あなたがいてくれるから
明日の昼過ぎ。修練場で――。
そう言い置いた自分の声が、まだ唇の裏に薄く残っていた。
夜気が耳の縁を冷やす。石畳の継ぎ目を踏むたび、靴音は灯の落ちた路地へ小さく返り、すぐ闇に吸われていった。歩いているあいだも、ヴィルの古傷の走る手と、あの静かな目ばかりが浮かんでは消える。
宿へ辿り着くころには、一日の疲れが肩から腰へ重く降りていた。
木の扉を押し開け、鎧の留め具を外していく。革と金具が触れ合う乾いた音が、冷えた部屋にひとつずつ落ちた。脱いだ鎧を壁際へ置き、白い剣を抱えたまま硬い寝台へ身を倒すと、浅い藁が膝裏で軋み、背骨に残っていた力が布の下へ抜けていった。
「茉凜、今いい?」
瞼を閉じ、柄に触れた指先で、金属の奥にいる彼女を探る。
暗がりに光の粒が集まり、懐かしい輪郭を結んだ。ミルクティーブラウンのショートヘアがふわりと揺れ、大きな瞳がまっすぐこちらを見る。唇には、いつもの淡い微笑みがあった。
《《おつかれさま、美鶴。さっきは大変だったね》》
その声が届くと、肩甲骨のあいだに残っていた張りが、ようやく少し退いた。
「ごめんね。『急に黙ってて』なんて言って……。あなたにも、言いたいことがきっとあったはずなのに」
茉凜は首をふるりと振った。髪の先からこぼれた光が、暗がりの中で小さく跳ねる。
《《ううん、気にしないで。『ミツル』にとって、とっても大事な話だったから、わたしが口を挟むことじゃないと思ったの》》
喉がかすかに詰まった。
誰も眠っていない隣の寝台だけが、妙に近く見える。胸の奥で止めていた息が、ようやく細く通った。
「ありがとう……」
茉凜は、わたしの指を包むように手を差し出した。
指先が重なるはずのところには、何もない。それでも、掌の丸みも、触れたときの体温も、記憶のほうが先に知っていた。
《《ヴィルとのこと、やっぱり気にしてるんだね》》
小さく頷く。頬の下で、シーツの布目がかすかに硬かった。
「うん……。ああは言ってみたけど、正直、自信なんて全然ない」
茉凜はすぐには答えなかった。暗がりの中で、髪の先の光が静かに留まっていた。
《《もちろんだよ。わたしは柚羽美鶴を信じてる。それとあなたが目覚める前の、ミツルという女の子が生きてきた時間も、お父さんとお母さんとの絆も、全部がいまのあなたを支えてる。それに、わたしがついてるんだから、絶対無敵だよ》》
前世のわたし。目覚める前のミツル。父と母に抱かれていた時間。
ばらばらに沈んでいたものが、茉凜の声の中で、ひとつの手のひらへ載せられていく。
それらがひとつになったわけではない。ただ、どれも零さず受け止めてもらった。次に吸った息は、さっきより深く胸へ入った。
茉凜は笑っていた。けれど、「絶対無敵」のところだけ、声がごくわずかに震えた。柄に触れた指へ、その震えが遅れて返ってくる。
握っていた指の力が抜ける。白い剣は、抱えた腕の内側へゆっくりおさまった。
「うん……。あなたがいてくれるだけで、本当に心強い……」
大きな瞳を見つめ返す。
脈の音が静かに揃っていく。差し出された手の形だけが、指先の記憶に残った。瞼が少しずつ重くなる。
「茉凜、いつも本当にありがとう……」
《《どういたしまして。わたしはいつでもあなたのそばにいるからね。安心して。さあ、もう寝よ》》
窓の外で風が鳴り、硝子戸が、かた、と揺れた。
「うん、おやすみ、茉凜……」
《《おやすみ、美鶴……》》
茉凜の輪郭が、暗がりの中でゆっくり薄くなる。
――明日の昼過ぎ。
耳の奥で、鞘の金具が小さく触れ合った。




