バルバロード――荒ぶる風の化身
その瞬間、突風が荒い唸りを上げ、砂煙が視界を薙いだ。細かな砂がまぶたの裏に噛み、頬の産毛がいっせいに逆立つ。怒声の震源から溢れ出した力の奔流に、魔獣たちが一斉に強張った。大気がびりびりと鳴り、渓谷の重みだけが下へ沈んでいく。
わたしは反射で手綱を引き、革が掌で短く鳴った。馬の肩が小さく揺れ、鞍の金具がかすれた音を立てる。息が砂を噛んだまま、喉を通らない。
砂の幕の奥から現れたのは、戦場の輪郭そのものを押し曲げる巨漢――二メートルをゆうに超える大男だった。むき出しの胸板は岩のように隆起し、腕も脚も丸太じみて太い。皮の鎧は申し訳程度にしか身を覆わず、皮膚の下に力そのものが詰まっている。
男は巨大な両刃斧を両手に握っていた。刃は獣の牙みたいに鋭く、白い閃光が縁を走る。油でも火でもない匂い――乾いた金属と、擦れた埃の苦み。人の形をしているのに、災厄の気配がする。
喉に砂が貼りつき、声がうまく出ない。
「なに……? あれ……」
殺気が鋭い針のように肌を刺す。身じろぎひとつで、あの眼に絡め取られそうだった。ヴィルも険しい表情のまま、じっと巨漢を見据えている。
鐙がきしみ、革の鎧越しに彼の背筋がわずかに固くなる。
「こいつは……」
その短い一言が、わたしの拍を強く叩いた。ヴィルの背から伝わる緊張に、息の置きどころだけが浅くなる。敵か味方かも分からないまま、砂の霞が戦場をさらに張り詰めさせた。
巨漢の目がこちらへ向いた刹那、空気が一段冷え、周囲の音が布一枚ぶん遠のく。わたしは息を止め、ただ次を待った。
巨漢が肩をひとつ沈めた。
斧が振られるたび、視界の端が砂で白くにじむ。岩肌を撫でる気流が細い粒を跳ね上げ、遅れて圧だけが胃の底へ落ちてきた。咆哮が谷を雷鳴みたいに震わせ、背すじに冷えが走る。魔獣でさえ、その威圧に怯み、じりじりと後退する。
ヴィルの声は低く、砂粒の擦れる音に紛れながら芯だけ残った。
「ここはあの男の出方を見守ろう――」
意味がわからない。確かに男の放つ威圧感は並ではない。けれどたった一人では多勢に無勢。
「ただし、いつでも動けるようにしておけ」
疑問を投げかけるより前に、命令の温度がわたしを現実へ引き戻す。頷いたつもりなのに、首が少ししか動かない。指先にまだ力が残り、手綱がほどけない。
巨漢は斧を高く掲げ、砂を蹴って突進した。重さに反して速い。足が地を叩くたび、乾いた衝撃が地面から伝わり、鞍の下で小さく跳ねた。
「我が奥義、喰らうがいい。烈風乱舞斬――!!」
怒号が渓谷を震わせ、斧が旋風をまとって空を切る。爆ぜた空気が竜巻になり、白い閃光の渦が戦場を呑み込んだ。
風がこちらへも抉るように届き、砂が頬を叩く。耳の奥が痛いほど鳴り、まぶたが勝手に細くなる。
巨漢の体が目にも止まらぬ速さで回転し、全身が竜巻そのものへと変貌する。冷たい風が肌を刺し、白い閃光の渦が魔獣たちを巻き込み、圧で粉砕した。断末魔の叫びが岩壁に反響し、風圧で砕けた破片が頬を掠める。骨に響く痛みが走った。
指先が勝手に震え、握ったままの手がほどけない。
「あ、ありえない……。これが、人のなせる技だというの……?」
呟きは攫われた。うねる気流と魔獣の叫びが溶け合い、戦場の輪郭だけが揺らいでいく。立ち尽くすしかなかった。
