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魔獣の群れを食い破れ

「倒しても倒しても湧いてくる。これじゃきりがない!」


 焦りを含んだ声が、荒れた渓谷へ硬い残響を落とした。肋の裏で拍が跳ね、汗ばむ指が柄に吸いつく。握り直すたび、革がきしみ、冷えた金具の感触が指の腹を刺した。


 馬上で息を短く刻む。砂塵まじりの風が鼻腔を擦り、肺の奥へざらりと残る。視界の端で白い光粒が霧みたいに漂い、〈場裏・白〉を展開した。障壁が皮膚に貼りついた。敵意に触れるたび、淡い輝きが細く瞬く。


「はぁっ!」


 マウザーグレイルを振り抜く。刃を持たない剣先が描く軌跡に合わせ、圧縮された大気の塊が弾けた。


 ドォン! という重い音とともに、不可視のハンマーが落ち、魔獣が吹き飛ぶ。けれど開くのは、ほんのわずかな隙間だけだった。


 岩陰から黒紫の影がまた現れる。瞳の奥に光る敵意が、こちらへ刺さる。湧く。途切れない。額を流れた汗が頬を冷やし、顎先で震えた。


「今はこの渓谷を抜けるのが先決だ。すまんが、もう少し頑張ってくれ!」


 ヴィルの声が、馬上のざわめきと甲冑の擦れる音を貫いて耳朶にしみ入る。その響きに触れた瞬間、わたしはいつのまにか息を止めていたと気づいた。


「大丈夫よ。わたしはまだいける。あなたはスレイドを勇気づけてあげて!」


 喉を湿らせ、剣へ力をこめる。鞍ごしに伝わるスレイドの鼓動は跳ね、岩を蹴る蹄が細かな石を弾いた。黒い毛並みに汗が浮き、太腿へ体温がにじむ。背中に感じるヴィルの熱と一緒に、いま託せるのはこの確かな歩みだけだった。


 ヴィルが安定した手綱さばきで、愛馬の首筋を叩く。


「心配ない。こいつとは長い付き合いだ。共に修羅場も越えてきた、肝っ玉の座った奴だからな」


 その言葉で肩の力がふっと抜け、張っていた背筋がほどけた。信頼が波になって神経の端を撫で、わたしの中の硬い部分を少しだけ溶かしていく。


 けれど前に立ちふさがる牙と爪は途切れない。剣を振るたび、腕の芯がじり、と焼ける。唇を固く結び、油断すれば一瞬で命が零れる。指先に微かな震えが残った。


《《美鶴、次正面に出てくるよ!》》


 茉凜の澄んだ声が意識の底へ滑り込む。喉奥へ氷片を押し込まれたように、息が細くなる。


 マウザーグレイルを強く握り直し、ざわめきへ集中する。視界の先は彼女に預け、わたしは手綱の張りと馬体の振動へ神経を戻した。迷いは、手元へ落とさない。


 ――……これで、意識を切り替えずに済む。


 障壁の内側。冷えた空気のごく小さな乱れ。気配が指先を刺し、手の中のマウザーグレイルが警告するように微かに震えた。


「……くるっ!」


 目がわずかに光を捉えた瞬間、茉凜の警告が思考のなかで爆ぜた。馬体の振動と呼吸音、蹄の打音だけが現実をつなぎとめる。あとは、命のやり取りに身を放るしかない。


◇◇◇


 わたしたちは「魔獣の巣窟」を迂回し、キカロス南部を目指して渓谷を駆けた。馬が巻き上げる砂塵に、獣の血の匂いが混じる。風は乾いて、頬の皮膚を薄く削りながら背中を押した。


 スレイドの荒い息遣いが耳元に近い。全力疾走の振動が鞍ごしに骨へ響き、湿った毛並みに太陽の熱が貼りつく。喉が渇いても、舌を動かす暇がない。


「ヴィル。このままじゃスレイドの体力が心配よ。どこかで一息つけるといいんだけど」


 言葉の端が切れて、息が追いつかない。切り立った岩壁が前方の視界を断ち、行き先の影が細く滲んだ。


 ヴィルはちらりとわたしを振り返り、鋭い視線を投げる。刃みたいな眼差しの奥に、微かな温度が灯っていた。


「わかっている。だが、ここで一瞬でも立ち止まれば、魔獣に追いつかれるだけだ」


 迷いがないぶん、胸の奥がじわりと冷える。蹄音が早鐘みたいに岩へ跳ね返り、耳の奥へ刺さる。


「それなら、わたしが岩盤をくり抜いてシェルターを作る手もあるけど?」


 柄を握り直す。〈場裏・黄〉の地質操作。汗が指の間に滲み、滑りそうになる。


 ヴィルは短く考え、すぐ首を振った。手綱を握る指が一瞬だけ硬くなる。


「それはだめだ」


 声が落ちる。揺れる鞍の上で、喉がきゅっと鳴った。


「なぜ?」


「穴に逃げ込んだところで、あいつらは諦めやしない。群れは群れを呼び、ますます数を増やす。それに魔獣は疲れも飢えも知らない……あいつらは、ただの生き物じゃないんだ」


