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流浪の剣士 その名はヴィル

 酒場の隅、戸口の見える卓で、わたしは壁へ片肩を預けていた。今夜は一杯で切り上げて、明日の支度だけ済ませるつもりだった。


 卓上には、灯を吸った木の盃がひとつ。水で割った葡萄酒は夜より深く沈んで見え、甘い酸味が鼻先をかすめる。舌に触れるのは一滴でいい。酔いに溺れるために来たわけではない。


 重い扉が、溜息みたいに軋んだ。


 戸口の鈴が、ちり、と鳴る。


 その拍、店の灯がひと息ぶん陰った。囁きは床へ沈み、乾いた土を踏む足音だけが残る。店主の手が止まり、布巾が宙で固まった。


 盃の縁に添えた指へ、じわりと力が寄る。木卓の冷たさが戻り、張りつめた空気だけがこちらへにじんでくる。


 目の端だけを斜めに走らせる。埃を吸った厚手の外套。整えられていない髭。ふらついて見えるのに、歩みにはひとつの無駄もない。くすんだ明かりの下で、金髪だけが鈍く光った。荒野の乾きが刻まれた顔の奥に、夜陰より深い澱みが沈んでいる。


「見慣れない顔ね……」


 吐息に紛らせるように、言葉の端だけを落とす。


 男は周囲の怯えなど意に介さず、無言でカウンターへ進む。音もなく差し出された酒器を掴む指には、無数の古傷が走っていた。節張った骨の際にまで、乾いた鉄の気配が染みついて見える。


 ひとくち。喉が鳴る気配のあと、視線だけが店内をひと回りした。値踏みではない。何かの痕跡を拾おうとするみたいに、ゆっくりと動いていた。


 酒器が置かれる。カウンター越しに身を寄せた背で、声だけが低くこもった。脅すような調子ではなかった。ただ、急いでいた。店主が怯えたのは声の荒さではなく、その奥にある切迫のほうだったのかもしれない。


 返事は聞こえない。ただ、店主の手だけが白くこわばって止まっていた。視線が一度、わたしの卓へ滑り、それから逃げるように伏せられる。その先で、男の注意だけがまっすぐこちらを向いた。


 椅子が軽く鳴る。一歩、また一歩。床が低く応え、卓上の影が細く揺れた。


《《美鶴、あの人なんだかヤバい感じがする。どうしようか?》》


 帯に添った純白の剣が、ひやりとした重みで現実を突きつけてくる。柄にそっと触れ、意識を沈めた。鞘の奥から、かすかな息が掌へ返る。


「わかっている。少し様子を見るから、あなたは静かにしてて……」


《《……うん、落ち着いてね》》


 言葉が途切れると、鞘の奥はすっと凪いだ。軽口の代わりに、冬の石を抱いたような微かな重みだけが腰骨の内側へ残る。


 卓の前で足が止まった。鉄錆の匂いをまとい、言葉を選ぶように黙る。視線が上から下へと落ち、髪の色と腰の白い剣へ短く触れて戻った。


 やがて、砂を噛むような低い声が落ちる。


「お前さん、ここで何をしている?」


 盃を傾ける角度だけを変え、わたしは目を動かさなかった。


「何って? 見ればわかるでしょう」


 煤けた匂いがひとつ濃くなる。盃の縁を押さえる指に、木卓の硬さがそのまま返ってきた。半年、この小さな卓ひとつで夜ごとのざわめきをやり過ごしてきた。余計な慰めひとつ寄越さず、硬さだけを返してくるところが、今はありがたい。


