流浪の剣士 その名はヴィル
男はすぐには店へ入らなかった。
戸口に立ったまま、薄暗い店内へゆっくり視線を巡らせた。埃を吸った厚手の外套。整えられていない髭。くすんだ灯の下で、金色の髪だけが鈍く光っていた。
酔っているようにも見える。けれど、踏み入れた足は床板をほとんど軋ませず、大柄な身体も少しもぶれなかった。
「見慣れない顔ね……」
吐息へ紛らせるように、声を潜めた。
男は周囲から向けられる視線など意に介さず、カウンターへ進んだ。店主が無言で差し出した酒器を掴んだ。その指には古い傷が幾重にも走り、節張った手の甲にまで、剣を握り続けてきた硬さが残っていた。
酒をひと口含んだあと、男は今度は客の顔をひとりずつ見ていった。値踏みしているのではない。何かの特徴を確かめているようだった。
酒器がカウンターへ戻された。男は店主にだけ聞こえるよう身を寄せ、低い声で何かを尋ねた。返事までは届かなかった。ただ、店主の指が布巾を握ったまま強張り、その視線が一度だけわたしの卓へ滑った。すぐに伏せられた目を追うように、男の顔がこちらを向く。
靴底が床板を擦り、一歩、また一歩と近づいてくる。床が低く応え、卓上へ伸びる影が大きくなった。
《《美鶴、あの人なんだかヤバい感じがする。どうしようか?》》
帯に添った純白の剣が、腰へひやりとした重みを返した。柄に触れ、鞘の奥へ意識を沈める。
「わかっている。少し様子を見るから、あなたは静かにしてて……」
《《……うん、落ち着いてね》》
茉凜の声が途切れると、鞘の奥も静まった。
男は卓の前で足を止めた。煤と革、その奥に乾いた鉄の匂いが混じっている。しばらく何も言わず、わたしの黒髪から腰の白い剣へ目をやった。探していたものと照らし合わせるような目だった。
やがて、砂を噛んだような低い声が落ちる。
「お前さん、ここで何をしている?」
盃を傾ける角度だけを変え、顔は上げなかった。
「何って? 見ればわかるでしょう」
男がわずかに身を屈め、煤けた外套の匂いが濃くなる。盃の縁を押さえた指へ、木の硬さが返ってきた。
半年、この卓から戸口を見てきた。何も答えない木壁も、傷だらけの卓も、いまは知らない男より信用できた。
男はもう一度、腰の白い剣を見た。
「子どもがこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」
隣の卓で、酒器の触れ合う音が止まった。客たちは何も言わず、視線だけをこちらへ集めていた。
卓の古い傷へ爪を押し当て、指先へ集まりかけた力を逃がした。
「軽く見ないでもらいたいものね。これでもわたし、『一人前』で通ってるんだけど?」
ここで「子ども」と笑う者は、もうほとんどいない。代わりに残ったのは、どこまで近づいてよいのかを測る目ばかりだった。
「へーっ、一人前ね。どう見ても十二、三の子供じゃないか」
軽く跳ねた語尾が、耳の裏へ乾いた粉みたいに残った。
周囲の客は息を潜めている。わたしは笑顔も怒りも見せず、ようやく男の顔をまっすぐ見返した。
「残念だけどね、わたしは大人なの。あなたに信じろと言っても無理でしょうけど」
嘘ではない。けれど、この男に説明するつもりはなかった。話したところで信じるはずもないし、知ってもらう必要もない。
男は短く鼻で笑い、冷えた視線をわたしの肩へ滑らせた。
「ふーん……。その細い肩で、か」
盃を置く。木が触れ合う乾いた音が、妙に大きく響いた。
男の口元には、わざとらしい薄笑いが残っている。けれど、その目は笑っていなかった。
「ま、見た目や歳なんざこの際どうでもいい話だな。では尋ねよう。店の主人に聞いたが、黒髪のグロンダイルっていうのはお前さんのことか?」
グロンダイルの名を口にしたとき、男の声がわずかに掠れた。
嘲りとも怒りとも違うものが、ほんの一瞬だけその奥を通った。
肩にかかった髪を払い、そっけなく答える。
「ええ、そうだけど? それが何か?」
「ここらじゃちょっとした有名人らしいな。とんでもない魔術を使うとか、万の魔獣を一夜で狩り尽くしたなんて噂も耳にしたが……」
百が千になり、千が万になる。もう噂のほうが、わたしより遠くまで歩いているらしい。
反論しかけた舌を、上顎へ押しつけた。
「ま、そんなこともあったわね」
「ふーん。やはりその噂、大げさな作り話だったようだ。お前みたいな『ちんちくりん』な娘に、そんな芸当ができるとは到底信じ難い」
盃の縁を指で強く押さえる。硬い木の感触を確かめ、声だけは平らに保った。
「それはどうかしら? 見た目で判断すると痛い目に遭う。なんてこともあるわよ」
卓に伸びた自分の影を、指先でなぞる。
暗がりの縁が、ごく薄く歪んだ。
何かを起こすつもりはない。ただ、紫苑色の灯をわずかに震わせる。それだけでよかった。
男の視線が影へ走った。表情は変わらない。けれど、呼吸が一度だけ浅くなった。
「それで? あなたはわたしに喧嘩を売りに来たのかしら。随分と暇で酔狂なことで」
盃の底に残った甘みが、舌の上で鈍く冷えていく。
男は身じろぎもせず、皮肉な笑みだけを深くした。
「俺はただ、真実を確かめたいだけだ。どんな力だか知らないが、その実力とやらを見せてもらう機会があったっていいだろう?」
「真実」という語に、店の空気が硬くなった。
わたしは声の温度だけを下げる。
「勝手にすればいいわ。わたしは別に自分の力を隠すつもりもないし、あなたに見せなければならない義理もないけれど」
「ほう、じゃあいつか確かめるチャンスもあるということだな」
木の盃を唇へ運び、ひと口だけ含む。甘酸っぱさが舌に触れ、すぐに引いた。
「好きにしなさい。ついてくるのはあなたの自由よ。ただし、わたしの邪魔さえしなければの話だけれど」
「――では、名乗っておこう。俺はヴィル・ブルフォード。流れの剣士だ。よろしくな」
言葉がこぼれないよう、唇を閉ざした。
ヴィル・ブルフォード。その名を聞いた瞬間、理由もわからないまま、遠い雨音が耳の奥で鳴った。湿った土と冷えた鉄の匂いが、記憶の底からかすかに浮かび上がる。
卓の下で震えかけた指を握り込み、表情だけは崩さない。
「ヴィル、ね。覚えておくわ。わたしは――ミツル・グロンダイルよ」
盃を卓へ戻す。乾いた木の音が鋭く響き、男の瞳に硬い光が差した。
「ミツル……か。ところで一つ尋ねてもいいか?」
「何かしら?」
ヴィルはすぐには続けなかった。わたしの顔から黒髪へ、そこから腰の白い剣へと視線を移し、もう一度こちらを見る。
「お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?」
背筋を走っていた熱が、一息で引いた。
店のざわめきが遠のく。紫苑色の灯と、盃に残った色だけが、やけに鮮明に見えた。
わたしは冷たい笑みを浮かべる。
「……騙っている、ですって? ふふ……もし本当にそう見えるというのなら、それはあなたの眼が、よほどの節穴だってことよ」
言葉が床板へ落ち、夜の静けさへ沈んだ。
店主は奥で息を殺していた。ヴィルは黙ったまま、わたしから目を逸らさない。
わたしも、それ以上は言葉を重ねなかった。盃の底で、淡い液だけがいつまでも震えていた。