「ちぃっ!」


 歯を噛みしめる。口腔に金属の味が広がった。


 魔獣――生物の常識を裏切る異質さだ。環境に応じて姿を変えても、芯は執拗な狩人のまま。倒れるまで休まず、情けもない。


 ――まるで。殺戮だけをプログラムされた『自動人形(オートマトン)』みたい……。


 その冷徹さに背筋が粟立つ。穴に立て籠もれば、逃げ延びる機会は削れていくだけだ。


 息の仕方だけがずれていく。逸る気持ちを鞍の硬さで押さえ込み、視線を前へ据えた。立ち止まれない。逃げ続けるしかない。


 絶え間なく襲い来る魔獣を剣で押し返し、ようやく崖沿いの一本道へ。風が岩肌を撫で、水音が低く響く。四方からの危機は一時しのぎで遠ざかった。


「やっと、一息つけそうね……」


 鞍の上で肩の力が抜ける。岩壁が防壁になり、囲みも薄れる。谷底の水音が微かに響き、耳の奥に冷たさを残した。その流れが、心の底に小さな希望の泡を浮かべる。


 だがヴィルは、表情を崩さない。


「いや、まだだ。この一本道を抜けるまでは気を抜くな」


 張り詰めた声で、空気の湿りが増す。安堵にはまだ早い、と告げられている。


「どうして?」


 眉を寄せ、声もひそめる。狭い道に得た安息の影が、指先からほどけかける。


 ヴィルは崖下へ視線を落とし、またわたしに向き直った。


「こういう時こそが一番やばい。罠とは気が緩んだ隙間を狙ってくるものだ。足元を掬われれば、簡単に転げ落ちるぞ」


 経験の重みが、肋の裏を冷やし、釘のように刺さる。


「……わかった。気を引き締めるわ」


 再び剣を強く握る。冷えた柄の質感が、指先に張りを与えた。谷底の水音が、逆に集中力を試してくる。


《《美鶴。や、やばいよ。いっぱいすぎてわかんないくらい来る!》》


 茉凜の緊迫した声が頭の内側を突き抜け、背筋が凍る。普段は陽気な彼女の切羽詰まった響きだけで、状況の異常がわかる。


「嘘でしょ……」


 顔を上げ、前方に目を凝らす。一本道に重苦しい圧力。波立つたびに空気が震え、群れの気配が増していく。


 ヴィルも異変を察し、峻厳な顔でわたしを見た。鋭い眼差しが湿った風とともに空気の密度を高める。


「これは、さすがに多すぎるわね……」


 スレイドの耳がぴくりと動く。愛馬も本能で危機を察しているのだろう。岩壁の裂け目から、不吉な獣の匂いが入り込んだ。


《《これ、マジヤバかも。美鶴、どうする? だからって『全力』はしたくないよね?》》


 茉凜の焦りが鼓膜を打つ。


「うん……この状況ではリスクが大きすぎる」


 わたしの〈場裏〉は、最大到達距離も最大展開半径も二百メートルに達する。腹を括れば、〈場裏・赤〉で群れごと包み、領域解放で熱を叩き込んで焼き尽くすことだってできる。けれど、いまそれをやれば、障壁の内側で岩が鳴り、崖が砕け、足場が崩れる。ヴィルの背中の重みも、スレイドの体温も、まとめて谷底へ持っていかれる。


