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父が遺した絆の証

 沈黙が落ちた。木卓の冷えがじかに掌へ返り、名を問われる前から胃の底で黙っていた痛みが、ゆっくり浮かび上がってくる。


 指先はこわばったまま、節の暗がりをなぞっていた。俯いて木目を追ううち、膝の上だけがしんと冷えていく。


 そのとき、薄い膜を断つ刃みたいな声が落ちた。


「……ミツル、お前は魔獣が憎いか?」


 喉の真芯を射抜かれ、ヴィルの視線が逃げ道を塞いだ。


「……ええ」


 掠れた音は他人の口を経たように遠く、口の奥が乾いて、脈の拍だけが半拍遅れて戻ってきた。


「……だから、お前は魔獣狩りをしているのか?」


 語がふたたび突き立ち、眼光が細い糸をかけるようにわたしを掴む。緩みはひとつも許されない。


「……そうよ」


 視線を落とし、爪で卓の縁を掴む。触れていなければ形が崩れそうで、呼吸が細く揺れた。


 けれど、その一語だけで足りるはずがなかった。生きるための重さも、父の名を掲げる焦りも、あの夜に置いてきた熱も、ぜんぶ同じ場所で絡まっている。


 答えを受けて、ヴィルは重い息をひとつ落とした。低く抑えた声が、ぽつりと場の底へ沈む。


「だが、どんな理由にせよ、あいつはきっとそんなことは望んでいないはずだ」


 その言葉は、肩口へ鉛の粒みたいに積もる。


 父の望みはどこにあったのか。それだけが、指先の冷えより重かった。視界の木目がゆらぎ、節の輪が歪む。


「……そんなこと、わかってるわ……」


 声の端が揺れ、耳に届く前に薄れていった。


「でも――」


 燻る思いにはまだ骨がない。内側から布を引き裂くようなもどかしさだけが走る。――もし、父がここにいたなら。


 それでも、言葉を切らさない。


「それでも……わたしは生きていかなきゃならない。たとえ一人ぼっちでも……。だから戦っている」


 腰の白い剣へ意識が触れかけて、すぐに離れた。茉凜がいる。それでも、この世界の夜を歩く身体は、いつもひとつだった。


 ヴィルのまつ毛が重く落ちる。差し出されたのは、測るような間だけだった。問いは喉の先で足止めされる。


 布巾を握った店主の手が止まり、杯の縁がどこかで小さく鳴って、すぐに黙る。


 ヴィルは唇をわずかに開きかけ、結局、息だけを落とした。


 靴底が一歩ぶん、木床に音を置く。厚い手が肩へそっと触れた。


 固まっていた肩の筋がほどけ、瞬きが遅れる。叱責でも慰撫でもない。ただ落ちていくものを受け止める温度だった。指が肩の布を一度だけ確かめ、すぐに力を抜く。


「そうか……」


 低く、穏やかな響き。咎めの色はなく、悟って受け止めたあとの重みが音の底に沈む。


「それがお前の覚悟だというなら、詮索はすまい」


 責める色はなく、目尻の硬さだけがほどけていた。


 肩に残った温度が、少しずつ布地の奥へ沈んでいく。そのあいだに、ヴィルの視線はわたしの傷ではなく、腰の白い剣へ移っていた。


「じゃあ、見せてもらえないか? お前がユベルの娘であるという証拠をな。何かしらあるんだろう? あいつが遺したものが……」


 問いの意味は、身体が先にわかった。


 わたしは椅子の脚を静かに引き、座り直して重心を整えた。白きマウザーグレイルを慎重に持ち上げると、鞘の金具がごく小さく鳴る。呼吸の数をひとつ合わせてから、卓上へそっと置いた。


 鞘口に手を添え、鍔を押し返すようにして、白い剣身を指二本ぶんだけ滑らせた。冷ややかな白が、細い返りとなって卓へ落ちる。


 言葉は喉の手前で止まり、その光だけがわずかに揺れた。


 盃の脚が卓をかすめ、ことり、と短い音が落ちた。


 白い鞘は闇のなかで輪郭だけを淡く滲ませる。


「これよ」


 思いのほか落ち着いた声で、喉の手前に熱を残したまま、語だけが静かに冷えていく。


 ヴィルは視線を剣から外さない。深く吸い、長く細く吐く。覗かせた白と、柄の細部を目で撫で、刻まれた沈黙を読み解くみたいに瞳を細めた。


 わたしは息を詰め、灯の明滅と同じ間で彼の横顔を見守る。


「剣、か……」


 短いひとことに、驚きと逡巡が重なる。わたしは唇を固く結び、ただ頷く。


「ええ、これが父さまが最後に握っていた剣よ……」


 言い切った瞬間、胸の奥がじりじり熱を返し、瞬きが噛み合わず瞼の裏が薄く濡れたが、視線だけは逸らさない。


「ふむ……」


 低い唸りとともに、指先が柄の先に影を落とす。淡光の下、ヴィルは角度を変えながら、白に沈んだものを読むように黙っていた。


 やがて、小さな頷き。


「……なるほどな」


「え……?」


 零れた声はとても軽い。嘲りを想定していた耳に、素直な反応は重みの種類を変えて落ちる。


「俺にはあいつがどうしてこの剣を大切にしていたのか、正直わからん。が――」


 眉間の溝がわずかに深まり、言葉を探す一拍。続く声は、慎重と確信のちょうど真ん中にあった。


「――これが大事なものだとお前が言うなら、尊重すべきものだろう。それがどういう意味を持つのか、お前自身で理解する時がいずれ来るのかもしれん。それがユベル・グロンダイルの遺志だというならばな」


 遺志。その言葉だけが、鞘の白よりも重く掌へ沈んだ。


 鞘越しの冷えがゆっくり掌へ戻る。語尾が落ちるたび、息が一度だけ引っかかった。


 ヴィルは重い息を吐き、白い鞘からようやく目を離して、再びこちらを見据えた。瞳の底に、新しい硬さが生まれている。


「そこでだが、お前にひとつ提案をしたい」


 椅子の脚が、遅れて小さく鳴った。


「なにを……?」


 声が意図せず裏返り、喉の壁に当たって跳ねた。彼の表情には余白がない。


「俺と手合わせをしてくれないか」


 耳の奥が一度だけ鳴り、息が詰まった。


「ええっ……!?」


 思わず身を前へ。膝裏から座面が離れ、床の冷たさが足裏に本当の温度を返す。視線の芯には真摯だけがあり、揺れない。


「お前の人となりと覚悟は十分に理解した。あとはこの剣に問うだけだ。俺はどうしても確かめたいんだ。お前の中に流れるユベル・グロンダイルの血をな」


 言葉が胸の内側へ触れた瞬間、息が奪われる。


 ――いま、ここで。父の血を、わたしという器のかたちで試す。


 熱が身体の芯で立ち上がり、拳だけが音もなく震えた。


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