風の行方、小指の熱
変装道具――正確に言えば、黒髪を隠して歩くためのウィッグとドレス。その完成には、ミースの話では、月の満ち欠けが一巡するほどの時間がかかるそうだ。
人形職人ミースの仕事場から漂った、独特な薬品と革の匂いが鼻腔に残っている。彼女は妥協を許さない。気に入らなければ糸一本から解くこともあるだろう。
その待ち時間は、錨のようにわたしたちの足を止めていた。
けれど、風の民は一所に留まることを知らない。琥珀色の酒を酌み交わしたばかりのバルグは、もう次の風を捕まえていた。彼もまた、王都リーディスへ向かうという。
石畳の広場で、巨岩めいた男が胸を張る。傭兵やハンター稼業が似合いそうなものだけれど、彼の口から飛び出したのは、あまりに意外な言葉だった。
「わっはっは! 儂はリーディスで漁師になるつもりでおる」
「漁師? どうしてまたそんな」
「王都の南に開ける海は豊かな漁場に恵まれていてな、それはそれは美味い魚が獲れると聞く。であるなら、儂が食ってやらんわけにはいかんだろう!」
彼の豪快な笑い声が、広場を囲む壁石をびりびりと震わせる。その熱量は、冷たい石畳の街には少し強すぎた。
「それにだな、山育ちの儂は今まで一度も海を見たことがない。大海原に舟を漕ぎ出して、その広さをこの身で感じてみたいと思ってな!」
語る瞳は、雲ひとつない正午の空ほど澄んでいる。
「海を、見たことがないの……?」
思わず繰り返すと、バルグは大きく頷いた。
「うむ。儂の故郷は中央大陸の北の果ての山嶺だ。雪と岩と、吹きすさぶ風ばかりでな。水といえば凍った湖か、雪解けの急流くらいのものよ」
遠い山を見るように、彼の視線が宙をさまよう。
「だからこそ、見てみたいのだ。果てまで広がる水の原を。風がどこへ吹いていくのか、その先をな」
「風の、先……」
「バルバロードの中でも我がキーンの民は風の精霊を崇める。目には見えぬが、確かにそこにある。時に優しく頬を撫で、時に容赦なく吹き荒れる。まさに命そのものよ」
バルグの声が、少しだけ静かになる。風が広場を渡り、わたしの髪を揺らした。
「そして、風は一つ所に留まらん。だから儂らも留まらん。若い男は里を離れ、風の導くままに世界を巡る。それが修行であり、生き方でもある」
何にも縛られず、風のままに。
その言葉が、胃の底に小さな棘を残した。
わたしには、そんな生き方はできなかった。前世では宿命という名の檻に囚われ、選ぶことさえ許されなかった。今は違う、と思いたい。けれど、まだ抜け出せていない。
頭の中で名だけが並ぶ。深淵の異能。マウザーグレイル。精霊子の器としてのこの身体。どれも重く、肋の奥で息がひっかかった。
そんなわたしでも、いつか彼のように風に身を任せて笑える日が来るのだろうか。
「……羨ましいわ」
気づけば、言葉が唇からこぼれていた。
「ん? 何がだ?」
「あなたの生き方よ。風のように自由で、どこへでも行ける。何にも縛られないで」
バルグはきょとんとした顔で首を傾げ、それから豪快に笑った。
「わっはっは! 自由か。そうかもしれんな。だが、自由というのは案外と不便なものだぞ? 行き先は風任せ、宿も飯も約束されておらん。儂はこの図体だし、いつも野宿で背中が痛いわ」
大げさに腰をさすってみせる。その仕草があまりにもおかしくて、張りつめていた肩の力がふっと抜けた。
「でも、あなたは楽しそう」
「うむ、楽しいぞ。知らぬ土地、知らぬ人、知らぬ味。毎日が発見だ。それに――」
彼は空を仰ぎ、目を細めた。
「風は気まぐれだが、必ずどこかへ連れていってくれる。儂はそれを信じて進むのみだ。そして、今その風はリーディスに向いている」
信じて進む。言葉の響きが、やけに温かかった。
わたしにも、信じられるものはあるだろうか。この先に続く道の、その先に。
「……ところで、バルグ」
ふと、思い出したように口を開く。
「なんだ?」
「漁師になるって言ったわよね。ということは、当然海に出るんでしょう?」
「うむ、もちろんだ」
「まさか、泳げないってこと、ないわよね?」
巨躯がぴくりと強張った。
一陣の風が通り過ぎ、わたしたちの間の気配が妙に冷えていく。視線が不自然に宙を彷徨い、こめかみに脂汗が滲むのが見て取れた。
「えっと……もしかして、本当に泳げないの?」
