繋がれた命
卓上の白きマウザーグレイルが、紫苑の灯を細く返していた。鞘口から覗く白い剣身もまた、冷えた光だけを宿している。
柄へ伸ばしかけた指が止まる。触れるより先に、指先だけが冷えた。
「そんな、いきなり言われても無理よ。わたしは父さまから剣を教わっていないの。だって……触れることさえ許されなかったのだから……」
言い終えてから、唇の裏だけが遅れて乾いた。自分の声が耳へ届くまで、ほんの少しだけ間があった。
ヴィルはしばらく黙し、深く溜息をつく。吐き出された息には、古い苦みがわずかに残っていた。
「なるほど、あいつらしいな……」
言い慣れた名みたいに、ユベルを口にする声だった。灯の芯がかすかに鳴る。
「剣を握るってのは、敵の矢面に立つってことだ。傷は避けられん。あいつはそれを嫌というほど味わってきた。――だからだ」
その言葉は、肋の内側でゆっくり重さに変わる。目をヴィルの手へ落とす。無数の傷痕が刻まれた手。幾多の修羅場を潜ってきた証が、淡い灯の下で凹凸になって残っていた。
「そんなことくらい、わかってるわよ。だから……」
みぞおちがきゅっと縮む。卓上の白が、父の手つきを思い出させる。
ヴィルは再び剣へ目を戻し、じっくりと眺める。呼吸は静かに揃っていた。
「それと、この剣だが……これは斬るための剣じゃない」
胸の奥で、何かが小さく鳴った。ずっと知っていたはずのことを、誰かの声で初めて確かめられたような冷たさが走る。
「ええ。刃なんてないし……とても軽くて頑丈ではあるけど」
覗かせた剣身へ、一瞬だけ目を落とす。刃がない。その事実だけが、いまは説明より先にあった。
「普通に考えれば、あいつがこんな剣を実戦で使うはずがない。戦場じゃ、一本折れりゃ次を拾う。それをしない男でもなかった。最後にこれを握ったなら、それだけ追い詰められていたってことだ――ただ、お前を守りたい一心でな」
返す言葉は見つからず、もう一度、小さく頷く。指がわずかに震え、膝の上で行き場を失って止まる。
ヴィルの視線は、白い剣身を辿っていた。柄から白へ移る境にさえ、継ぎ目らしい影は見えない。鍛えられたものというより、最初からその形で在ったもののようだった。
「刀身が真っ白というのも妙だが……見たところ、これは魔道具だ。魔術師専用の個人兵装、『魔導兵装』――そういう類いのものだろう。違うか?」
鼓動がひとつ跳ね、すぐに落ち着こうとして失敗する。
「ええ、そんなものかしら……」
静かな声が、空気へ溶けた。
「何もかもお見通しということね」
そう告げると、ヴィルは目を細め、懐かしむように低く漏らす。
「あいつとは長い付き合いだ。剣に命を託してきた男が、これを大切にしていた以上、そこに何らかの深い理由があるはずだ」
父を知る者の言い方が、胸の奥をざわつかせる。呼吸を整えてから、問いを投げる。
「それが分かっていて、どうして? わたしが魔術師で、剣士ではないことくらい、わかるでしょう?」
鞘口から覗く白がひどく遠い。わたしの力がこの世界の魔術理の外にあることだけが、皮膚の裏で冷えていた。
「そんなことは承知の上だ」
揺らがない声に、肩の強張りがわずかに解ける。
「なによそれ。無茶苦茶じゃない。理屈になってない……」
問いだけが頭の中をぐるぐる巡り、息苦しい。
「そうでもない」
ヴィルの目は、剣ではなく、今度はわたしの手もとへ落ちた。小さな指。白い鞘。そこに重なるものを、彼は探しているようだった。
「お前は小さい時分から、ずっと親父を見てきたんだろう? あいつが剣を握る姿を。日常の何気ない仕草や癖を。――そういうものは、骨のどこかに残る」
唾を飲み込む音だけが、やけに大きく聞こえた。
幼い日の光景が、心の底から浮かぶ。父の鋭い眼差し。骨ばった大きな手。流れるみたいに無駄のない剣筋。
父の剣には触れられなかった。だから、父に見つからないよう、小さな木刀を握って、影に隠れるように素振りを重ねた。
前世を取り戻してからも、父の残像をなぞるみたいに剣を振ってきた。けれど未熟は消えない。手には違和感が残り、体は思うように動かない。それでも剣を握るたび思う。この行為の先に、父の残したものがまだある、と。
「……見てきた。でも、それだけじゃなにも……」
声は弱く、喉の手前で一度つかえた。
「いいや、それで十分だ。特にお前のように強い意志を持っているならなおさらな」
迷いのない目に、呼吸が一拍だけ止まる。
「お前の体には、あいつの血が流れているんだろう? だったら見せてくれ。俺が見たいのは、そんな『受け継がれた命』なんだ」
その声が届いた瞬間、腹の底で眠っていたものが、静かに身じろいだ。
父が託した命の意味。その重み。もし本当にわたしの中に生きているのなら、逃げずに示したい。
父の名を掲げて待つだけでは、もう足りない。わたしの身体で、わたしのかたちで、その名に応えなければならない。
膝の上で組んだ指が白くなり、腹の奥でかすかな熱が脈を打つ。
「いいわ……。その申し出、受けようじゃない!」
思いのほか力強い声が自分の口から出て、わたしがいちばん驚いた。腹の底からせり上がった意志が、そのまま言葉の形を取ったのだ。
ヴィルは微かに口元を緩め、静かに頷く。瞳は鋭いまま、真っ直ぐに。
「そう来なくちゃな」
白い鞘が、灯の下で一度だけ冷たく光った。
覚悟はもう身体の芯で立ち上がっているのに、拳だけが音もなく震えていた。




