先に残る。思うように動かせない自分が情けなくて、肋の内側がじわりと悔しさで滲む。
昼は草原で包みを広げる。草の匂いがふっと近づいて、陽射しが背中を温める。短い昼寝に落ちるのが救いだ。けれど目を覚ませば、午後の稽古が待っている。
午後は剣だ。向かい合うたび、ヴィルの視線は鋭く、逃げ場を作らない。稽古剣が走る音が硬く跳ね、受け損ねれば体が草の上を転がる。攻撃はまるで雷のように鋭く、間を読み違えると一瞬で足を払われる。
泥のついた手を見て、息がつまる。痛みより先に恥ずかしさが来るのが腹立たしい。
転がったわたしを見下ろし、ヴィルは冷たく言い放つ。
「受け身もまともにできんようでは、実戦で死するだけだ。魔獣は立ち上がるまで、待ってはくれんぞ」
わたしだって努力しているのに。そんな簡単にできるものなら、誰も苦労しない。
それでも涙はこらえる。彼が厳しくなる理由を、わたしは知っている。だからこの言葉は突き放しじゃなく、道の指し示しだと信じたい。
日が傾く頃、腕や脚に実戦の筋がついてきたのを感じる。小さな喜びが、腹の底でひそやかに跳ねる。変わっていくのは怖い。けれど、嬉しい。
ただ、鏡の前であざだらけの自分を眺めると、「これでドレスなんて着られるのかしら」と、息が漏れる。優雅で美しかった母には程遠い。父のように強くなりたい気持ちと、母のように美しくなりたい夢。その両方を叶える道は、とても遠く、険しく思える。
それでも、稽古剣の柄に自分の想いを込めて、今日もまたヴィルに立ち向かう。
茉凛はといえば、わたしと五感を共有しているわけで、稽古剣の先がこちらに向かってくるときの恐怖や、転んで擦りむいた痛みも、わたしと同じように味わうはず――なのに、肝心な時に限って、彼女はうまく感覚を遮断してしまう。本当に、ずるい。
でも、もし彼女がその痛みをリアルに感じていたら、きっと反応が過剰で、うるさいに決まっている。それを思えば、これくらいがちょうどいいのかもしれない。
こんなふうに、日々は静かに、けれど着実に積み重なっていった。
◇◇◇
その間にも、人形職人ミースの仕事は、一針ごとに形を定めていく。
革と塗料の匂いが染みついた工房。仮縫いや微調整のために通ううち、ウィッグの繊細な髪が一本ずつ重なり、質量を帯びていくのが分かった。ドレスもまた、布地がわたしの輪郭をなぞるように裁断されていく。
鏡に映る未完成の像を見るたび、喉の奥が熱くなる。それは単なる変装への期待というより、新しい皮膚を得るような高揚感に近かった。
「すごい。こんなに細やかな仕事……生まれて初めて見るかも」
ため息とともに漏れた言葉は、工房の静寂に吸い込まれていく。ウィッグの柔らかな毛束を指先でなぞる。本物の髪より冷たく、けれど滑らかな感触が指紋に残った。
「感動するのはまだ早いわよ。これからもっと突き詰めて、素敵に仕上げてみせるからね」
ミースは針山を手首に巻いたまま、職人の顔で微笑む。けれど、その穏やかな空気は、わたしが袖をまくり上げた瞬間に凍りついた。
布地の下から露わになったのは、無数のあざだらけの腕。青や紫の斑点が、真新しい布の上で痛々しく主張する。ミースの動きがぴたりと止まり、部屋の温度が一段下がった気がした。
彼女はゆっくりとヴィルへ向き直る。その背中から、柔らかさが消え失せていた。
言葉を探すみたいに、一度だけ唇を引き結ぶ。
「ちょっと、ヴィルさん! ミツルちゃんに、乱暴なことをさせていないでしょうね?」
張りつめた糸のような声。心配よりも先に走った怒気が、肌を刺す。
「誤解してもらっては困る。これは彼女が望んでしていることだ。今は乗馬と剣の鍛錬をさせているが、無理にやらせているわけじゃない。そのあざは挑み続ける者の勲章だ」
ヴィルは平然と答える。その低い声が、工房の木の床を微かに震わせた。
「そんな……」
