ヴィルとの対決
翌日の昼過ぎ。約束の刻限より少し早く、わたしはハンターギルドの重い扉をくぐった。冷えた外気を切り離した内側は、魔石取引の熱に満ちている。鉱物臭と古びた木の匂いが濃く混ざり、喉の奥へ乾いた粉みたいに残った。
受付脇の黒板には、純度と重量だけが並び、名前はない。ここでは、獲った石の数だけが挨拶の代わりだった。
ソロでもパーティでも構わない。けれど、わたしはいつも単独だ。
今日は違う。ヴィルとの約束まではまだ少しある。それでも、あの男はきっと来る。そう思うたび、胸の奥で小さな火がくすぶった。
背後で、包帯の擦れる微かな音がした。
「よお、ミツル。調子はどうだい?」
振り返ると、右腕に包帯を巻いた罠職人のマティウスが、笑いながら腕を軽く揺らした。
「まあまあ、というところかしら。そっちこそ怪我は大丈夫?」
「へっ、こんなのかすり傷さ。罠職にとっちゃ大した問題じゃない」
軽口の続きみたいな声で放たれた次のひとことが、胸の奥へ小さな波紋を落とす。鉱物臭の重さが、その瞬間だけ鼻の奥へ引っかかった。
「ところで酒場で聞いた話だが、なんでもお前、果たし合いをするとか?」
目を細め、息だけを整える。
「なによ、その物騒な話は。ただの手合わせ、練習試合みたいなものよ。誤解も甚だしいわ。噂って、これだから困るのよ」
マティウスは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「そりゃまぁ、ここは娯楽に飢えた連中が多いからな。んでもって、昨夜からみんな賭けを始めてるってわけだ。『黒髪のグロンダイル対謎の剣士』って具合にな」
胃のあたりがぎゅっと縮む。熱気が肩口へ寄り、空気がいっそう濃くなった。
「呆れた。本当に暇人ばっかりね……」
吐き捨てた瞬間、周囲の視線が次々と寄ってきた。笑い声が近づき、革と汗の匂いが混ざる。
「黒髪のグロンダイルに挑戦状を叩きつけるとは、怖れ知らずも甚だしい。なにせ君はこの界隈でも最強の魔術師だからね。並みの剣士ごときに間合いを詰められるなど、想定すらできないさ」
長身の槍使い、マークが顎をしゃくって言った。最強という二文字だけが胃の底で丸く固まり、頬の内側がこわばる。
――最強ですって? どこが。
言葉は歯の裏で引っかかった。わたしが狩ってきたのは、手応えの薄い獲物ばかりだ。刃を人へ向けた記憶などありもしない。
その相手が、父の名を口にする男。しかも、剣で。
視線を落とす。掌の内側へ爪が触れ、すぐ止まる。鎧の下で息がうまく広がらない。悟られたくなくて、瞼だけをゆっくり閉じた。
床石の目地がわずかに伸び縮みして見える。耳の奥で薄い耳鳴りが立ち、視界の縁が白みかける――視界が先に走る、わたしの悪い兆しだ。
手合わせ。練習試合。そう言い切ったくせに、胸の内では別の名がゆっくり重くなる。父を知る男。黒髪のグロンダイル。本来なら背負うはずもなかった札が、肩へ一枚ずつ乗ってくる。
舌先で唾を押し込み、息をひとつだけ吐いた。好奇の言葉を受け流しながら、心の中で静かに剣を握る。
「そんな簡単に済む相手じゃないだろうけどね……」
小さく呟いてから、わたしは受付カウンターへ歩み寄った。
修練場使用の申請用紙を引き寄せ、端を何度も揃える。紙の角が指腹をかすめ、乾いた感触だけが皮膚へ残った。
マスターのベルデンさんだけは、この粗野な場所で別格だった。細身で身なりが整い、常に落ち着いている。
「こんにちは、ベルデンさん」
わたしの声に、彼は書類から目を上げ、品の良い微笑みを浮かべた。
「こんにちは、グロンダイルさん。昨日はご苦労さまでした。カイルくんたちから聞きましたよ。よく彼らを助けてくれましたね」
指が用紙の縁を握りすぎて、紙がわずかに鳴った。
「カイル……?」
