宿の一夜と囁く不安
煤けたランプの油の匂いが、鼻腔の奥に重く澱んでいる。ロビーの床板は歩くたびに頼りなく軋み、その乾いた音だけが、夜の静寂をいっそう際立たせた。窓の外からは、風に揺れる木々のざわめきが波のように押し寄せている。
カウンターの向こうで、宿の主人が帳簿から顔を上げた。
その視線が、ふとわたしのフードの隙間――そこから零れた黒髪に吸い寄せられ、ぴたりと止まる。
主人の眉間に、一瞬、明らかな躊躇いの色が走った。忌避すべきものを見る目。鼓動が嫌な音を立てる。
けれど彼は、すぐに咳払いをしてその感情を飲み込んだ。客は客、金貨に色はついていないと割り切ったのだろう。商人の顔を貼り付け直し、愛想笑いの皺を刻む。
「あいにくだけど、部屋は一つしか空いてないんだよねぇ……」
申し訳なさそうな声が、薄暗い空間にぽつりと落ちる。とっさに息を止めた。肋の下がひやりと固まって、動かない。
「……一つだけ……」
唇から零れ落ちた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
髪を見られた居心地の悪さと、想定外の事態への狼狽。首筋から頬へ熱が一気に走る。視界の端がじわりと滲み、わたしは無意識に襟元をかき合わせ、黒い髪を深く隠した。
ヴィルは、宿主の非礼な視線になど気づかぬふりで、眉ひとつ動かさない。
「仕方があるまい。それでかまわん」
風で窓枠がガタガタと鳴り、その微音を低い声が塗り潰していく。
あまりの平熱ぶりに、奥歯をぐっと噛みしめる。こちらの動揺などどこ吹く風の、岩みたいな落ち着き。それが今は、どうしようもなく恨めしい。
自分だけが不必要に意識して、熱を帯びている。その事実が、居たたまれなさを加速させた。
「わたしはべつに気にしないから。いいよ、それで……」
視線をつま先へ落とし、早口で告げるのが精一杯だった。腹の底がざわざわと波打ち、指先が冷たくなる。どうか、この頬の熱さがランプの灯りのせいだと思われていますように。
◇◇◇
通された部屋は、屋根裏に近い狭小な空間だった。古びた木の香りと、長く染み付いた埃の匂い。中央には簡素なベッドが一つだけ、白く寂しげに浮かび上がっている。
野営とは違う。焚き火を挟んで星空の下で眠る夜とは、何かが根本的に違う。あのときは風があった。虫の声があった。広い空が頭上にあって、彼の気配も夜気に溶けて薄まっていた。隣にいても、「外」があるから息ができた。
けれどここは、壁と天井に囲まれた狭い箱だ。窓は小さく、空気は淀み、彼の存在が逃げ場なく満ちている。同じ空気を吸っている。同じ空間に、閉じ込められている。閉め切られた室内の空気は生温かいはずなのに、背筋にはひやりとしたものが這い上がってきた。
ヴィルが無造作に荷物を床へ滑らせる。ドサリ、と鈍い音が響き、床の埃が微かに舞い上がった。
「すまんが、今夜一晩だけの辛抱だ。明日、別の宿を探そう」
事務的な響き。なのに、その低い声が耳に届いた瞬間、肋の裏がふっと緩むのを感じた。この人がいる。同じ部屋にいる。それだけで、どこか安心してしまう自分がいる。
同時に、小さな棘が刺さる。
「ミツル、ベッドはお前が使ってくれ」
低い声が、狭い部屋の空気を震わせる。
「でも、あなただって疲れているでしょう? わたしは体だって小さいし……ソファで十分よ……」
ソファの背もたれを、指先でそっとなぞる。ざらりとした布の感触が、指の腹に引っかかった。自分の声が妙によそよそしく聞こえて、それが余計に腹立たしい。
ヴィルは小さく首を横に振る。
「いや、いい。俺はここで寝る」
窓の向こうで夜鳥が鋭く鳴き、その声が静寂を切り裂いた。
わたしは視線をベッドの上へと滑らせた。シーツの白さが、やけに目に痛い。
「そんなの、悪いわ……」
ヴィルは肩をすくめ、わずかに片眉を上げる。
「気にするな。俺は戦場慣れしているせいで、どこでだって寝れるし、かえってその方が落ち着いたりもするんだ。それより、お前はゆっくり休んでおけ。育ち盛りに睡眠不足は毒だぞ」
――育ち盛りって。
その言葉が、喉の奥に小骨みたいに刺さって抜けない。
彼の中でわたしは、まだ背が伸びる子ども。守るべき親友の遺児。それ以上でも、それ以下でもない。