背中へ冷たい汗が伝い、呼吸の仕方すら忘れて巨漢を凝視する。理解の外側にいる、という感覚だけが残る。
ヴィルが苦笑を浮かべ、低く呟いた。
「まるで神話の戦士だな。あれこそが――」
その言葉は砂に揉まれて欠ける。巨漢は止まらず、魔獣たちを次々になぎ倒す。砂が舞い、視界は薄く霞む。わずかな隙間から覗くその姿は、地に落ちた暴風そのものだった。
「――バルバロードだ。懐かしい。あの技は久しぶりに見る」
わたしは息を吸い直し、口の中の砂を奥歯で噛み砕いた。ざらつきが舌裏に残り、言葉が細くなる。
「……バルバロードって、なに?」
ヴィルは苦々しげに唇を結び、黒髪を風に乱したまま、しばらく沈黙した。斧が空気を裂くたび、遠い低鳴りが地面を伝い、遅れてこちらへ返ってくる。
背後で魔獣の爪が石を掻く音がした。蹄が砂利を噛み、鞍がわずかに沈む。止まってはいられないのに、視線だけが、巨漢から外れない。
「中央大陸の北の果て、極寒の山岳地帯に住まう少数部族でな――」
砂が頬を打ち、金具が一度だけ鳴った。わたしは肩をすくめて衝撃を逃がし、息を薄く吐き直す。
「長い年月をかけて過酷な環境を生き抜き、鋼の肉体と恐るべき戦闘技術を身に付けたとされる。古代より伝わる聖なる使命を重んじ、固有の文化と伝統を誇りにしているのだそうだ……」
説明のあいだも、巨漢の動きは止まらない。隆起した筋肉が硬く盛り上がり、暴風に晒されても軸が揺れない。頭頂から逆立つモヒカンが風を切り、厳つい目には覚悟だけが宿っている。無精髭と深い刺青が、部族の誇りと信念を黙って語っていた。
皮の鎧は最低限。生身こそが最大の武器で、己の力で戦う意志の印のように見える。打ち鳴らされる風圧の中で、それでも足運びが一度も乱れない。
ヴィルの声が続く。いつもより硬く、余計な飾りがない。
「彼らの力は、自然そのものの猛威を借りると言われている。風、火、大地――それらを体現する部族だ。滅多に姿を現すことはないが、その勇猛さから戦場では尊敬される存在だ」
なぜここに現れたのか。戦場の行方を左右する重さが、胃へじわりと沈んだ。
けれど、わたしの視線は別の一点に引っかかっていた。
斧から漏れる白い閃光。空気の中に球体の軌跡を描き、振るうたび閃きが濃くなる。視界の端だけが、ひやりと冴えていく。
舌の裏が乾き、声だけが細くこぼれた。
「あれは――」
喉から冷えが這い上がり、言葉の端が震える。
「――場裏……?」
《《うん……わたしもそう思う》》
限定事象干渉領域――場裏。少なくとも、その呼び名で輪郭まで掴んでいるのは、わたしと茉凜だけだ。
頬の傷が風にしみるのに、痛みより先に息が詰まる。わたしはそれを飲み込み、表情だけは動かさない。
並の術者なら、展開するだけで精神が削られる――負荷と代償を伴う力。
喉が小さく鳴り、息が一瞬だけつかえた。それをこの男は、息をするみたいに回している。
斧を中心に大気を爆ぜさせ、風を刃へ変える。鍛え抜かれた肉体がなければ支えきれないはずのやり方だ。
けれど、ヴィルにこれを語る気はなかった。場裏はわたしの前世と、深淵の血族の因子へ繋がる線に触れる。いまは、言えない。
なぜ彼が扱えるのか。深淵の血族の因子を受け継ぐ存在なのか。背を伝う汗が一段冷え、運命の影だけが、わたしの背後で静かに揺れている気がした。