ミースは信じられないというように言葉を失い、わたしの手を強く握り締める。温かな掌から伝わるのは、小刻みな震えだった。
「手だって、豆だらけじゃない……。あなたみたいな可愛らしい子が、剣術だなんて……間違っていると思う!」
潤んだ瞳が、至近距離で訴えかけてくる。
その純粋な倫理観が、肋をきゅっと締めた。けれど、ここで曖昧な慰めを口にすることは、彼との時間を否定することになる。わたしは視線を落とし、けれど言葉には力を込めた。
「ごめんなさい、ミースさん。でも、わたしはもっと強くなりたいんです。これから先を生き抜いていくために、どうしても必要なことだから」
握り返した手の中で、自分の指先の硬さが際立つ。
「だからこそ、ヴィルは真剣に教えてくれているんです」
「だけどね、あなたにはもっと穏やかな時間がふさわしいと思うのよ」
「仰ることはわかります。せっかく素敵なドレスを作っていただけるというのに、こんなことをしてしまって……」
掌の豆に指が触れ、痛みが戻った。けれど瞼の裏には、父の背と母の横顔が同じ光で並んでしまう。強く、美しく。どちらも諦めたくない。
「でも、わたしは強くなりたい。彼の期待に応えられるように……。怪我が多いのはわたしがまだ未熟なせいなだけで、仕方ないんです。それだけは、どうか分かってください。すみません、わがままを言って……」
静寂が落ちる。遠くで誰かが金槌を振るう音が、やけに響いて聞こえた。
ミースの手から力が抜け、やがてあきらめを含んだ深いため息が落ちる。
「……しょうがないわね。わかったわ」
彼女は顔を上げ、眉尻を下げて優しく笑った。職人の瞳に、別の光が宿る。
「少し余計に時間はかかるけど、ドレスのデザインを変更することにしましょう」
「えっ?」
思わず瞬きをする。ミースはもう、わたしの腕から視線を外し、作業台の上のスケッチブックを開いていた。
「色も素材も変えないけれど、ボディスから上はやり直すわ」
さらさらと、羽根ペンが紙を走る音が心地よく響き始める。
「動きやすく、それでいてしっかり体を覆うデザインにね。襟は高く、袖は長くしてできるだけ露出を少なくする。それと……スカートは形を残して、裾をほんの少しだけ短く。フリルは――」
ペンの動きが止まり、彼女は楽しげに口角を上げた。
「――動きに合わせて優雅に揺れる立体感を演出して……そう、これなら可憐さも失わず、あなたをちゃんと守ってくれるはず」
紙の上に、新しい輪郭が生まれていく。
傷を隠し、戦う体を肯定してくれるドレス。その線の一本一本に込められた気遣いが、彼女の優しさを語っていた。
強張っていた鼓動が、ゆっくりと本来のリズムを取り戻していく。
「ありがとう、ミースさん……」
震えた声は、ペンの音に優しく紛れた。
「気にしないでちょうだい。こういう仕様変更は慣れたものよ。それに、これはこれでいいものができそうだしね。あなたも、完成したらどんな風に見えるか楽しみでしょ?」
「はい」
ミースは再びスケッチに没頭する。
インクの匂いと、紙を擦る音。その横顔を眺めながら、わたしはまだ見ぬ「新しい自分」の姿を、瞼の裏に強く焼き付けた。
月光を吸い込んだ白いドレス。高く仕立てられた襟が首筋を凜と支え、長い袖が腕をやわらかく包む。喉元から胸元にかけて、小さなパールボタンが整然と並び、布地と同色の糸で刺された薔薇の刺繍が、光の角度で浮いたり沈んだりする。
ウエストをゆるやかにまとめるベルトから広がるスカートは、幾重にも重ねたフリルが空気を含んで波打つ。歩けば衣擦れが足首のあたりでさざめき、ターンをすれば布がふわりと遅れて追いかけてくるだろう。
この装いを纏えば、世界との向き合い方さえ変わるかもしれない。腹の底に沈殿していた願いが、静かに浮き上がる。初めて新しい靴で地面を踏んだ時の、確かな重みを伴った高揚感だった。