わかっている。頭では、完璧にわかっている。この身体は十二歳で、彼がわたしを子ども扱いするのは当然で、正しくて、むしろ感謝すべきことだと。
なのに――納得が、できないわたしがいて。理性で整理すればするほど、整理された「仕方なさ」が押し潰してくる。逃げ場がない。どこにも。
「……ありがと」
言葉が途中で途切れた。「ありがとう」と言うつもりだったのに、最後の一音が喉に貼りついて出てこない。感謝しているのは本当だ。なのに素直に言えない自分がいて、その理由がわからなくて、わからないことに苛立つ。
彼は気にした様子もなく、部屋の隅にあった衝立を引きずり、部屋の中央に設置し始めた。ガタガタと床を擦る音が、夜の静けさを破る。わたしと彼の間に、物理的な境界線が引かれていく。
正しい。これは正しい配慮だ。けれど、その正しさが、今のわたしには酷だった。
ベッドの端に腰を下ろす。革のブーツを脱ぐ指先が震えているのがわかった。この緊張は、戦場で感じるそれとは決定的に違う。外敵への警戒ではない。衝立の向こう側にいるヴィルの存在そのものが、わたしの神経を張り詰めさせている。
でも、不思議と嫌ではなかった。同じ空間に彼がいる。その事実が、緊張と同じくらい、どこか心地よくもあった。衝立で隔てられていても、気配は伝わってくる。彼がそこにいる。わたしを守ってくれる人が、すぐそばにいる。
父が死んでから、こんなふうに安心して夜を過ごしたことがあっただろうか。
いつも張り詰めていた。一人で眠るのが怖かった。暗闇の中で目を閉じると、父の最期の姿がちらついて、母の悲鳴が耳の奥で響いて、どうしても眠れない夜が続いた。
でも今夜は――彼がいる。
その安堵が、肋の裏にじんわりと広がる。ああ、この人の傍にいたい。ずっとこうしていたい。それは子どもじみた願いだと、頭ではわかっている。わかっているのに、止められない。
衝立の向こうから、衣擦れの音が聞こえた。革のベルトが外れる、重たい音。金具同士が触れ合う、硬質で小さな音。鎧が床に置かれる、鈍い響き。
その瞬間、胸の芯で何かが跳ねた。
さっきまでの安らぎとは違う。もっと鋭い、熱を帯びた何か。すぐ隣で彼が服を脱いでいる。その事実が、急に生々しく迫ってくる。
呼吸が浅くなり、自分の息の音さえうるさく感じた。
なぜ。どうして、こんなに動揺するのだろう。見えてもいないのに、彼の姿を想像してしまう。広い肩。鍛えられた背中。戦場で幾度も見たはずのその身体が、今夜に限って、妙に意識の中に貼りついて離れない。
熱い。身体の奥が、熱い。
――なのに、この身体は何も応えない。
二十一歳の意識だけが先走って、十二歳の肉体はただ困惑している。その乖離が、ひどく居心地が悪い。こんなことを考えている自分が、どこかおかしいのではないかと思う。
わたしは逃げるように毛布を頭まで被り、身体を小さく丸めた。膝を抱える。幼い子どもがそうするように。
「……馬鹿みたい」
シーツの中で呟く。布の匂いに混じって、わずかに彼の残り香がする気がした。
さっきまで、彼がいることに安心していた。守られている、と感じていた。それは確かに本当だった。なのに、衣擦れの音ひとつで、全然違う感情が押し寄せてくる。
――どちらも、本当のわたしなんだ。
この人に守られていたい。この人の傍にいると安心する。――同時に、この人の気配を感じるだけで、内側がざわついて落ち着かない。
その二つが、矛盾なく同居している。
父が恋しいのだろうか。ただ、誰かに甘えたいだけなのだろうか。それとも――これは、別の何かなのだろうか。
答えが出ない。考えれば考えるほど、境界線が曖昧になっていく。
窓の隙間から入り込んだ夜風が、衝立を越えて頬を撫でた。その冷たさが、自分の頬の熱さを残酷なまでに教えてくる。
「ヴィル……眠らないの?」
静寂に耐えきれず、思わず口をついて出た言葉。
声をかけてしまったことを、すぐに後悔した。けれど同時に、彼の返事を待つ自分がいる。彼の声が聴きたい。その低い響きを、もう一度確かめたい。
衝立の向こうで、気配が動いた。
「お前こそ、何で起きてるんだ? さっさと寝ろ」
低く、少しだけ掠れた穏やかな声。軋んだ床板の音が、彼の体重を伝えてくる。
――ああ、この声だ。
