夜更けの酒場 わたしと剣の中の彼女
第一章の見どころ:酒場の邂逅/父の証明/手合わせ/魔獣とのバトル/真実の開示
塔の小鈴が鳴るはずの時刻だった。
今日もわたしは、父を知る誰かが足を止めるのを待っていた。辺境都市エレダンの外れには、その音は届かない。それでも、身体のどこかは遠い鐘の鳴る時刻を覚えていた。
わたしは壁際の卓に肩を預け、薄く割った葡萄酒を舐めていた。背中には木壁。目の届く先には戸口。今日の取り分を入れた袋は腰の脇でまだ重く、黒髪は肩先でひっそり沈んでいた。
ここで名乗る名は、ミツル・グロンダイル。
黒髪のわたしは、亡き父へ繋がるその名を、戸口の外へ置くようにして生きている。誰かが振り向いてくれるかもしれない。父を知る人が、ほんの一瞬でも息を止めてくれるかもしれない。そんな頼りない糸に、夜ごと指をかけていた。
腰にあるのは白き剣マウザーグレイル。父が遺した、たったひとつの手がかり。そしてその奥には、わたしにだけ声を届けてくれる少女がいる。名を呼べば返事は早い。そういうところばかり、困るほど頼もしい。
人目は苦手だ。それでも、ほかに道を持たない。薄酒の香りと灯りの揺らぎのなかで、剣のぬくもりだけが、いまのわたしをここへ繋ぎ止めていた。
市場の喧騒はもう遠い。小さな酒場には魔道ランプの紫苑色が滲み、古びた木壁と卓の端だけをやわらかく照らしていた。笑い声の底で、戸の掛け金を確かめる乾いた音が、ときどき混じる。
手もとの盃には、淡い液が浅く揺れている。木に染みた匂いの奥から甘い酸味が立ち、鼻先をかすめた。
水の濁る季節だから、この辺りでは水をそのまま飲まず、葡萄酒を落とした薄酒にするのが当たり前だ。慣れていないはずなのに、今夜は妙に飲みやすい。
理由は、腰に下げた剣だった。
白い鞘は、盃が空くたび機嫌をよくする。鞘の奥からせっつく気配に押され、つい次を頼んでしまう。今日の稼ぎは袋の底で硬い重さを保っているのに、先にほどけていくのはわたしのほうだった。
「いい? もうこの一杯だけだからね」
盃の縁へ指を添える。木と液の境目で、灯が細く揺れた。
《《えーっ!? だって明日は休むんでしょ? あと二杯くらい、いいじゃないの》》
留め金がちり、と鳴り、わがままな余韻が腰骨のあたりへ響いた。
「に、二杯って……少しは節度を持ちなさい。あなたが気分良くても、気だるくなるのわたしの身体なのよ。明日はブーツをオーダーしに行くんだから、むくんだ脚で行きたくないでしょ」
影の縁で、鞘がずれた。
《《わかるけどさ……。じゃあ、あと一杯だけ、ね? お願いっ》》
ため息がこぼれかけて、かわりに笑いが喉の手前で止まった。柄へ触れると、冷たい金属の向こうで、ねだる気配がいたずらっぽく跳ねる。
彼女は、わたしの内に残った香りや味、喉を落ちていった温度まで平気で掠め取り、自分の愉しみに変えてしまう。
「ほんとにもう……。どうしてあなたは、そんなにお酒が好きになっちゃったのかしらね?」
盃の中で液面が揺れ、紫苑の色が縁でふるえた。
《《どうしてって? うふへへ……まぁ、いろいろあるのよ》》
またそれ、と思って首を振る。酒の匂いが立つたび、剣の奥は決まってざわついた。理由を知っているくせに、そこだけはいつも曖昧に笑って誤魔化す。
「その気持ち悪い笑い方で誤魔化さないで。元はと言えば、あなたのせいなんだから」
柄を軽くコツンと叩く。
《《ざんねんでしたー。今のわたしにはそんなの全然効きませーん》》
懲りたふりをしても、すぐまた調子に乗る。その落ち着きのなさに呆れているはずなのに、返事のない夜のほうが、たぶんわたしは苦手だ。