真顔で問い直すと、彼はしばし口をつぐむ。
通りを馬車が駆けていく音が、やけに大きく響いた。
「いや……キーンの里には、泳げるような水場がなくてだな」
「それは言い訳でしょう」
「いや、事実だ。湖は凍っておるし、川は流れが速すぎて――」
「でも、部族の若い人たちは、戦士を目指して鍛錬をするんでしょう? 泳ぐ訓練だってするんじゃないの?」
「…………」
沈黙が答えだった。
彼は観念したように、大きなため息をついて肩を落とす。
「うむ……その通りである。面目ない限りだ」
岩めいた身体を小さく縮こまらせたその姿が、叱られた子供を思わせて、喉の奥がくすぐったくなる。
「風の導きに従うのはいいけれど、海に落ちたらどうするの? 風は水の中までは連れていってくれないわよ?」
「ぐっ……痛いところを突くのぅ」
「漁師になるって決めたのに、泳げないなんて。計画性がなさすぎない?」
「計画などというものは、風の民の辞書にはないのだ」
「まったくもう……」
思わず額を押さえると、バルグは困ったように頭を掻いた。
「わっはっは! それはそれとして、力仕事なら得意である。どんな大魚だろうが、この腕力で何とかしてみせるわ!」
ばちんと自分の力瘤を叩く。筋肉が波打つ音さえ聞こえそうなほどの迫力。確かに、その腕だけは裏切らないだろう。けれど、海は優しさだけで迎えてはくれない。
「溺れたら腕力も何もないでしょうに……」
「む。それは……確かに」
「はぁ……」
わたしの呆れた視線に気づいたのか、彼は眉尻を下げて笑った。
「ま、実際に海をこの目で見てからだな。だめなら別の仕事を考えればよい。人生とは冒険である。新しいことに挑むから面白いのだぞ!」
彼の言葉には、日向の匂いがする。無鉄砲だけれど、その明るさで肩のあたりが少し軽くなった。
「そうね、バルグ。あなたの言う通りだわ。新しいことに挑戦するのは素敵なことよ――」
――わたしも、ね。
「でも……まずは泳ぎの練習から始めてはどうかしら? これから先、万が一ってこともあるでしょう?」
指摘すると、日焼けした頬が微かに赤みを帯びる。
「うむ、そなたの言う通りであるな……考えておこう。バルバロードの戦士たるもの、水如きに後れを取るとあっては……その、ちと格好がつかん」
巨人めいた男が、ばつの悪そうに視線を空へ逃がす。太い指先で頬を掻くその仕草が、図体に似合わず不器用で、頬がゆるんだ。強張っていた肩の力が、ふっと抜けていく。
「うん、ぜひそうして。あなたならきっとできるわ」
腹の底に灯った小さな火を、そっと握り込む。彼が夢に向かうその一歩が、ひどくまぶしい。
「再会の時は、魚介で一杯やろうではないか」
「ええ、そうしましょう」
わたしは小指を差し出した。
「約束ね」
バルグは一瞬きょとんとして、それから破顔する。
「なんだ、それは? もしかしてまじないの類か?」
「御名答。さあ、結んで。これはわたしの生まれ故郷に伝わる、“約束のおまじない”なの」
「よかろう」
彼は笑いながら、ごつごつした小指をわたしの指に絡めた。骨ばった関節が、不思議とあたたかい。
指を離すと、名残惜しさが指先に残った。
「では、しばしの別れだ。そなたに風の加護があらんことを」
「またね、バルグ」
「おう!」
バルグは大きな手を振り、踵を返す。
石畳を踏みしめる重い足音が、喧噪の中へ溶けていく。背中が人混みに紛れ、やがて見えなくなっても、その残響だけが、確かな温度を持って鼓膜に残っていた。
わたしはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
風が露店の旗をはためかせていく。子供たちの歓声をさらい、どこか遠くへ吹き抜けていく。彼はあの風と共に行くのだ。縛られることなく、迷うことなく、ただ風の導くままに。
リーディスへ続く街道。
吹き抜ける風が頬を撫でる。それは彼を守る見えない祝福めいて、優しく髪を揺らしていった。
「……いつか、わたしも風に身を任せて笑える日が来るのかな……」
その答えは、まだ分からない。けれど、指先にはまだ、約束のあたたかさが残っている。
《《来るよ。必ずね……》》
茉凛がそっと囁く。こういうときは、黙って見守ってくれるのが彼女なのだ。




