二人だけの秘密の儀式
夜の帳が下りると、宿の静けさが肌に貼りつくようになる。一日の喧噪が遠のき、ようやく、誰にも邪魔されずに彼女の輪郭を確かめられる時間になった。
寝支度を済ませると、わたしはマウザーグレイルを胸に抱き、シーツの冷たさへ身を沈めた。一日の疲れが、背骨のあたりへ重く沈んでいく。けれど、意識を手放すその前に――どうしても、彼女に「おやすみ」を渡したかった。
硬質な柄に、祈るように額を押し当てる。金属が熱を奪う感触だけが、ここにある現実だ。けれど、目を閉じれば瞼の裏に光が滲む。生き延びるためにこわばった心をほどき、明日まで自分をつないでおく、わたしたちだけの密やかな儀式だった。
不意に、脳裏へひとつの姿が浮かんだ。ブレザーの学生服姿の彼女。前世のわたし――「柚羽美鶴」を見つめる、春のお日様のように穏やかな眼差し。
違う衣装――たとえば、可愛らしいワンピースや、演劇のときの凛々しい男装姿も見てみたいと願うけれど、思い浮かべた姿はいつも淡く霞んでしまう。どれだけ手を伸ばしても、指先は虚空を掻くだけ。その届かなさに、喉の奥が乾いていく。
けれど、触れられないからこそ、言葉は皮膚を介さず、魂の深い場所へ直接刺さる。
「茉凜……起きてる?」
囁きは闇に吸われ、返事が届くまで、金属の冷たさが額に残った。
《《ん、どうしたの? そんな心細そうな声だして。眠れないの?》》
頭の芯に響く声は、抱いている剣よりもずっと体温に近い。
「……うん。あと、声を確かめたくて。いけない?」
小さく息を吐くと、鼓膜の奥で彼女がくすりと笑う気配がした。
《《もう、あなたってば……ふたりきりになると、とんでもない甘えんぼさんになるんだから》》
強がりの鎧が、彼女の声の前では一枚ずつ剥がれ落ちていく。ただの美鶴に戻り、無防備な柔らかな部分を晒すことが、呼吸するよりも自然に思えた。それは恋情というより、帰り道の灯を確かめる安堵に近い。
――あなたと話す時だけ、わたしはほんとうのわたしになれる気がするから。
「仕方ないじゃない。……あなたの声がないと、自分がどこにいるのか分からなくなるの」
震えた声は、自分でも驚くほど幼く響いた。
《《……大袈裟だなぁ。わたしたちはいつだって一緒でしょ?》》
その響きは、吹雪の中で見つけた暖炉の火によく似ている。
「そうだけど……」
縋るように抱きしめた。けれど腕の中にあるのは無骨な鋼の塊だけだ。額を寄せても、彼女の体温は返ってこない。その「返ってこない」ことが、ここにいるのは彼女の魂だけなのだと、かえって突きつけてくる。
耳の裏がじわりと熱を持った。
「ねぇ、茉凜……」
《《なぁに?》》
変わらない声音。近くて、遠い。
「今日のこと……どう思った?」
答えを聞くのが怖くて、シーツを握る指に力がこもる。
《《とっても素敵なことだと思うよ》》
即答だった。迷いのない響きに、肩の強張りが少しだけ緩む。
「本当に? 本当にそう思ってる……?」
《《うん、前にあなた言ってたでしょ。『別の街に行ったら考えてみる』って。これはチャンスだよ。あのヴィルだって、ぶつくさいいながらさ、あなたのこと応援してるじゃない》》
言葉を追ううち、浅かった息がゆるやかに長くなっていく。
「それはそうなんだけど……あんな凄腕の職人さんが作るウィッグとかドレスなんて、信じられないくらい特別なものだから。いまのわたしなんかには分不相応っていうか……」
期待がふくらむほど、その先を思うのが怖くなる。背中を押してほしいと願いながら、足がすくむ。
《《なに言ってるの。その特別さがいいんじゃない? ほら、あなたがわたしに魔法をかけてくれた時みたいにさ》》
声音が弾む。記憶の底から、前世の色彩が湧き上がった。茉凜の誕生日。当時「弓鶴」だったわたしが贈った、一着のドレスという名の魔法。
「うん……」
頷きながら、あの日の彼女の笑顔を思い出す。鏡の前で何度も回って、裾を揺らして、目を輝かせていた姿。
《《『いつでも戦えるぞ』って感じのあなたも素敵だけど、たまにはもっと自由に、おしゃれを楽しんでほしいな、ってのがわたしの本音かな。それと、あなたが着飾るってことは、わたしが着飾るってことでもあるんだよ?》》
真っ直ぐな信頼に、顔の熱が引かない。
「そうか。そうだよね。気づかなかった」
腕の中の剣が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。彼女の言葉が、金属を通して伝わってくるみたいに。
《《というわけで、わたしは期待しているのさ》》
「だったら、そうする。……そうしたいって、今は心の底から思うの」
茉凜が笑うなら、それだけで、閉じた瞼の裏にも色が戻るようだった。
《《うん、それがいい。リーディスを見て回るなら、皮の鎧なんて脱いで、思いっきり羽を伸ばさなきゃ。お金ならたっぷりあるんだしさ》》
思わず口元が緩んだ。食べ物の話へ戻す現金さが、今はありがたかった。
「茉凜って、相変わらず乗せるのが上手ね」
《《はて? なんのこと?》》
とぼけた声に、鼻の奥がくすぐったくなる。
「とぼけないの。本当のところ美味しいものを食べることしか考えてないんでしょう?」
《《ちっ、バレたか。『いかにも、それこそが我の真の野望なり』。うふへへへ……》》
頭の内側に広がる笑い声につられ、胸のつかえも薄れていく。
「開き直ってまぁ……そりゃあなたはいいわよ――体重なんて気にしなくて済むんだから。でもね、食べるのはわたしの身体なのよ? せっかく素敵なドレスを作ってもらっても、太っちゃったら着られなくなるじゃない」
《《あはは、それもそうだね。じゃあ量より質、一点豪華主義でいこうか。ドレスコードもばっちり決めて、美食の頂点を味わおうよ》》
楽しげな声が、すぐそばにあるように聞こえた。
「まったく、あなたって呑気なんだから」
呆れたふりをして、わたしは剣の柄に額を押し当てた。
柄の冷たさは変わらない。それでも、彼女と言葉を重ねるうちに、触れられない痛みはいくらか遠のいていた。少しくらい無茶な願いでも、彼女と共犯になれるなら、それは幸福と呼んでいいはずだ。こんなふうに、くだらない話で夜の深さをやり過ごせるなら。それだけで、わたしはまた明日も息ができる。