耳の奥が、ふわりと温かくなる。同時に、きゅっと締めつけられるような痛みも走る。この矛盾した感覚の正体が、わからない。
ただ、彼がわたしに声をかけてくれた。それだけで、さっきまでの緊張が少しだけ和らぐのを感じた。見捨てられていない。ちゃんとここにいる。わたしのことを気にかけてくれている。
その安心が、子どもじみていると自覚しながらも、どうしようもなく心地よかった。
わたしは毛布を強く握りしめ、衝立に背を向けた。
「別に……ただ、ちょっと考え事……」
下手な言い訳は、闇の中に吸い込まれていく。
本当は、あなたがそこにいるから眠れないのだと――そう言えたなら、どんなに楽だろう。でもそれは、何を意味する言葉になるのだろう。甘えたいという意味か。それとも――
考えるのをやめた。今夜は、これでいい。彼がいる。同じ部屋にいる。衝立の向こう側で、同じ夜を過ごしている。
それだけで、わたしは満たされていた。
今夜だけは――今夜だけは、このまま。
短い沈黙が落ちる。
部屋には夜の冷たさと、触れれば壊れそうな静謐さが満ちていた。時折、外から風の音が聞こえる。けれど、それすらも今夜は穏やかに響いた。
だからわたしは、まだ知らなかった。この夜の安らぎが、どれほど脆いものだったのかを。
◇◇◇
夜中、ヴィルが再び動き出す気配がして、意識が泥の底から浮き上がった。
衝立の向こうで影がすっと立ち上がり、天井に長く伸びる。気づかないふりをしたいのに、瞼が勝手に薄く開いてしまった。
――あんなに安心して眠れていたのに。
なのに今、彼は出て行こうとしている。
暗闇の中、彼は足音を殺してドアの方へ歩いて行く。やがて、蝶番が遠慮がちなきしみ声を上げ、隙間から夜気がすっと流れ込んで、腕の産毛を逆立てた。
一人残された部屋。背筋を這い上がる不安に、毛布の中で足指が縮こまる。
急に、部屋が広くなったように感じた。さっきまで彼の気配で満ちていた空間が、がらんどうになって、冷たい闇だけが残っている。
――こんな時間に、何しに?
呟いた唇は乾いていて、微かに震えた。嫌な予感が胃の底で膨らむ。衝動的に身を起こし、ローブを羽織った。思考よりも先に身体が動く。ただ、彼を追わずにはいられなかった。
――嫌だ。置いていかないで。
そんな言葉が、喉の奥でつかえて消える。子どもじみた懇願。口に出すのが恥ずかしくて、でも、それが本音だった。
マウザーグレイルの柄を握りしめると、その冷たさだけが唯一の救いのように感じられた。けれど、茉凛からの反応はない。
外は静まり返り、月明かりが石畳を青白く濡らしていた。夜気が首筋を撫で、背中の汗がひやりと冷える。
わたしは息を殺し、ヴィルの影を追った。冷えきった空気の中、自分の心臓の音だけが、耳の奥で太鼓のように鳴り響いている。腹の底からせり上がる焦燥感が、肋骨を内側から叩く。
街はひっそりと眠っている。月光が路地裏の汚れを隠すように、すべてを青く染めていた。足音を忍ばせても、小さな石を蹴るたび、カツンと硬い音が響き、それが罪悪感みたいに足首へ絡みつく。
怖い。けれど、それ以上に確かめずにはいられなかった。角を曲がった先。賑やかな酒場の裏手、腐った果実とアルコールの匂いが混じる場所。
そこに広がる光景が目に飛び込んできた瞬間、足がぴたりと地面に縫い付けられた。
月明かりの下、ヴィルと見知らぬ女性が向かい合っている。彼女は夜道に浮くほど華やかなドレスを纏い、長くゆるやかなウェーブのかかった髪は、人工的で鮮やかなピンク色だった。生え際のあたりが妙に整っていて、夜風にもほとんど乱れない。――そんなの、どうでもよかった。胸元が大きく開いたその装いは、成熟した女の曲線を惜しみなく晒している。
口元に艶めかしい笑みを浮かべ、上目遣いでヴィルを見上げている。
そしてヴィルは――その彼女に、ふと穏やかな笑みを見せていた。
喉の奥が詰まり、呼吸が止まる。
わたしに向ける保護者めいた顔とは違う。大人の男の、柔らかく、どこか粘り気を帯びた秘密めいた表情。
あのとき感じた安らぎが、急速に色褪せていく。
彼の手がするりと動き、彼女の掌に金貨を握らせる。触れたのは一瞬で、すぐに距離が戻った。指先が重なったのかどうかさえ、確かめられないほど短い。
