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夜更けの酒場 わたしと剣の中の彼女

 塔の小鈴が鳴る時刻だった。


 今日もわたしは、父を知る誰かが足を止めるのを待っていた。


 その音の届かない辺境都市エレダンの外れで、わたしは壁際の卓に肩を預け、薄く割った葡萄酒を舐めていた。背は木壁。目の届く先には戸口。今日の取り分を入れた袋は腰の脇でまだ重く、黒髪は肩先でひっそり沈んでいる。


 この世界で口にする名は、ミツル・グロンダイル。前世の名は、柚羽美鶴だ。黒髪のわたしは、亡き父へ繋がるその名を外へ置いて生きている。


 腰にあるのは白きマウザーグレイル。両親が遺した、たったひとつの手掛かり。そしてその鞘の内には、わたしにだけ声を届けてくれる少女がいる。名を呼べば返事は早い。そういうところばかり、困るほど頼もしい。


 人目は苦手だ。それでも、ほかに道を持たない。薄酒の香と灯りの揺らぎのなかで、剣の内のぬくもりだけが、いまのわたしをここへ繋ぎ止めていた。


 市場の喧騒はもう遠い。小さな酒場には魔道ランプの紫苑色が滲み、古びた木壁と卓の端だけをやわらかく照らしていた。笑い声の底で、戸の掛け金を確かめる乾いた音が、ときどき小さく混じる。


 手もとの盃には、淡い液が浅く揺れている。木に染みた匂いの奥から、甘い酸味がふっと立って、鼻先をかすめた。


 水の濁る季節だから、この辺りでは葡萄酒を水で割った薄酒が当たり前だ。慣れていないはずなのに、今夜は妙に飲みやすい。


 理由は、腰に下げた剣だった。


 白い鞘は、盃が空くたびすこし機嫌をよくする。内側から伸びてくるせっつく気配に押されるように、つい次を頼んでしまう。今日の稼ぎは袋の底で硬い重さを保っているのに、先にほどけていくのはわたしのほうだった。


「いい? もうこの一杯だけだからね」


 盃の縁へ指を添える。木と液の境目で、灯が細く揺れた。


《《えーっ!? だって明日は休むんでしょ? あと二杯くらい、いいじゃないの》》


 留め金がちり、と鳴り、わがままな余韻が腰骨のあたりへ小さく響いた。


「に、二杯って……少しは節度を持ちなさい。あなたが気分良くても、気だるくなるのわたしの身体なのよ。明日はブーツをオーダーしに行くんだから、むくんだ脚で行きたくないでしょ」


 影の縁で、鞘がほんの少しずれた。


《《わかるけどさ……。じゃあ、あと一杯だけ、ね? お願いっ》》


 ため息がこぼれかけて、かわりに笑いだけが喉の手前で止まった。柄へ触れると、冷たい金属の向こうで、ねだる熱がいたずらっぽく跳ねる。


 香りも味も、喉を落ちていく温度も、彼女はわたしの五感を平気で掠め取り、自分の愉しみに変えてしまう。


「ほんとにもう……。どうしてあなたは、そんなにお酒が好きになっちゃったのかしらね?」


 杯の中で液面が揺れ、紫苑の色が縁でふるえた。


《《どうしてって? うふへへ……まぁ、いろいろあるのよ》》


 またそれ、と思って、首をかすかに振る。


 酒の匂いが立つたび、剣の内側は決まってざわつく。理由を知っているくせに、そこだけはいつも曖昧に笑って誤魔化すのが、この子らしい。


「その気持ち悪い笑い方で誤魔化さないで。元はと言えば、あなたのせいなんだから」


 柄を軽くコツンと叩く。


《《ざんねんでしたー。今のわたしにはそんなの全然効きませーん》》


 懲りたふりをしても、すぐまた調子に乗る。その落ち着きのなさに呆れているはずなのに、返事のない夜のほうが、たぶんわたしは苦手だ。


 盃の縁を指の腹でなぞりながら、喉の奥でいたずらな熱がひとつ浅く揺れた。


「へえ、じゃあ、呑んだくれの剣さんには、ヘルハウンドの巣窟で一晩過ごしてもらいましょうか。そこでたっぷり可愛がられたらいいわ。五感を共有しているんだから、わたしの視覚を通してその様子があなたにもよく見えるはずよ」