思い出す。昨日、谷道で助けた若い剣士の顔。魔石の取り分でぎこちなく礼を言った、あの一団のことだ。
「それは、まあ……たまたま通りがかっただけだし」
素直に受け止められず、頬がかすかに熱くなる。つい目をテーブルへ落とした。
咳払いをして話題を切り替える。喉の手前に残った硬さが、音だけを短くした。
「マスター、これから修練場を使わせてもらいたいんだけど、いいかしら?」
ベルデンさんは淡々と頷く。
「どうぞご自由にお使いください」
ほっと息をついて礼を言おうとしたとき、彼は控えめな笑みを浮かべたまま続けた。
「念のため申し上げます。損害が生じた場合は、実費にて原状回復をお願いしておりますので、ご留意ください」
さすがベルデンさん、勘定に抜かりはない。その事務的な口調が、逆にわたしの背を少しだけ伸ばした。
「わかったわ。ちょっと危険かもしれないから、誰も立ち入らせないようにして」
ベルデンさんは丁寧に頷いた。
「わかりました。では、ご武運を」
声色は変わらない。けれど語尾の落ち方だけが、いつもよりほんの少し柔らかい。
その微かな重みを受けながら、わたしはギルドの奥へ足を進めた。次第に明かりの減る廊下。石床に響く足音が冷たく、規則正しい拍で心臓を叩く。
掌の内側には、紙の乾きがまだ残っていた。
◇◇◇
修練場の扉を開けた瞬間、わたしは小さく息を呑んだ。
そこには、すでにヴィルが立っていた。腕を組み、静寂の中へ輪郭だけを置いている。先に来ている――そう気づいた途端、喉の手前が狭くなる。
「よう、来たか」
鋭いまなざしが肌を刺す。わたしは一拍遅れて足裏へ体重を落とし、床の冷えを確かめた。目だけは逸らさない。
「ええ、約束どおりにね」
ヴィルは軽く口元を綻ばせ、腕を解いた。音もなく距離を取り、無言で剣を抜く。
柄が、かすかに鳴る。
わたしもまた、白い剣を抜く。刃のない刀身が灯りを返し、淡い光が修練場に緊張を滲ませた。
ふと、ヴィルの剣へ目を凝らす。彼の体格に対して驚くほど短い刃。大柄な剣士なら、リーチを生かすのが定石のはずだ。それでも彼はそれを選ばない。これが彼の流儀なのだろう。
ヴィルは剣を微かに揺らして感触を確かめると、低く静かな声で言った。
「まず、始める前にルールを決めよう」
壁の石肌が冷たく見え、ベルデンさんの言葉が一瞬だけ脳裏をかすめた。
「ルール?」
「こうしよう。俺の打ち込みに二度耐えられたらお前の勝ちだ。魔術は自由に使ってくれていい。ただし、この修練場を壊さない程度にな」
二度。たった二度の打ち込み。だが、これが彼なりの均衡なのだろう。わたしは静かに頷く。
「それでいいわ」
「では、いくぞ……」
その声が低く響くと同時に、ヴィルの気配が変わった。空気が張り詰め、薄氷を踏むような緊張が背筋を走る。わたしは剣を構え、躊躇いだけを押しやった。
父との繋がりも、わたしの力の証明も、この二撃にかかっている。
呼吸を整え、全身の神経を研ぎ澄ませた。手に握るマウザーグレイルの感触だけが、やけに鮮明に伝わってくる。集中しようとするほど、茉凜の柔らかな声が心の奥底へ降りてきた。
《《美鶴、マウザーグレイルの力、使ってみる?》》
その問いかけに、張っていた息がひとつほどける。
「うん、力を貸して。あなたの『導き手』の力――予知の視界を使ってみよう」
一瞬の沈黙。ためらうように、茉凜は小さく声を震わせる。
《《でもね……あれって絶対じゃないよ。『やばい』ってものが迫った時に、勝手に視界が変わって、少し先が見えるだけ。常時発動なんて都合のいいもんじゃない。それに、未来は可能性が重なり合って揺らいでいるから……》》
まだ来てもいない暗転の気配が、瞼の裏をかすめる。
「わかってるよ」
背景が落ちて、白い像だけが残る。見えるのは、ほんの数拍。それだけでも、いまは足りると信じるしかない。