盃の縁を指の腹でなぞり、わざと声を明るくした。
「へえ、じゃあ、呑んだくれの剣さんには、ヘルハウンドの巣窟で一晩過ごしてもらいましょうか。そこでたっぷり可愛がられたらいいわ。五感を共有しているんだから、わたしの視覚を通してその様子があなたにもよく見えるはずよ」
鞘の奥が、ひやりと固まった。
《《や、やめてよ! 今のわたしって剣の中だから何も感じないはずだけど……あんな毛むくじゃらの犬どもに囲まれて、一晩中とか? 想像しただけで無理っ! ああ、もろ悪夢よ! ていうか、あなた昔みたいにSっ気全開じゃない?》》
その慌てぶりに、口元がゆるむ。
「昔って。あなた、あのときのこと、まだ根に持ってるの?」
茉凜の声にも、笑いが混じった。
《《あたりまえでしょ! わたし、あれ本当にびっくりしたんだから!》》
「仕方ないじゃない。試験勉強がんばるっていうから、家庭教師してあげたのに、あなたってすぐに寝ちゃうんだもの。目を覚ますのに刺激的な手段が必要だったのよ」
《《だからって、首に氷を当てたり机に剣山を仕込んだりする!? わたし、心臓が止まるかと思ったよ!》》
「ははっ、ごめんごめん。でも、あのときのあなたの顔ったら……今思い出しても笑えるわ」
氷の感触と、情けない悲鳴だけが、記憶の底から先に浮かんできた。
《《ひ、ひどっ。そこがドSなんだってば!》》
文句の端に残る笑いを聞きながら、柄に置いた指を離す。
扉の隙間から夜風が流れ込み、薄紫の灯がひと息だけ濃くなった。白い鞘が、彼女の声に合わせてかすかに震える。
ミツルではなく、美鶴。
剣の内にいる彼女だけは、この世界で名乗る名ではなく、わたしの古い名を呼ぶ。
《《そうだ、美鶴》》
「なに?」
《《今日の取り分、あれでよかったの?? 全部貰っちゃってもよかったのに》》
結び目の上から袋を押さえる。ざらついた麻布の向こうで、魔石同士が硬く触れ合った。
◇◇◇
数刻前。
空は薔薇色を剥がしかけ、高台を渡る風が外套の裾を容赦なく打っていた。岩陰から見下ろした谷道を、四人が急いでいる。先頭は大柄な若い剣士。つづいて、金の髪を結んだ弓使い。掌に魔石を握る若い魔術師。大鞄を肩へずらした老人。帰りを急ぐには、もう日が低すぎた。
地平の向こうで、黒紫の群れがふくらむ。
次の瞬間、群れは砂塵を巻き上げて四人へ走った。剣士が背を庇うように立ち止まり、肩へ大剣を引き上げる。老人の膝が崩れかけ、魔術師の掌の魔石が鈍く光った。躊躇う暇はない。
親指で柄頭を撫でる。鞘口の金属がかちりと鳴った。
「だめだ、救けなきゃ……」
鍔の奥で、応えるように温みが返る。
《《うん。考える余地なんてないね》》
迷いのない返事を聞いた途端、足が岩陰から半歩出た。
「……でも、また噂が膨らむかもしれないわ。それも三倍盛りの尾ひれ付きで」
黒髪のグロンダイル。その名は、もう街道筋に乗り始めている。
《《それがどうしたの? 三倍盛りってお得感あるし》》
こんなときまで、と呆れたのに、頬だけ先にゆるんだ。
「なによそれ。噂なんか盛られたって美味しいわけないでしょ。もう……茉凜って、そういうとこが図太いのよね」
柄がくすぐったそうに震える。
《《『名前を売るのが目的』って言ってたの、誰だったっけ? 美鶴ってば矛盾してる〜》》
「……わ、わたしは基本ボッチだから。あんまり人目を引くのは嫌だし」
《《うん。でもさ――》》
掌のなかで、静かな脈が返る。
《《わたしがいるじゃない?》》
「……それ、ずるい言い方よね」
《《ずるくていいの。うふへへへ》》
「……まったく、あなたには敵わないわ」