 明るい声で言うと、内側がひやりと固まるのがわかった。


《《や、やめてよ! 今のわたしって剣の中だから何も感じないはずだけど……あんな毛むくじゃらの犬どもに囲まれて、一晩中とか? 想像しただけで無理っ! ああ、もろ悪夢よ! ていうか、あなた昔みたいにSっ気全開じゃない?》》


 その慌てぶりに、口元が勝手にゆるむ。


「昔って。あなた、あのときのこと、まだ根に持ってるの?」


《《あたりまえでしょ! わたし、あれ本当にびっくりしたんだから!》》


「仕方ないじゃない。試験勉強がんばるっていうから、家庭教師してあげたのに、あなたってすぐに寝ちゃうんだもの。目を覚ますのに刺激的な手段が必要だったのよ」


《《だからって、首に氷を当てたり机に剣山を仕込んだりする!? わたし、心臓が止まるかと思ったよ!》》


「ははっ、ごめんごめん。でも、あのときのあなたの顔ったら……今思い出しても笑えるわ」


 氷の感触と、情けない悲鳴だけが、記憶の底から先に浮いてきた。


《《ひ、ひどっ。そこがドSなんだってば!》》


 文句を言いながら、声音の端はどこかやわらかい。冗談まじりの脅しも、いまはふたりのあいだで転がせる軽さになっていた。


 扉の隙間から夜風が流れ込み、紫苑の灯がひと息だけ濃くなる。鞘の内に宿る加茂野茉凜の気配は、そういう拍に合わせて、いつもこちらの呼吸まで持っていく。


《《そうだ、美鶴》》


「なに?」


《《今日の取り分、あれでよかったの?? 全部貰っちゃってもよかったのに》》


 結び目の上から袋を押さえる。ざらついた麻布の向こうで、魔石同士が硬く触れ合った。


◇◇◇


 数刻前。


 空は薔薇色を剝がしかけ、高台を渡る風が外套の裾を容赦なく打っていた。岩陰から見下ろした谷道を四人が急いでいる。先頭は大柄な若い剣士。つづいて、金の髪を結んだ弓使い。掌に魔石を包む若い魔術師。大鞄を肩へずらした老人。帰りを急ぐには、もう日が低すぎた。


 地平の向こうで、黒紫の群れがふくらむ。


 次の瞬間には砂塵を巻き上げて、四人へ走った。剣士が背を庇うように立ち止まり、肩へ大剣を引き上げる。老人の膝が崩れかけ、魔術師の掌の魔石が鈍く光った。躊躇う暇はない。


