グロンダイルの娘
紫苑の灯が明滅し、油の匂いが空気の底に沈んでいた。木の盃の縁だけが一瞬光り、すぐ闇へ戻った。
「ほう……じゃあ何だ、お前は『あいつ』……いや、ユベル・グロンダイルの娘だとでも言いたいのか?」
低い声が落ち、卓上の影がかすかに揺れた。
指先が、無意識に盃の古い傷をなぞる。木肌のささくれだけが、いまのわたしをこの場に繋ぎ止めていた。
――この男、父の名を知っている。
夜ごと戸口の外へ置いてきた名が、いまになって喉元へ戻ってくる。
薄酒の酸味がまだ口の奥に残っていた。息を吐き、内側へ上がってきた熱を押し戻す。
「そうよ……」
返した声の余韻だけが卓に残った。椅子の固さが背骨へ伝わり、踵の下では床の冷えが動かない。目だけは逸らさなかった。
ヴィルの瞳が一瞬だけ見開かれた。魔道ランプの光が鋭く差し、すぐ暗がりへ消えた。
「今、『あいつ』って言ったわね。あなた、わたしの父さまのことを、どこまで知っているの?」
「知っているもなにも、あいつは俺の旧い友人だ」
「友人……ね」
返した声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「それで? あなたは、友人の名を騙る不届き者を懲らしめに来たというわけ?」
口角だけを持ち上げ、声の調子は変えなかった。
ヴィルの口元が歪む。笑みとも疲労ともつかない、不格好な形だった。
「まあ、そんなところかもしれんな」
濁した返事のあいだも、目はわたしから離れない。ランプの芯が小さく弾け、油の匂いがふっと濃くなった。
「じゃあ、はっきり言っておくわ。わたしは正真正銘、『ユベル・グロンダイル』の娘よ」
奥歯で内頬を噛み、薄い金属の味を舌に受けた。
「お前がユベルの娘だと……? どこがだ。少しも似てないじゃないか」
低い声が、ためらいもなく事実だけを返してきた。
盃を押さえた指が動かなくなる。
「そうね。確かにそれは自覚しているつもりよ」
ヴィルは、わたしの息の深さまで測るように目を逸らさなかった。
「ユベルの髪は青みがかった銀だったし、顔立ちだって……まるで似ていない。瞳も、あいつはもっと深い夜みたいな黒だったぞ」
並べられた色も輪郭も、すべて父のものだった。ひとつとして、記憶を探るような迷いがない。
「だからなに? これは母さまの特徴を受け継いだだけよ」
「なるほど、母親似か」
「……母さまからは、『鏡写しみたい』だなんて……言われていたけれどね」
母の声が耳の奥へ戻り、膝の上で組んだ指がきつく重なった。
ヴィルの目が、わたしの顔から手もとへ移る。
「……では、教えてもらおうか。あいつは今、どこにいるんだ?」
隣の卓で酒器が一度触れ、それきり音を失った。息の通る場所が狭くなる。
「それは……もう、答えようがないわ」
喉が強張り、言葉の端が掠れた。ヴィルの肩がわずかに固まる。
「どういう意味だ?」
「父さまは……もう、この世にはいないから」
外套の脇で垂れていたヴィルの手が、わずかに強張った。喉元が一度だけ静かに上下した。けれど、次の息は続かなかった。
「は……? あいつが死んだだと……? ふざけるな。嘘もたいがいにしろ」
靴底の下で木床が激しく軋んだ。ヴィルの肩が震え、そばの空気まで押し返されるようだった。
「嘘じゃないわ。本当のことよ……」
声が喉の奥でかすかに震えた。薄酒の甘みも、もう舌の上には残っていない。
「じゃあ何があったっていうんだ。言ってみろ。あいつはどうして死んだ。事故か。それともたちの悪い流行り病か?」
ランプの芯が鋭く細り、どこかで金具が擦れた。
「父さまは……魔獣との戦いで命を落とした。わたしを守ろうとして……」
口にした途端、父の笑う横顔が浮かび、視界の縁が滲んだ。
盃の縁を押さえたまま、指先だけを固めた。
「ばかな……。あいつは『閃光』の二つ名を持つ、大陸一の剣士と謳われた男だ。魔獣ごときに遅れを取るなどありえん……。そんな話、俺は信じないぞ。俺はあいつの強さを誰よりも知っている。あいつは……俺と並び立つ唯一の男なんだ」
言い切ると、ヴィルは卓の木目へ目を落とした。大きく持ち上がった胸板が、そのまま止まったように見えた。
わたしも、すぐには口を開けなかった。言えば、あの夜がここへ戻ってくる。
やがて、木目へ落ちていたヴィルの視線がこちらへ戻った。正面から受けると、もう逸らせなかった。
「そうね、あなたの言う通りよ。父さまは強い。どんな魔獣にだって負けやしない。わたしだって、そう信じていた……。――でも、あの時の魔獣はとても大きくて、見たこともない形で、倒しても倒しても尽きることなく湧き出てきて。いくら父さまでも、一人で捌き続けるのは……無理だった……」
焼けた空気の苦みが舌の裏へ戻る。土を掻く爪の音が、耳の奥で幾度も重なった。
わたしの前にあり続けたのは、ただ父の背中だった。見たこともない魔獣の影が押し寄せ、退く場所などもうなかった。それでも父は、わたしの前に立っていた。
鋭い爪と牙が暗闇を裂き、頬へ熱い飛沫が触れた気がして、喉の奥が乾いた。
「それでも……父さまは最後の最後まで諦めなかった。ただ、わたしを守るためだけに、戦い続けた……」
声が途中で細くなった。盃の縁を掴んだ指に力が入り、木が手の内で小さく鳴った。浅く息を継いでも、喉の震えは収まらなかった。
背の奥で、黒鶴の翼が擦れる気配がした。沈めていた黒い熱が、指先へじわりと上がってきた。
白い剣は、腰のあたりへ冷たい重みを返した。茉凜は何も言わなかった。ただ、その沈黙だけがそばに残った。
「父さま……」
熱いものが頬を伝い、あごの先で止まった。卓へ落ちた滴が、魔道ランプの光を吸い込んで見えなくなる。
ヴィルは何も言わずに見ていた。肺の奥まで吐き出すような長い息とともに、頑強な肩がゆっくり下がった。
「そうか……。あいつは、最後まで戦ったんだな。お前を守るために……」
語尾が低く沈んだ。外套の留め具がかすかに鳴り、それきりヴィルは動かなかった。