答えるより先に、身体が前へ傾いた。
《《じゃあ、行こっか――うちの女王さま》》
「何が女王よ。意味わかんない。……行くわよ、茉凜」
岩の縁を蹴る。斜面の砂が靴裏で裂け、谷の匂いが一気に近づいた。四人と群れのあいだへ割り込み、息の先で名を呼ぶ。
「我が器に集え、精霊子よ! 来いっ、黒鶴っ!!」
背で空気が黒く滲み、翼めいた影がひらいた。
質量のない圧が群れをまとめて押し返した。群れの足が止まった瞬間、影の奥で熱が爆ぜた。炎は短く巻き上がり、焼けた匂いを残して消えた。
焦げ跡の上を、風の音だけが走った。
「……みんな、大丈夫そうでよかった」
固まっていた息が、ようやく抜けた。
「あ、ああ……。おかげで助かった。本当に、ありがとう」
「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」
剣士の背後から、老人が一歩進み出た。衣擦れが乾いた夕闇に落ちる。
「お嬢さん……いや、お主もしや巷で噂の『黒髪のグロンダイル』ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠ると噂の──」
「ま、まぁ……そうだけど」
指の腹が柄頭の縁に触れた。
狙いどおり、名は届き始めている。けれど、届いてほしい相手は、まだどこにもいなかった。鈍い金属の冷えが、指先に残る。
「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」
返す言葉が見つからない。風に持ち上がった黒髪が耳に触れ、焼けた砂の熱だけが靴底へ戻ってきた。
礼代わりだと差し出された魔石袋を、そのまま受け取ることはできなかった。押し返し、また押し戻され、結局半分だけを掌に残して背を向ける。
その背へ、弓使いの女の声が追ってきた。
「ありがとう。また会おうね!」
返事はしなかった。けれど、耳の縁だけが熱を持ったままだった。
◇◇◇
壁の節の影が瞼の裏で揺れ、舌の奥に薄酒の残り香が戻ってくる。
「べつに食うに困らないだけの稼ぎがあれば、それでいいのよ」
袋の結び目を締め直す。麻布の下で魔石がかすかに鳴り、その乾いた触れ合いが掌へ返ってきた。魔道ランプの光が壁で揺れ、木床が軋む。看板の鎖が外で一度だけ鳴った。
「だいたい、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちが死ぬような思いをして得たものなんだから。半分にしたって多いくらいよ」
袋の紐を摘み、視線を逸らす。
《《ふふ……》》
「何、その含み笑いは?」
《《いつものことだけどさ、美鶴は本当に優しいね》》
その言い方は、いつも困る。指に力が入った。
「わたしは、そんな優しくなんかないわよ……」
結び目が掌へ食い込み、白くなった爪がゆっくり色を戻す。視線を盃へ落とすと、さっき柄に触れた手の内には、まだぬくもりが残っていた。
吐息がこぼれた。薄酒の酔いが、身体の輪郭をゆっくり曖昧にしていく。
今日も誰も足を止めなかった。
そう思いかけた、そのとき。
扉の隙間を抜けた風が頬を撫で、近づく気配が夜気に混じった。沈みかけていた意識が引き戻された。
戸口の鈴が、ちり、と鳴った。
煤けた外套の匂いが、風といっしょに入り込んだ。鞘の奥はまだ何も告げなかった。それでも、盃を持つ手は止まり、息の出口だけが細くなった。
顔を上げた。
淡い明かりが翳り、酒場の輪郭がふっと遠のいた。石畳を渡る靴音が、戸口の向こうで止まった。
次の息で、その薄い明かりの先に、肩の広い男の影が立った。




