そわそわする黒髪
ヴィルは昨晩の酒場で女から受け取ったメモを、一度だけ確かめて歩き出した。折り畳まれた紙はすぐ懐へ消え、彼の指先だけが紙の角の感触をまだ覚えているみたいだった。
昼下がりの日差しが石畳に長い影を落としている。ぬるい光が足元を照らし、どこかの家の窓から漂うパンの焼ける香ばしさが鼻先をかすめて通り過ぎた。乾いた風が頬を撫で、髪の先がわずかに揺れる。
人波の切れ目を選んで進むうちに、街の匂いが少しずつ変わっていく。市場の喧噪が遠のき、古い石と漆喰の静かな家々の気配が濃くなる。
わたしとヴィルは、紹介された職人を訪ねるため、静謐な区画を歩いていた。
「これが、職人の名前と住所だ」
差し出されたメモを覗き込むと、丁寧な字で記された名前が目に入った。インクの線が端正に並び、書き手の癖がない。几帳面というより、息を殺すような手つきで書かれている。
「……人形職人――ミース・フォリノール」
昨夜、彼が酒場で出会ったという女性の話が脳裏に蘇る。ピンク色の鮮やかな髪が目を引いた、と。派手なのに、妙に乱れない。生え際の揃い方が不自然だった。
普通では手に入らない長い髪。その髪が人毛のかつらだと分かったとき、胃の奥に小さな棘が残ったまま、同時に職人の技術への興味が疼いた。
ヴィルが、歩きながら昨夜の話を反芻するように口を開く。
「話によると、かつらはその職人に特別にオーダーして作らせた一点物だそうだ。ただの被り物じゃない。人毛の選定から植毛の密度まで、徹底しているらしい」
一点物。注文で作るなら、幼いわたしの頭にも合わせられるかもしれない。指先が無意識に髪を探し、黒い束の手触りだけを確かめてしまう。
「人形職人というのがちょっと引っかかるんだけど、あなたから見て出来具合はどうだった?」
「率直に言って、あまりの自然さに驚くばかりだった」
彼はそこで言葉を切り、肩をわずかにすくめた。軽い仕草なのに、肩の付け根が沈んだ。
「特に染色技術は独自のもので、どんな色でも自在に出せると、耳にタコができるほど聞かされたよ。本人曰く熱烈なファンなのだとさ。……あの熱弁を信じるなら、腕は確かだろう」
「へーっ……」
その瞬間だけ、喉の奥に神秘と違和感が一緒に落ちてくる。わたしは掌で黒髪をそっとすくい上げた。光を受けて揺れた毛先が指に絡みつき、からりと乾いた。
「その職人が作る人形は、かなり独特だとも言っていたな。なんでも人間の三分の一ほどの大きさで、驚くほど精巧で、目や指先まで生きた人間と変わらないそうだ。服も一針一針縫われているらしい。リーディスの貴族連中も、その『生々しさ』に惹かれて大枚をはたくとか」
三分の一サイズ。抱えれば腕に収まるのに、視線だけで部屋を支配しそうな大きさだ。艶のある髪。縫い目の細い衣装。想像が膨らむほど、胃の底がひやりと甘く刺激される。
やがて、目的の工房に辿り着く。
外から見れば古びた扉が時間の積み重ねを物語っていた。けれど、小さな庭には可憐な花々が咲き、風が吹くたび花びらが小さく震える。甘い香りが、ここがただの古家ではないと告げていた。
「人を惹きつけてやまない、ある種魔性の芸術品ってことなんだろうね……」
ぽつりと呟くと、ヴィルは一瞬だけ目を細めて頷いた。肯定は短く、余計な飾りがない。
「違いない。変わり者だそうだが、腕だけは本物だと保証していた」
扉の真正面に立つ。年季の入った木目が、どこか温かい。小さな看板には手描きで『ミースの人形工房』と記されていた。
掌に汗がにじむ。無意識のうちに、手が剣の柄を探す位置で迷った。
「いよいよだね……」
小さくそう呟いて、わたしは扉に手をかけた。木目のざらつきが手のひらをなぞる。カラン、と小さなベルが可愛らしい音を奏でた。
扉の向こうから漏れ出したのは、木と布と油、それにどこか甘い香りが混ざり合った濃密な空気だった。
中へ足を踏み入れた瞬間、時間の流れが変わる。棚に並べられた人形たちのガラス玉の瞳が、こちらを静かに追っているようで、背筋が粟立つのに、神聖な静けさが満ちていた。
「いらっしゃい」
工房の奥から現れたのは、瞳に好奇心の輝きを宿した若い女性だった。腰にはエプロンを巻き、布地には愛らしい花模様が散りばめられている。ふわりと浮かぶ笑顔が、室内の匂いを少しだけあたためた。
「まあ、これは驚いた……。お人形さんが歩いているのかと思ったわ!」
視線はすぐにわたしの長い黒髪へ吸い寄せられる。息を吸う気配のあと、ため息混じりの言葉が零れた。
「なんて艷やかで、深い闇の色……。美しいわ、こんな素敵な“素材”は初めて見る!」
胸の芯が熱を持ってほどけていく。黒髪は不吉なもの。そう忌み嫌われるのが常識のこの世界で、彼女の目には純粋な「美」として映っている。
