縁が紡ぐ旅路
崖沿いの道を、大男が駆け抜けていく。風が砂を抱え、背中の輪郭が揺れて、まるで旋風が人の形を取ったみたいだった。
魔獣の包囲はまだ重い。背の皮膚に、咆哮の震えが貼りついたままだ。けれど、彼が無骨な斧でこじ開けた隙間がある。その裂け目へ、わたしたちは迷わず馬を滑り込ませた。
「あの背中を逃すわけにはいかん! スレイド、食らいついていくぞ!」
ヴィルの叱咤が風切り音に混じって飛んでくる。手綱を握る革手袋がぎしりと鳴り、スレイドが主人の意志に応えるように鋭く嘶いた。
並走してまず目を奪われたのは、その質量だ。筋肉が鎧のように盛り上がり、土煙を巻き上げながら馬と速度を競っている。
目が追いつかないのに、彼は自分の足で大地を蹴り、疾走するスレイドと互角に渡り合っている。一歩踏み込むたび岩場が震え、地響きが蹄の音に絡み、鞍越しにわたしの芯へ届いた。
《《うっわ、なにあの走り方! 人間じゃないよ、あれじゃまるで蒸気機関車だ!》》
茉凜の素っ頓狂な声が脳裏で跳ねる。たしかに、的確すぎる比喩だった。
「……あんな重そうな斧を振り回して、よく息も切らさないでいられるわね……」
呆れと感嘆が混じった呟きが、乾いた風に吸われていく。舞い上がる砂が日差しに透け、舌の裏がほんの少しざらついた。
やがて前方の岩陰に繋がれていた馬が見えてくる。男は速度を緩めず、並走しながらひらりとその背に飛び乗った。鞍がきしみ、太い蹄が地面を深くえぐる。
「待たせたな相棒! では、ゆくぞ!」
豪快な掛け声とともに、男は馬を操り、スレイドと並んで南へと進路を取った。蹄が土を叩く乾いた連打音と、互いの荒い息遣いだけが、しばらくの間、渓谷の沈黙を埋めていった。
隣を走る馬は、気の毒なほど小さく見えた。巨体の下で背は沈み込み、頼もしげな胴体さえ仔馬のように頼りない。四肢を踏ん張って走るその健気さに、喉の奥から笑いが込み上げそうになり、わたしは小さく咳払いをしてごまかした。
潰れてしまいそうな重圧を背負いながら、それでも主人のために駆ける。その可笑しさが、指先の力を少しずつほどいていく。
◇◇◇
乾いた風に、緑の匂いが混じり始めた。
視界に木々の色彩が戻り、肌を刺すような魔素の濃度が薄れていくのがわかる。頬を打つ風が、熱を含んだ突風から、木陰の涼やかさを孕んだものへと変わっていた。
川のせせらぎが耳に届く頃、わたしたちは手綱を引いた。馬たちが身震いし、大きく鼻を鳴らす。肺の底まで空気を吸い込むと、胸郭がひさしぶりに広がった。こわばっていた肩の力が、吐く息と共にゆっくり沈んでいく。
まだ熱の残る火照った頬を、川面から吹く湿った風が撫でていった。
「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」
乱れた呼吸を整え、彼に向き直る。鞍の上できしりと音が鳴った。
大男は無骨な瞳をしばたたき、きょとんとしてこちらを見つめ返した。やがて、モヒカンに刈り上げた頭を大きな手でガサガサと掻く。
厳つい顔の筋肉が緩み、皺の奥から、はにかむような笑みが浮かび上がった。その瞬間、彼を纏っていた圧がすっと薄れる。
丸太のような腕と、子供じみた照れ笑い。警戒を解くには十分すぎる不均衡だった。
「いやいや、礼には及ばん。たまたまでかい群れを見つけて、稼ぎ時と調子に乗って追いかけていたら、そなたたちと出くわしただけのこと。無事逃げおおせることができて、何よりだ」
声は若々しい。だが、言葉の端々に老成した響きが混じる。低く腹に届くのに棘がない。その不一致が、場の空気をさらにやわらげていく。
「助力に感謝する。まさかこんな場所でバルバロードに出会うとはな。俺の名はヴィル。そして、こいつはミツルだ。故あって共に旅をしている」
ヴィルが片手を差し出す。探るような視線のまま、それでも手は真っ直ぐだった。
「儂の名はバルグ。バルグ・キーンという。よろしくな」
分厚い掌がヴィルの手を包み込む。岩のようにゴツゴツとした関節。けれど、握り返す力加減は驚くほど丁寧で、敬意が伝わってくる。
名を聞いた瞬間、ヴィルの眉がわずかに動いた。
「なに、キーンといったか……?」
一拍の間。
川の音が、急に近く聞こえた。草を擦る風だけが、細く耳を撫でる。
「では、お前は高名な三氏族の一つ、あのキーンの出身か?」
バルグは太い眉を持ち上げ、興味深そうに身を乗り出した。鞍が悲鳴を上げる。
「いかにも。そなた、なかなか詳しいな」
「ああ、昔はいろいろと戦場を渡り歩いたもんでな。“ゾイダス・キーン”という男とは、よく酒を酌み交わしたものだ」
ヴィルの声音から険しさが消え、懐古の色が滲む。泥と血の匂いを知る者だけが共有できる、静かな連帯の響きだった。バルグの深い瞳が、驚きに見開かれる。
「なんと、ゾイダスと言ったか。それは儂の叔父だ。奇遇であるな」
「あんたの顔立ちをひと目見て、どことなく似ているとは思ったが。ゾイダスは達者か?」
「おう。ぴんぴんしておるわ。今は里で後進の指南に明け暮れておる」