 そして何より、わたしの中の「それ」が顔を出す。あの醜い愉悦の形。舌裏が乾き、喉が詰まる。彼にだけは、もう見られたくない。


「『過ぎたるは(なお)及ばざるが如し』っていうしね。それに……」


 鼻から息を吸うと、冷たい空気が喉を洗い、舌裏の乾きが少しだけ退いた。逃げ道はない。詰められる前に――抜けるしかない。


「さて、どうしたものかな?」


 ヴィルが肩をすくめ、鞍のきしみとともに張り詰めた空気がほんの僅か緩む。軽口が重苦しさを薄くする。けれど現実は容赦ない。


「ここで引き返せば、今まで振り切ってきた魔獣どもと鉢合わせ。正面にはさらに大きな群れがいる。どちらにしても挟み撃ちだ」


 強い風が渓谷を吹き抜け、岩の裂け目が唸った。彼の目に絶望はない。その眼差しに触れた瞬間、わたしの中で鼓動がひとつだけ強く打つ。ここで倒れるわけにはいかない。


「そんなこと、わかってるわよ」


 指先に汗が滲む。恐怖というより、踏ん張るための湿りだった。ヴィルがわたしを見た。夕暮れの光が横顔を淡く照らし、鋭さの奥にかすかな温もりを忍ばせている。


「なぁ、こういう時にどうするか知っているか?」


 問いかけは試すためじゃない。信頼の呼吸だった。


「決まってるでしょ。わたしは引き返すことも、振り返ることもしたくない。前に進むだけよ」


 短く笑う。風がひと息だけ弱まり、甲冑の軋みが静かに残った。


「ふっ、やはりお前はユベルの娘だな。あいつならきっとそう言うさ」


 ヴィルの笑みには、誇りと柔らかさが混じった。谷間を渡る風とともに、ひとつの間が流れた。


「当然でしょ。わたしは黒髪のグロンダイルよ。……なんてね。ま、そんなふうに名乗るのは、我ながら柄じゃない気もするけれど」


 言い終えた途端、唇の端に自嘲めいた熱が灯る。逃がすように息を吐いたら、背中越しの重みが、変わらず支えてくれているのがわかった。


 微笑み返し、身体の芯へ熱を満たす。もう立ち止まる理由はない。


「ならばその名に恥じぬよう、正面突破しかあるまい。だが、無策のまま突っ込むわけにもいかん。まずはお前の考えを聞きたい」


 その眼差しが、わたしの背を押した。彼は思考を放棄していない。ただ、いまこの場でわたしが出せる一手を待っている。なら、応えない理由はない。


「わたしがスレイドの進行方向前面を覆う形で、適宜『風の障壁』を張る。同時に『空気の爆弾(エア・バースト)』を周囲に展開して備え、近づく奴らを吹き飛ばす。崖上から攻め込まれないように、連続的に土の防壁を立てて進路を確保していく。この三段構えでいく。どう?」


 白は展開して圧を重ね、黄は領域解除しても残る。頭の中で段取りだけが、静かに整った。


 進路の確保。殲滅よりも突破を優先する。これがわたしの導き出した、「力の使い方」だった。


 声だけ平らに保った。指の腹で柄を確かめ、鞍の硬さが太腿へ返ってくる。


 ヴィルの目に驚きが一瞬よぎり、すぐに優しさがにじんだ。


「……まったく、そういう無茶苦茶なことをさらっと言ってのけるのが、お前の凄いところだよな」


 口元がほどける。笑いそうになるのを、唇の裏で堪えた。革の冷たさが掌に染みる。


「あら、そう? 同時並行の術行使なんて、いまさらでしょう? わかってて投げたくせに」


 肩をすくめてみせる。けれど指先の微かな震えは、まだ消えない。


「これは失敬した」


 ヴィルはしっかりとこちらを見てから前方へ視線を戻し、剣を引き抜く。夕陽を受けた銀の光が、ひと筋だけ静かに空気を切り裂いた。


「……さてと。それでは魔獣の群れを」


「突き破りましょう!」


 互いの一言に、覚悟がまとまって落ちる。ためらう暇はない。前だけを見る。


《《切り抜けた先で、みんなでいっぱい笑おう。可能性は真正面にしかない!》》


 茉凜の声が脳裏に跳ね、凍りつきそうな肋の裏に小さな火を灯した。


「だね」


 小さく頷き、マウザーグレイルを握り直す。腹の底で渦を巻くものを、呼吸の底へ押し沈めた。精霊子の流れに全神経を注ぎ、目の前の現実へ熱を送り込む。


 その時だった――。


 遠い前方で揺らぎが激しく跳ねる。ただの魔獣の動きではない。空気が乱れ、皮膚の奥まで波が打ち寄せる。谷ごと押し流されるような、異様な気圧のうねり。


 突然、谷沿いに轟音が響いた。


「どぅおらぁぁぁあーっ!」


 野太い怒声が空気をつんざき、耳を撃つ。魔獣の咆哮ではない。まぎれもない、人間の雄叫びだ。


 岩が共鳴し、戦場の大気に衝撃の層が立ちのぼった。身体が硬直するほどの圧力に、戦場全体の空気が新たな重さで満たされていく。


「な、何……!?」


 前方に目を凝らす。重い靄のなか、ただならぬ気配が肌にまとわりつき、戦場そのものが息をひそめた。

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