思わず指で髪を撫で、耳の後ろへそっと払う。くすぐったいような恥ずかしさが頬の内側を熱くしていく。同時に、この髪を褒められることが嬉しい一方で、わたしを縛る現実もまた、この髪と切り離せないのだと思い出してしまう。
「俺の名はヴィル。こいつはミツルといって、理由あって共に旅をしている」
自己紹介の声はいつも通り淡く、余計な温度がない。その冷静さがこの工房の空気と不思議に喧嘩をせず、床に落ち着いた。
◇◇◇
「――といった事情で、彼女に偽装用のかつらを作ってもらいたいのだが」
低く落ち着いた声が、工房の静けさに溶け込むように響いた。ミース・フォリノールは真剣な表情で話を聞きながら、時おりわたしへ視線を向けてくる。瞳はきらきらと好奇心に輝き、まるで新しい扉を見つけた子どものようだ。
「なるほどね。よーく分かった。その依頼、引き受けさせてもらうわ」
「本当ですか?」
声が弾んでしまう。心臓が早鐘を打ち、足の指先にまで熱が流れ込んだ。ミースは微笑みながら、そっとわたしの髪に触れた。その手は驚くほど温かく、どこか母親の手のひらを思わせるぬくもりがある。
髪が擦れる微かな音だけが、静かな室内にやけに大きく響いた。
「だいたい、この美しい黒髪を隠さなきゃいけないなんて世界の方が間違ってるのよ」
その熱量に、小さく息を飲む。
「そういえば黒髪って……中央大陸では、すごく珍しいって聞いたことがあります」
自信なげに呟くと、ミースは髪を一房すくい上げ、光にかざした。窓から差し込む陽光を受けて、黒い髪が青みがかった艶を放つ。
「そうなのよ、とびきりの希少価値。特にあなたみたいに艷やかな漆黒なんて、宝石より得難いわ。なのにお隣のリーディスは、いまだに『黒髪は不吉』だなんて迷信に縛られてる。……本当に、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない」
呆れたように肩をすくめ、それからニカっと悪戯っぽく笑う。
「けどまぁ、仕方ないわね。あなたが自由に王都を歩けるように、わたしが『最高に映える色で』仕上げて見せるから」
弾む声と、職人の矜持の硬さ。その二つに圧倒されながら、固く結ばれていた緊張の紐がするりとほどけていく。
けれど次に飛び出した提案は、さらに大きく心を揺さぶった。
「ねぇ、せっかくだから髪の色に合わせてドレスも仕立ててみない? わたしに任せてくれれば、あなたをもっと素敵に変身させてあげられるわよ」
「ド、ドレスですって!?」
声が裏返った。両手でスカートの裾をぎゅっと握りしめ、視線を跳ね上げる。そんな発想は一度も持ったことがない。なのに、ミースの瞳はますます輝きを増し、今にもその場で踊り出しそうな勢いだ。
その熱に気圧されていると、横からヴィルの低い声が割り込んだ。
「うむ、いいアイデアだ」
「ヴィル、あなたまで……」
「俺の考えとも合致する。王都は大陸一の文明先進国だ。総じて人々の身なりもいい。そこに見窄らしい旅装束じゃ、かえって浮く。合理的だろ?」
言葉は淡々としているのに、そこだけ作戦会議の匂いがする。言い訳も、照れも、挟まない。必要な順番だけを置く。
「まぁ、たしかに『葉を隠すなら森の中』とはいうけれど」
一瞬、前世の慣用句が口をついて出た。ヴィルの眉が怪訝そうにわずかに寄る。けれど彼は何も問わず、短く咳払いをして話を継いだ。
「ミース・フォリノール。あんたの腕を買おう。金ならいくらでも惜しまん。彼女を最高傑作に仕上げてやってくれ」
「はぁっ!?」
反射的に一歩後ずさる。視線がヴィルとぶつかる。彼は真面目な顔を崩さないまま、視線だけで「気にするな」と告げていた。そこにあるのは押しつけではなく、ただの決定だ。
お洒落に興味がないはずの彼が、ここまで肩入れしてくれる。その事実が、胃の奥で燻っていた不安を塗り替えるように、じんわり温かく広がった。
「もちろんよ。任せてちょうだい。あーっ、燃えてきたーっ!」
ミースの情熱が、工房の空気そのものをさらに加熱していく。わたしはまだ戸惑いを抱えながらも、その笑顔に押されるように、そっと頷いた。
《《おおーっ、変身イベントキタ~! これは楽しみになってきたね。大丈夫。なんたって素材がいいんだから、きっと素敵になるよ!》》
腰のベルトに下げたマウザーグレイルの中から、茉凛のわくわくした声が弾んだ。その声に背中を押されるように、肩に入っていた力が抜けていく。
「みんなして調子に乗って……。でも、こうなったらしょうがないわね」
握りしめていたスカートの裾から指を離すと、こわばっていた指先にようやく血が巡る感覚が戻ってきた。
工房に満ちる布と木と糸の匂いの中で、これから自分がどんな姿に変わっていくのかを思い描きながら、指の腹で小さく脈が跳ねるのを、わたしは確かに感じていた。




