変わりたい私と春色の夢
奥の小部屋に通されたとき、心臓がひときわ強く、警鐘のように脈を打った。
ミースが後ろで扉を閉める。ぱたん、と木の鳴る乾いた音が背中側で小さく跳ねた。高い位置にある小窓からは柔らかな午後の光が差し込み、舞い遊ぶ埃を淡く照らしている。それなのに空気は薄く張りつめていた。
彼女は職人らしい手慣れた手つきで、作業台の上に計測道具を並べていく。目盛りの刻まれた木製メジャー、しなやかな革のリボンメジャー、そして銀色のピンの山。卓に触れるたび、コト、カチ、と硬質な音が静寂に落ちる。その指先は驚くほど落ち着き払っていて、動きに一片の無駄もない。
「リラックスしてね。私に任せてもらえれば、大丈夫よ」
経験の重みを帯びた、それでいて春風のように軽やかな声だった。その声音にわずかに安心させられながらも、頬の芯に集まった熱は引かない。
わたしは視線を足元の床板に落とし、言われるままに一枚ずつ服を脱いでいく。
ボタンを外す指がもどかしいほど震えた。最後の布が肌を離れるたび、ひやりとした工房の空気が素肌にまとわりつき、思わず肩がすくむ。裸の無防備さが、精神的な鎧まで剥がされたようで心細い。
視線から逃れるように、わたしはそっと目を閉じた。
ミースは足音を立てずに背後へ回り、腰を下ろすと、肩幅から正確に測り始めた。鎖骨の上を滑る指先はひんやりとしていて、けれど不思議なほど滑らかだ。メジャーがしなやかに肌を撫で、位置を微調整するたび、布の擦れる音が小さく響く。
彼女の姿勢は揺らがず、時折漏れる呼吸のリズムからは、対象を「素材」として見定めるプロの集中が伝わってくる。
「ここがポイントよ。少し背筋を伸ばして――そう、そのまま」
ウエスト、ヒップ、そして胸囲へ。細い指が軽く触れるたび、小さな電気のような震えが背筋を走る。手際のよさに引かれて、緊張で強張っていた筋肉が徐々に緩んでいくのがわかる。けれど、女性同士であっても、晒されている居心地の悪さは消えない。
喉の奥が乾き、唾がうまく飲み込めなかった。
分かっているのに、体が追いつかない。肌に触れる冷えより、そのずれのほうが痛かった。
壁際の小さな鏡が、淡い光を返している。
鏡に映る自分を見るのが怖い。未熟で、頼りなく、ちぐはぐな自分。
「そんなに固くならないで。緊張してると正確に測れないからね」
冗談めかした笑い声が、頭上から降ってくる。
柔らかな声音に、隠したくなる衝動がまたこみ上げて、わたしは唇を強く噛んだ。
「ご、ごめんなさい……」
謝るのは、もはや条件反射になっていた。
メジャーが腰を回るたび、未発達な身体へのコンプレックスが顔を出す。大人の記憶があるからこそ、この幼児体型がもどかしい。きっと彼女の目には、貧相な子供に見えているに違いない。
情けなさで息が詰まりそうになったとき、ミースの手がふっと止まった。
顔を上げると、まっすぐに見つめられていた。その瞳には、侮蔑も憐憫もない。ただ、原石を見つめる宝石職人のような、熱っぽい輝きがあった。
「ミツルちゃん、自信を持って。あなたの身体は、今のあなたそのものなのよ。何も恥ずかしがらなくていいの」
彼女の手が、わたしの華奢な肩を包み込む。
「安心して。この私が責任をもって、あなたの魅力を最大限に引き立てる、素敵なものを作ってみせるから。ああ、この肩のラインもとても綺麗だわ」
真摯な瞳と言葉が、背の奥へ温かく沈んでいく。
肩の力が、遅れてほどけた。
誇りと優しさを同時に帯びたその声に、凝り固まっていた強張りが、少しずつ、音を立てて解けていった。自分の身体を肯定されることが、これほどまでに心を軽くするなんて知らなかった。
採寸が終わると、部屋の張りつめた空気がわずかに緩む。わたしの呼吸も、ようやく自分のものに戻り始めた。服を着直し、深呼吸をひとつしてから、待たせていたヴィルを部屋へ招き入れる。
彼は入ってくるなり、わたしの顔色をうかがうように一瞬視線を走らせ、それから何事もなかったようにミースに向き直った。その不器用な気遣いが、今は心地よい。
ミースは手早く道具を片づけ、わたしたちを中央の大きな作業テーブルへと招いた。
広げられたのは、分厚い色見本帳と、数枚の真っ白な紙、そして木炭。紙の上に並ぶ色の帯と線の図案が、窓からの光を受けてかすかに艶めく。見ているだけで、指先が小さく跳ねるような高揚感があった。
「さて、まずはウィッグの色から決めましょうか」
ミースが楽しげに切り出し、ページをめくる。
ヴィルが腕を組み、低い声で口を挟んだ。
「俺の立場から言わせてもらえば、できれば人混みの中に溶け込めるような、あまり目立たない色がいいと思うんだが。たとえば茶色とかくすんだ金色……街娘らしい色が望ましい」
理にかなった声音。現実的で、慎重で、いかにも彼らしい意見だ。
――やっぱり、彼にとっての最優先事項は、わたしの身の安全なんだ。
わたしは小さく頷く。正しさはわかっている。目立たない色なら、任務も旅も平穏に進むだろう。誰の目にも留まらず、影のように通り過ぎる。それが賢い選択だ。