 彼の注意が一度だけ帯の白へ落ち、それから顔へ戻る。確かめるような沈黙のあと、言葉は叱る形を取った。


「子どもがこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」


 周囲の意識がいっせいに集まり、空気がざわめく。指先へ余計な力が入りかけるのを、卓の縁の擦れで押しとどめた。


 探るような視線を、わたしは静かに受け流した。


「軽く見ないでもらいたいものね。これでもわたし、『一人前』で通ってるんだけど?」


 この卓で「子ども」と笑う声は、とっくに消えた。いま残っているのは、距離を測る目ばかりだ。


「へーっ、一人前ね。どう見ても十二、三の子供じゃないか」


 男の冷笑が、耳の裏へ乾いた粉みたいに残る。周囲の客が、息を潜めたままこちらを窺っているのが気配でわかった。


 わたしは笑顔も嘲りも見せず、まっすぐ男を見返した。


「残念だけどね、わたしは大人なの。あなたに信じろと言っても無理でしょうけど」


 嘘ではない。けれど、この男に説明したところで鼻で笑われるだけだ。知る必要もない。


 短く鼻で笑い、冷えた視線がふたたびわたしへ戻る。


「ふーん……。その細い肩で、か」


 嘲りの気配が肌の上でざらつく。木卓の縁の擦り傷を指先でたどると、夜気の乾きが袖に残った。


 口の端がわずかに歪む。嫌みを滲ませた笑いのあと、細めた視線がわたしを射抜く。その目に宿ったのは嘲りだけではない。試すような光が、わずかに深くなる。


「ま、見た目や歳なんざこの際どうでもいい話だな。では尋ねよう。店の主人に聞いたが、黒髪のグロンダイルっていうのはお前さんのことか?」


 グロンダイルの名を口にしたとき、男の声はほんの一瞬だけ乾いた。嘲りとも怒りとも違うものが、言葉の奥をかすめていく。


 肩の髪をそっと払い、そっけなく応じる。


「ええ、そうだけど? それが何か?」


「ここらじゃちょっとした有名人らしいな。とんでもない魔術を使うとか、万の魔獣を一夜で狩り尽くしたなんて噂も耳にしたが……」


 百が千になり、千が万になる。歩き出した尾ひれに、もう持ち主はいない。


 盃の底に残った色を見つめたまま、不要な言い訳は胸の裏へ押し戻した。


「ま、そんなこともあったわね」


 男の唇が嫌味な三日月を描き、鉄の匂いが一歩近づいた。わざと棘を立てているのがわかるぶん、なおさら癇に障る。


「ふーん。やはりその噂、大げさな作り話だったようだ。お前みたいな『ちんちくりん』な娘に、そんな芸当ができるとは到底信じ難い」


 盃の縁が硬く当たる。指先の力だけを整え、返事を落とした。


「それはどうかしら? 見た目で判断すると痛い目に遭う。なんてこともあるわよ」


 指先で自分の影をなぞる。その暗がりの縁だけを、ごく薄く歪ませた。


 何かを起こすためじゃない。ただ、紫苑の灯を影の縁で一度だけ揺らす、それだけの脅し。


 男の注意が、影をなぞる動きへ鋭く落ちた。表情は動かない。けれど、息の切れ目が短くなったのを、わたしは見逃さなかった。


「それで? あなたはわたしに喧嘩を売りに来たのかしら。随分と暇で酔狂なことで」


 盃の底の甘みが舌先に鈍く残り、影の縁で店の明かりがふわりと揺らいだ。


 男は身じろぎひとつで、皮肉な笑みをさらに深く刻む。


「俺はただ、真実を確かめたいだけだ。どんな力だか知らないが、その実力とやらを見せてもらう機会があったっていいだろう?」


 「真実」という語が落ちた。空気がいっせいに固まる。


 わたしは声の温度だけを冷やした。


「勝手にすればいいわ。わたしは別に自分の力を隠すつもりもないし、あなたに見せなければならない義理もないけれど」


「ほう、じゃあいつか確かめるチャンスもあるということだな」


 木の縁を唇へ寄せ、ひと口だけ含んだ。甘酸っぱさが舌先に触れ、すぐに引いていく。


「好きにしなさい。ついてくるのはあなたの自由よ。ただし、わたしの邪魔さえしなければの話だけれど」


「――では、名乗っておこう。俺はヴィル・ブルフォード。流れの剣士だ。よろしくな」


 言葉がこぼれないよう、唇を固く閉ざした。名乗りが落ちた瞬間、液面がかすかに震える。遠い日の雨音が意識の奥で鳴り、湿った土と冷えた鉄の匂いがふいに鼻腔の奥へ戻ってきた。凍えた記憶の欠片が、闇の底から浮かび上がる。


 盃の縁を押さえ、卓の下で脈を打つ指先を隠した。表情だけは崩さない。


「ヴィル、ね。覚えておくわ。わたしは――ミツル・グロンダイルよ」


 盃をそっと戻すと、乾いた木の音がやけに鋭く響いた。男の瞳に鋭い光が差す。


「ミツル……か。ところで一つ尋ねてもいいか?」


「何かしら?」


 ヴィルはすぐには続けなかった。視線がわたしの顔から黒髪へ、そこから白い剣へ落ちて、また戻る。その沈黙には、まだ言葉にしていない古いものが沈んでいるように見えた。


「お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?」


 背筋の内側を、さっと熱が引いていった。店のざわめきがすべて遠のき、卓上の明かりのかすかな脈だけが目につく。沈黙は鉛みたいに重く、盃の底で揺れ残った色だけが、やけに鮮やかだった。


 わたしは冷たい笑みだけを浮かべた。


「……騙っている、ですって? ふふ……もし本当にそう見えるというのなら、それはあなたの眼が、よほどの節穴だってことよ」


 言葉が床板へ落ち、静かな夜陰に吸い込まれていく。店主は奥で息を殺し、布巾を握る手だけを白くしていた。煤けた匂いが妙に濃くなり、店の明かりがいっそう頼りなく見える。


 ヴィルは黙し、わたしもまた言葉を重ねなかった。液面の震えだけが、いつまでも止まらなかった。

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