「そうか、そいつはよかった」
「この出会いは、縁の成せる業かもしれんな。わっはっはっ」
豪快な笑い声が風に乗る。
二人の間に流れる空気が、いつしか旧知のそれのように馴染んでいた。男たちの間に通う、言葉少なな共鳴。わたしはその輪郭を、少し離れた場所から目を逸らせずにいる。唇の裏を、そっと噛んだ。
◇◇◇
こうして、バルバロードのバルグが旅の列に加わった。馬の足並みは緩やかで、午後の日差しが背中を温めている。
行き先を確かめれば、彼もまたリーディスを目指しているという。こんな荒野の真ん中で、行き先が重なるなんて。
地図の上で指先が触れ合い、紙の冷えだけが、ひやりと残った。
「バルグは、なぜリーディスを目指しているの?」
なびく黒髪を耳にかけ、問いかける。
馬上のバルグは、手の甲で鼻の下をこすり、口角を吊り上げた。その仕草には、鋭さと少年めいた悪戯心が同居している。
「ふふん……儂は美味いものには目がないのだ。彼の国の食文化は大陸一と聞く。実際にこの目で見て、匂いを嗅いで、舌で味わってみたいと思ってな」
ぱちくりと瞬き、思わず顔がほころぶ。
干し肉の硬さが、ふいに舌の上に蘇った。次の食事の湯気を想像するだけで、口の中が静かに潤っていく。
「へえ……わたしも似たような動機なの」
バルグの目が丸くなり、次いで面白がるように細められた。
「ほう、面白い。同じ目的の者同士が、こうして出会うことになるとはな」
茉凜に伝えたい味の記憶が、喉の奥で小さく揺れる。思い出すだけで唾が湧き、わたしはこっそり飲み込んだ。
横で聞いていたヴィルが、深いため息をつく。
「それにしても、お前は変わり種のバルバロードだな」
呆れ半分、興味半分といった声色。
手綱を指先で確かめながら、ヴィルはバルグの巨大な背中を見上げた。革が指の腹で小さく鳴る。
バルグが肩越しに振り返る。
「であるか?」
「部族の若者といえば、皆修練を収めると傭兵や武者修行に明け暮れると聞く。だが、食を求めて旅するという奴は初めて見た」
指摘を受けたバルグは喉を鳴らし、肩を揺らした。
彼の馬が重みに耐えかねて、短く嘶く。その音が草原の静けさを一度だけ揺らす。
「はっはっはっ。修行だけの旅など味気なかろう? 広い世界を見て回り、その土地の美味いものを食べることも、成長の糧になると思っておる。儂の目標は、強く、でかい漢になることよ」
あまりに直球な物言いに、返す言葉が一瞬宙に浮く。
「えっと、ただでさえ大きいのに、まだ大きくなるつもりなの……?」
《《ちょ、ちょっと。美鶴ったら、さすがにそれはボケにすらなってないと思う》》
茉凜の声が耳の奥をくすぐって、口の端が勝手にゆるむ。
スレイドが小さく鼻を鳴らすと同時に、手綱の革が指先できゅっと締まる感触があった。
「でかくなるのは勝手だが……まず馬の背と、路地の幅に相談しろよ。王都には入り組んだ狭い路地もあるんだからな」
ヴィルは淡々と告げる。
その言葉に、バルグの表情がぴたりと凍りついた。
「む……路地の幅、とな?」
バルグは真顔になり、顎に手を当てて黙り込んだ。
深刻な顔つきで考え込む巨人と、それを冷静に見守るヴィル。その対比がおかしくて、口元がむず痒くなる。
「確かに、狭い路地とか戸口でつかえて笑われたことがある。あれはなかなかに屈辱であった……身体を横にして、カニのように歩かねばならんのだ」
川面を渡る風が、三人の間を吹き抜けていく。
想像してしまった。この巨漢が、狭い路地で身動きが取れなくなり、真っ赤な顔でカニ歩きをする姿を。
「ほらな。ちゃんと実績がある」
ヴィルが肩をすくめる。
一拍遅れて、バルグが腹の底から声を上げた。その声は、悩みなど吹き飛ばすように力強い。
「わっはっはっ。ならば儂は、『強く、でかい』に加えて、器用に『まかり通る漢』を目指すとしよう!」
太い声が草原に響き、遠くの小川のせせらぎと重なる。
豪快さがそのまま風になって、こちらの息まで軽くしていく。
ヴィルは数度瞬き、ふっと口元を緩める。張り詰めていた肩の力が、一息に抜けたように見えた。
「それにしても、修練一筋のバルバロードとは思えん。柔軟だし、なかなか愉快だ」
バルグは軽く首を振った。
その視線は、遠く広がる地平線の先を見つめている。
「愉快結構。戦うだけでは心が枯れるというものよ。儂は心を潤す旅をしているのだ。美味いものを食べれば、心も豊かになる。強さとは、力や技のみにあらずよ。心の余裕こそが、真の強さを支えるのだと、儂は思うておる」
言葉のあと、喉の奥がゆっくりほどけた。喜びの匂いを手放さないところが、どこか羨ましい。
「食を愛する戦士か……面白いやつだ。気に入った」
ヴィルの目が穏やかに細められる。
尖っていた空気はいつのまにか霧散して、こちらの息も、さっきより深くなっていた。
《《ちゃららーん♪ びしょくをたんきゅうするおおおとこが、なかまにくわわった!》》
絶妙な間、耳の奥に響く茶目っ気たっぷりのファンファーレ。
こらえきれない笑い声が、川面を渡る風に溶けてい