 親指で柄頭を撫でる。鞘口の金属がかちりと鳴った。


「だめだ、救けなきゃ……」


 鍔の奥で、応えるように温みが返る。


《《うん。考える余地なんてないね》》


「……でも、また噂が膨らむかもしれないわ。それも三倍盛りの尾ひれ付きで」


《《それがどうしたの? 三倍盛りってお得感あるし》》


 こんなときまで、と呆れたのに、頬だけ先にゆるんだ。


「なによそれ。噂なんか盛られたって美味しいわけないでしょ。もう……茉凜って、そういうとこが図太いのよね」


 柄がくすぐったそうに震える。


《《『名前を売るのが目的』って言ってたの、誰だったっけ? 美鶴ってば矛盾してる〜》》


「……わ、わたしは基本ボッチだから。あんまり人目を引くのは嫌だし」


《《うん。でもさ――》》


 一拍、掌の内で静かな脈が返る。


《《わたしがいるじゃない?》》


「……それ、ずるい言い方よね」


《《ずるくていいの。うふへへへ》》


「……まったく、あなたには敵わないわ」


 答えるより先に、身体が前へ傾いた。


《《じゃあ、行こっか――うちの女王さま》》


「何が女王よ。意味わかんない。……行くわよ、茉凜」


 岩の縁を蹴る。斜面の砂が靴裏で裂け、谷の匂いが一気に近づいた。


 四人と群れのあいだへ割り込み、息の先で名を呼ぶ。


「我が器に集え、精霊子よ! 来いっ、黒鶴っ!!」


 背で空気が黒く滲み、翼めいた影がひらいた。質量のない圧が群れをまとめて押し返し、足が止まったその瞬間、内側から熱が爆ぜる。炎は短く巻き上がり、焼けた匂いだけを残してすぐに消えた。


 残ったのは、焦げ跡の上を走る風の音だけだった。


「……みんな、大丈夫そうでよかった」


 固まっていた息が、ようやくほどける。


「あ、ああ……。おかげで助かった。本当に、ありがとう」


「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」


 剣士の背後から、老人が一歩進み出た。衣擦れが乾いた夕闇にひとつ落ちる。


「お嬢さん……いや、お主もしや巷で噂の『黒髪のグロンダイル』ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠ると噂の──」


「ま、まぁ……そうだけど」


 指の腹が柄頭の縁を一度だけ探って、鈍い金属の感触が手首の内側へ細く伝わる。


 狙いどおり、その名はもう街道筋に乗っている。けれど名だけが先に歩き、わたしはいつもそのあとを追うみたいだった。みぞおちに小さく残る冷えまでは、どうしてもごまかしきれない。


「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」


 返す言葉が見つからない。風に持ち上がった黒髪が耳に触れ、焼けた砂の熱だけが靴底へ静かに戻ってきた。


 礼代わりだと差し出された魔石袋を、そのまま受け取ることはできなかった。押し返し、また押し戻され、結局半分だけを掌に残して背を向ける。


 その背へ、弓使いの女の声が追ってきた。


「ありがとう。また会おうね!」


 返事はしなかった。けれど、耳の縁だけが熱を持ったままだった。


◇◇◇


 木壁の節の影が瞼の裏でほどけ、舌の奥に紫苑の残り香が薄く戻ってくる。


「べつに食うに困らないだけの稼ぎがあれば、それでいいのよ」


 袋の結び目を締め直す。麻布の下で魔石がかすかに鳴り、その乾いた触れ合いだけが掌へ返ってきた。魔道ランプの光が壁で薄くゆれ、木床がかすかに軋む。看板の鎖が外で一度だけ鳴った。


「だいたい、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちが死ぬような思いをして得たものなんだから。半分にしたって多いくらいよ」


 袋の紐を摘み、意図的に視線を逸らす。


《《ふふ……》》


「何、その含み笑いは?」


《《いつものことだけどさ、美鶴は本当に優しいね》》


 その言い方は、いつも少し困る。胸のあたりへまっすぐ届いて、うまく受け流せない。


「わたしは、そんな優しくなんかないわよ……」


 結び目が掌へ食い込み、白くなった爪がゆっくり色を戻す。そうじゃない、と言い切るほど強くもなれないまま、視線だけが盃へ落ちた。


 けれど、そこにあるぬくもりは逃げない。そこにいる、と言うみたいに、手の内へちゃんと残る。


 小さく吐息がこぼれた。薄酒の酔いが、身体の輪郭をゆっくり曖昧にしていく。


 そのとき。


 扉の隙間を抜けた風が頬を撫で、近づく気配が夜気に混じった。沈みかけていた意識が、すっと引き戻される。


 戸口の鈴が、ちり、と鳴る。


 煤けた外套の匂いが風といっしょに入り込む。鞘の奥はまだ何も告げない。それでも、盃を持つ手は止まり、息の出口だけが細くなった。


 顔を上げる。紫苑の明かりがわずかに翳り、酒場の輪郭がふっとほどける。


 石畳を渡る靴音が、戸口の向こうで止まった。


 つぎの拍、その薄い明かりの先に、肩の広い男の影が立った。

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