それは『仕事』の手つきだったのかもしれない。それでも、その一瞬が永遠みたいに長く見え、指先の熱まで想像できてしまった。
知っているはずのヴィルが、まったくの他人のように遠く見える。耳の奥で血流が轟々と鳴り、唇の内側を噛んだ歯の間から、鉄錆の味が広がった。
「……そっか」
声を絞り出した瞬間、視界が滲んだ。否定するように首を振っても、瞼の裏に残った光景は消えない。
――ああ、そうだ。彼だって男なのだ。
わたしの頭の中にいる二十一歳の理性が、凍えるような冷静さで囁く。彼は健康な成人男性で、聖人君子じゃない。旅の緊張から解放されて、人肌が恋しくなる夜だってある。それは生物として当たり前のことで、何ひとつ責められるようなことじゃない。
それを勝手に「清廉潔白」だと信じ込んでいたのは、わたしの幼稚な願望に過ぎない。
なのに。なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。息ができない。彼の自由だと頭ではわかっているのに、身体が拒絶している。この痛みの名前がわからない。わからないのに、涙だけが勝手に溢れてくる。
同時に、十二歳の身体が叫んでいる。
――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。わたしには「子供は寝てろ」なんて線を引いておきながら、自分は夜の街で「男」に戻るの? わたしを置いていくの?
その思考が浮かんだ瞬間、肋の奥で何かが軋んだ。
父が死んだ日のことを思い出す。目の前で崩れ落ちた父の身体。伸ばした手は届かなくて、わたしは一人取り残された。母の生死もわからないまま、この世界に放り出された。
ヴィルだけが、わたしの傍にいてくれた。この人だけは、わたしを見捨てない。この人の傍にいれば、もう一人じゃない。そう信じていた。信じたかった。
なのに、彼はわたしを部屋に残して、別の女のところへ行く。わたしじゃない誰かに、あんな顔を見せる。わたしには絶対に向けない、あの甘い笑みを。
――あの女は、ああやって彼に近づける。
その事実が、鋭く胸を抉った。
豊かな胸元。しなやかに伸びた腕。夜の闇に映える肌。わたしが持っていないもの。この身体では絶対に手に入らないもの。彼女はそれを惜しげもなく晒して、彼の視線を受け止めている。
わたしには、それができない。
胃の腑が氷を飲み込んだように冷え、縮み上がる。信じていた何かが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
「そういうことよね……」
乾いた言葉は、足元の石畳に吸い込まれて消えた。拳を強く握りしめると、爪が皮膚を突き破りそうなほど食い込む。
わたしは彼のことを分かっているつもりでいた。実際には何も知らなかったのだ。ただ、旅を共にし、頼りになる背中に甘えていただけ。わたしは所詮、亡き親友から託された「荷物」で、「守るべき子供」でしかない。
子どもは、置いていかれる側なのだ。父がそうだった。母もそうだった。そして今、ヴィルも。
守ってくれると信じた人は、いつかわたしの手の届かないところへ行ってしまう。当たり前だ。わたしは子どもで、彼らは大人で、大人には大人の世界がある。わたしが入れない場所が、わたしが知らない顔が、わたしが触れられない温もりがある。
対等な仲間だと思っていたのは、わたしのうぬぼれだった。彼の領域に、わたしが踏み入る隙間なんて、最初から一ミリもなかったのだ。
自分が滑稽で、惨めで、拳の震えが止まらない。
不意に、夜風に乗って彼の声が届いた。
ヴィルは、わたしが知らない柔らかさで――
「続きは場所を変えて、ゆっくり話そうか」
低く、とろけるように穏やかなバリトン。その響きに、膝の力が抜けた。
そんな声、わたしは知らない。
二十一歳のわたしは、その先を想像できてしまった。場所を変えて。ゆっくり。薄暗い部屋。閉じられた扉。彼の大きな手が、あの女の肌に触れる――
想像が鮮明すぎて、吐き気がした。
同時に、十二歳のわたしは、ただ耳を塞ぎたかった。
聞きたくない。知りたくない。わからないままでいたい。
隣にいる女性が満足そうに頷き、鈴を転がすように笑う。その笑い声が、生温かく内側をじりじりと焼き焦がす。