――それでも。
胃の底に、釈然としない微かなざわめきが残った。
これを機に、何か新しい自分を試してみたい。普段のわたしではない、少しだけ大胆で、ほんの少しだけ魅力的な自分。ささやかな願いが、反抗のように内側で囁く。ただ隠れるだけでは、何も変わらない気がして。
ミースが顎に指を添え、じっとわたしを見た。その瞳に、チロリと好奇心の火が灯る。
「そうかもしれないわね。でも――」
小首をかしげ、わたしへ視線を返す。
「せっかくの変身が、それじゃあ楽しくないんじゃない?」
思いがけない風が吹き込んだようだった。変装は慎重であるべき――と固まっていた考えに、無邪気な隙間があく。
「うーむ。楽しく、か……」
ヴィルは眉間に深い皺を寄せ、唸るように言った。彼の中にはない概念なのだろう。
ミースは目を輝かせ、畳み掛けるように続ける。
「どうせなら、あなたの魅力を存分に引き出せる色にしましょうよ。もちろん安全も大切だけど、隠れてばかりじゃもったいないわ。うまくいけば、あなたの個性だって生かせると思うの。変装っていうのはね、別人になることじゃないの。新しい自分を見つけることなのよ」
職人の熱が言葉に宿り、空気を震わせる。
「あたらしい、じぶん……」
指先がそわそわと落ち着かなくなる。守るためだけの「隠れる」から、少しだけ前へ踏み出す「攻め」の姿勢。
「……確かに、ちょっとくらい冒険してもいいかも」
気恥ずかしさを隠すように、笑みがこぼれた。
ヴィルの顔色をうかがうと、彼は一瞬だけ困惑の影を浮かべてから、やれやれと肩をすくめた。
「……ま、お前が楽しめるなら、それでいいんじゃないか。よく考えてみれば、あまり地味すぎても、逆に怪しまれこともありうる。なるほど、堂々としている方が案外目立たないかもしれんな」
苦し紛れの理屈にも聞こえるけれど、そこには不器用な優しさが滲んでいた。
首筋の強張りが、ふっと緩む。
「決まりね!」
ミースがパチンと指を鳴らし、色見本の一角を指さした。
「この色なんてどうかしら?」
彼女が示したのは、ありふれた茶色でも、派手な赤でもなかった。春の新緑のような、淡く、透明感のある薄い緑色。みずみずしく、控えめな光をたたえたその色に、思わず手が伸びかける。
「これなら、明るすぎず、それでいて少し遊び心があるわ。光の加減では落ち着いた色にも見えるし、何より……」
彼女はわたしの顔を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
「最初にあなたを見たとき、その薄い緑の瞳がまるで泉の底を覗いているように感じられたの。とても神秘的で、綺麗だなって……。その色のウィッグを合わせれば、きっとあなたの瞳の可愛らしさがより引き立つと思うのよ」
「わたしの……瞳……?」
無意識に、自分の目元に手が触れる。
喉の奥がふっと温かくなる。自分では気にも留めていなかった色が、誰かの目に美しく映るのなら。ただ隠れるだけではない希望が、静かに芽吹いていく。自分の身体の一部を肯定されたようで、くすぐったいような喜びが込み上げた。
「それなら、試してみたいかも」
そう言うと、ヴィルが驚いたようにわたしを見て、それから目尻を下げて苦笑する。
「お前が決めたなら、文句はないさ。お前の好きなようにすればいい。……きっと似合うと思うぞ」
最後の付け足すような一言に、耳の奥がじんと熱くなった。
「じゃあ、色はこれで決定。次はドレスのデザインね」
ミースは楽しげに鼻歌交じりでスケッチへ手を伸ばす。木炭が紙の上を走る、サリサリという音が心地よく響く。
「派手すぎず、動きやすく、それでいて可憐で可愛らしい。そんなデザインを考えましょう!」
黒い線が紙の上を走り、次々と形が生まれていく。白い紙の上で、わたしの知らないわたしが輪郭を得ていくようだ。
「ねえ、ミツルちゃん。動きやすさも大事だけど、少しフレアが入ったデザインなら可憐さも出せるわよ。裾に少しだけレースをあしらって……風にそよぐような感じ、どうかしら?」
想像がふくらむ。軽やかで、動くたびに表情を変える布。風を孕んで揺れるスカート。それは、重たい運命をひととき忘れさせてくれるような、軽やかな自由の象徴に見えた。
「それ……素敵かも」
わたしの声が弾むと、ミースが大きく頷く。
「でしょう? 襟元は少し開けて、鎖骨を綺麗に見せましょう。あなたの素敵なラインを活かさない手はないわ」
次々と提案されるアイデアに、わたしはただ頷くことしかできない。けれど、そのたびに指の腹がむずむずして、落ち着かない。
ヴィルは腕を組んだまま、そんなわたしたちの様子を眺めていた。
「ずいぶん乗り気じゃないか。これは期待できそうだ」
呆れたような口調だが、その瞳の奥には、穏やかな光が宿っていた。
こうして、ウィッグの色とドレスのデザインが決まった。
守りと遊び心を両手に抱えたまま、わたしは新しい一歩を踏み出そうとしていた。