「ありがとう、茉凜。わたし、あなたを信じて全力でやってみる」
心の中で、茉凜がやわらかく微笑んだ気がした。
《《大丈夫、きっとできるよ。だって、わたしたちは――『ふたつでひとつのツバサ』なんだから》》
「ええ……」
その優しい言葉が、内側の暗がりをひと息だけ薄める。わたしはまっすぐ前を見た。
ヴィルは剣を上段に構える。靴底が石床をかすめ、微かな擦過音が走る。
古い武法書の図を思わせる構え。けれど下半身を深く据えたその姿から滲む威圧は、尋常ではなかった。
深く息を吐き、跳ねかけた拍を鎮める。指が冷え、柄の感触だけがやけに鮮明だった。
この狭い修練場で要るのは派手さじゃない。わたしは『深淵の黒鶴』へ伸びかけた意識を引き戻し、背後に〈場裏・白〉を展開した。領域の内側へ大気だけを抱え込み、沈黙のまま圧を高めていく。一度で決めるしかない。
呼吸を薄く削り、圧を保つ。
だが、ヴィルの動きがまったく読めない。微動だにせず、ただこちらを見据えている。そのまなざしが、皮膚の内側を撫でるみたいに冷たかった。
《《美鶴、落ち着いて。今は準備に集中して》》
茉凜の声が、金属の冷えを一滴だけ温める。わたしは頷き、圧縮の速度を崩さない。
《《視覚が切り替わってからじゃ遅い。動き出す前の『兆し』を、なんとなくでいい、感じ取るしかないよ》》
「うん……」
息を浅く吐く。ヴィルは上段のまま、刃の重みを静かに支えていた。足が半歩ぶん擦れ、乾いた音がひとつ走る。それだけで、空気の密度が変わる。
待つ。圧縮は内側で静かに膨らみ続ける。領域はまだ解放しない。躊躇えば終わる。
威圧が、空気をさらに重く染め上げる。集中を切らさず、その変化だけを待ち続けた。
床石の目地が一瞬だけ伸び、視界の縁が白む。耳の奥で薄い音が立ち、みぞおちの奥が押し潰されるように固まった。
ヴィルの肩が、ほんの僅かに沈む。
次の瞬間、視界が闇に落ちた。背景は漆黒に沈み、白い像だけが浮かぶ。白の中で、ヴィルの動きがくっきり映る。ほんの少し先。それでも、身体が追いつくかはわからない。
ためらっている暇はない。
背後の〈場裏〉へ意識を走らせ、外縁を前へ滑らせる。指が一度だけ痺れた。
――領域解放。
溜め込んだ圧縮空気が吐き出され、突風が修練場を切り裂いた。烈しい風がヴィルの剣へ真正面からぶつかる。髪が頬へ叩きつけられ、目尻がきしんだ。
だが、ヴィルの剣は意に介さなかった。剣先が空気の塊へ入った瞬間、爆風は、刃の前で勝手に裂けていく。修練場の壁に亀裂が走り、石粉の匂いが一瞬だけ立った。
――実費。
闇の像が弾けた次の拍、現実が白く潰れた。
余波が空間を震わせ、床の目地に小さな砂が跳ねる。舌が上顎に貼りつき、喉で音が詰まった。
剣そのものが、風より速い。ヴィルの剣が空間を裂き、見えない圧力がわたしに迫る。
わたしは瞬時にマウザーグレイルの刃なき刀身をもう片方の手で支え、正面に掲げた。予知の像に合わせた動きは、ほんの僅かだけ遅れる。そのズレが、腕へ早く重さを呼び込んだ。
剣閃。耳を裂く金属音。胸を叩く衝撃波。寒い。光と闇の境目で、時間が断たれる。
剣圧が刀身を直撃し、刃なき剣が悲鳴を上げるように震えた。腕がきしみ、足元へ衝撃が抜ける。踵が床石の目地を越え、半歩ぶん後ろへ滑った。咄嗟に内側の圧を整える。けれど、和らぐのは一息分だけだ。
「ぐっ……!」
歯を噛み、息を呑む。剣の内側から、茉凜が声を失う気配が伝わる。《《美鶴……!》》と、声にならない声が内側を叩いた。必死に息を呑む微かな震えとともに、確かに彼女が息を共にしている気配があった。
わたしの指が白くなる。握っているのは剣なのに、握り返してくるのは圧だ。
鋼の閃光は、外気の冷たささえこの修練場へ吹き込むようだった。