叫び声は音にならず、喉の奥で詰まって消える。
わたしは背を向け、足早にその場を離れた。石畳を踏むたび、衝撃が足裏から脳天へ突き抜ける。涙で歪んだ視界のまま、冷たい風の中をひたすら歩く。
震える手の甲で何度頬を拭っても、そこにある熱は消えてくれなかった。
安らぎは、もう戻らない。そう思った瞬間に、ようやく息が詰まった。
◇◇◇
宿に戻ると、身体の芯まで冷え切っていることに気づいた。
夜風が骨の隙間まで吹き抜けたようで、指先は氷のように白く、感覚がない。背中に張り付いた冷や汗が悪寒となって、皮膚の上を這い回る。
毛布の中にダンゴムシのように丸くなり、頭まで覆った。暗闇に閉じこもれば、目に焼き付いたあの光景が少しは薄れるかもしれない。けれど、瞼の裏には鮮明にヴィルの姿が浮かぶ。路地裏の淡い月光。ピンク色の髪。穏やかな微笑み。
それらが走馬灯のように巡り、喉の奥が錆びた刃物でえぐられるように痛んだ。
その時、静まり返った部屋の空気が微かに動いた。
ドアノブが回る、小さな金属音。
ヴィルが戻ってきたのだと悟っただけで、心臓が肋骨を突き破りそうに跳ね上がった。
帰ってきた。あの女のところから。
その事実が、胃の底を氷の手で鷲掴みにする。
寝たふりを続けるしかない。息を細く切り、布団の中で石になる。
重たい足音が一歩ごとに床板をきしませ、その振動が直接背骨に伝わってくるようだ。喉が詰まり、呼吸が止まる。
毛布の闇の中でぎゅっと目を閉じる。シーツを握る指先は白く変色し、爪が手のひらに食い込んで痛い。
震えを悟られたくなかった。この惨めで無様な姿を、彼にだけは知られたくなかった。
泣いていたなんて、絶対に知られたくない。
それは怒りよりも、悲しみよりも、何よりも強い感情だった。こんなことで傷ついている自分を、彼に見せたくない。見せてしまったら、何かが決定的に終わってしまう気がした。
「……ミツル、起きているか?」
低く、囁くような声が頭上から降りてくる。鼓膜に触れた瞬間、身体がびくりと跳ねそうになるのを、全身の筋肉を強張らせて抑え込んだ。
「……返事をしろ。お前に伝えたいことがある」
その声には、微かな迷いと、切実な響きが混じっていた。
聞きたくない。どんな言葉だろうと、聞きたくなかった。
もし彼の説明が嘘だったら、その嘘に傷つく。もし本当だったら――本当だったとしても、それはそれで辛かった。「お前の勘違いだ」と言われることは、「お前は子どもだから変な想像をしたんだろう」と言われるのと同じだから。
そしてなにより、説明を求めること自体が嫌だった。
「あれは何だったの」と問い詰める自分を想像する。その瞬間、わたしは認めてしまうことになる。あの光景に傷ついたと。彼が別の女といることが、耐えられなかったと。
そんなことを認めて、どうなるというのだろう。
問い詰めれば、怒りを見せれば、この痛みに名前がついてしまう。彼にも、わたし自身にも、誤魔化しようがなくなる。
嫌だ。それだけは、嫌。
わたしは何も感じていない。何も見ていない。あなたが夜中にどこへ行こうと、誰といようと、わたしには関係ない。
そう振る舞うしかなかった。それが唯一、自分を守る方法だった。
けれど応えられない。唇は糊付けされたように動かない。声を出した瞬間、震えてしまう。泣いていたことが、ばれてしまう。
だから黙っている。石のように、死んだように、黙っている。
ヴィルがすぐそばに立っている。その気配の質量が、酸素を奪っていくようだ。
長い、永遠のような沈黙が降り積もる。
やがて、諦めを含んだ深いため息が、部屋の空気に溶けた。気配が離れ、足音が遠のき、衝立の向こう側へと消えていく。
行ってくれた。
ほっとしたのか、それとも――。
わからない。背中にあるのは、安堵なのか、失望なのか、それとも全く別の何かなのか。
さっき同じ部屋で眠れたことが、遠い夢のように思える。
あのとき感じた安らぎは、もうどこにもない。同じ空間にいるのに、彼がひどく遠い。衝立一枚の距離が、さっきより何倍も分厚く感じられた。
ただ一人、冷えきった夜の闇の底で、わたしは息を殺し続けていた。
何も聞かなかった。何も言わなかった。それでよかったのだと、自分に言い聞かせながら。
それでよかったのだと――信じたかった。




