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この世界の裏に潜むもの

 船に乗っているかのように、波に引き込まれる感覚。身体の奥が遅れて沈み、胃だけが先に浮いていく。視界は定まらず、ぼやけた景色が横へ流れた。


 ――どうして? どうして……こんな揺れているの?


 頭の中で漏れた声は、誰かへの問いではない。腹の底から噴き上がった不快が、たまたま言葉の形を取っただけだ。重い瞼をこじ開けようとした途端、目の奥がじんと痛み、息が喉の裏で引っかかる。あきらめて閉じ直した。


 けれど、腹のあたりを支える確かな感触がある。そこへわずかな安堵が落ちて、力が抜ける。優しく、しっかりと抱き留める温かさ。無防備に揺れる身体の芯だけが、そこでどうにか保たれていた。


 包み込まれて、守られている。隠れていた不安をなだめるように、その支えは微かに脈打ち、わたしをここに留めている。生きた存在の重みが、確かにある。


 すっかり安心しかけた、その時――。


《《……美鶴、起きて。いい加減目を覚ましなさいってば》》


 茉凜の声だ。いつになく弱々しい。強がった言葉の端が、かすかに揺れている。まどろみに身を沈めていたいのに、その懇願するような響きが耳の奥に刺さる。


《《ほら、ヴィルが大変そうにしてるよ? たぶんだけど》》


 大変? 彼が? 身体はまだ言うことをきかず、瞼は鉛の板みたいに持ち上がらない。けれど、茉凜の声に含まれる安堵と気まずさが、わたしを現実へと引き上げた。


《《感じない? 誰かの体温とか鼓動とか、背中に伝わってくるの……。それとこの揺れはたぶん、スレイドに乗っかってるせいかも。彼が支えてくれてるから落っこちないでいられる。そんな感じがするよ》》


「……そんなわけ……」


 無意識にこぼれた声が空気へ溶けた。その拍子に、瞼がゆっくりと開いていく。


 揺れる景色。頬を撫でる柔らかな風。腕に絡む支えの感触が、現実の輪郭を帯びてくる。すぐそばから伝わる確かな体温と鼓動。


 ……本当に、茉凜の言う通りだった。


 わたしを鞍に前向きに座らせ、背と腰を支え、片腕を胴へがっちりと回している。スレイドの歩みが伝う馬上で、わたしは彼の腕に守られていた。その事実を、すぐには飲み込めなかった。


 密着している、という自覚が全身を駆け巡り、言葉が消える。顔に熱がにじみ、耳まで赤く染まっていくのが自分でも分かった。視線の置き場が見つからず、彼の腕に頬を押しつけたくなる。


 革の匂いと彼のぬくもり。そのたび思考が散り、なぜこうなったのかが遠のいた。


 ついこの間だってそうだ。高熱を発し意識を失ったわたしの服を彼が脱がせ、拭き、着替えさせてくれた。


 ……見られてしまった、あの夜。わたしの……。


 やましい気持ちがないのは分かっている。彼は数多の戰場いくさばを渡り歩き、人の生き死にを身に沁みて理解している人。理屈ではわかっている。なのに、忘れたくても忘れられない。


 今こうしていだかれて、腹の底から湧く感情の名を、わたし自身が知らない。


 ――わたしはヴィルに何を見ているの? 父のような優しさ? 守る強さ? どちらでもない気がする。では、これは――?


 思考がふわりと霞み、答えが結べない。落ち着かず、また顔が熱くなる。逃げるように、風へ頬を向けた。


 それよりも、わたしはヴィルにも茉凜にも、酷いことをしてしまった。黒鶴の情動に呑まれかけ、言葉を見失った。選択は間違っていないはず。それでも――あんな言葉は、言ってはいけなかった。


 ――なんて無様で、情けないんだろう……。


 引くに引けず、取り返しのつかないことをしようとしていたわたしを、ヴィルが止めてくれた。鳩尾を打ってまで。


 ――わたしって、どうしてこうなの? いい大人が情けない。少しも成長していないじゃない。


 舌裏が乾いて、言葉が薄く尖ったまま戻ってこない。


 手綱の革がきゅ、と鳴り、彼の腕が一瞬だけ強く締まった。


「目が覚めたか?」


 頭上から落ちてきた声に、びくりと身がすくむ。落ち着いた声色。何事もなかったような響きが、逆に喉を詰まらせた。


 彼はいつも通り。けれど今のわたしは違う。遠くからあの後ろ姿を追うだけだったわたしが、いまは彼の胸に身を預けている。呼吸が一拍だけ浅くなった。肩甲骨のあたりにしみるぬくもりが、ますます落ち着きを奪った。


「……ヴィル、さっきはごめんなさい。わたし……」


 今できるのは、謝ることだけ。浅はかさが招いた事態だから。言葉が震え、喉の奥がきゅっと痛む。


「……よしてくれ。謝らなきゃならないのは、俺の方だ」


 意外なほど、弱く掠れた声だった。


「父親を誇りに思うお前が、あんなものを見せられてどうなるかくらい……わかっていたはずなのにな」


 背中越しに伝わる鼓動が、不規則に揺れた気がした。


「『知る権利と義務がある』とか……もっともらしい御託を並べたが、本当のところは違う」


「えっ……?」


「俺は、あいつを……ユベルを救ってやれなかったことが悔しかっただけだ。お前に真実を伝えることが正しいなどと、ただの独りよがりにすぎん」


 ヴィルが言葉を切り、深く息を吐き出す。その吐息が、わたしの髪を揺らした。


「結局のところ……俺は一人で抱え続けるのが辛かっただけだ」


 その言葉の終わりで、彼は一度だけ黙った。背中越しの体温が、わずかに強張る。


「お前という『共犯者』を求めただけだ。お前なら、この絶望を分かち合ってくれるんじゃないかって……情けないにもほどがある」


 自嘲するような響き。


 言葉が出なかった。鋼のように強いと思っていた彼が、震えるような弱さを吐露している。歴戦の英雄である彼が、「辛かった」と言っている。


 ユベルという名が、彼の中で片翼みたいに重たく鳴っている気がした。だから今、ここまで言ったのだろう。


「ヴィル……」


「とにかく、すまなかった」


 責められる覚悟を用意していたのに、彼は自分の傷を見せてくれた。その不器用な誠実さが、肋の内側をちくりと刺す。けれど、心のどこかは確かに温かかった。


「……ううん、謝らないで。わたし、ここに連れてきてもらえて、よかったと思ってる」


 喉の奥に絡んだものを、少しずつ言葉へほどいていく。


「わたしは知らなすぎたのよ。それだけじゃない。表向きの都合のいい情報を信じて、疑うことすらしなかったんだから。それに……」


 わたしは少しだけ背中を預け直し、彼の温もりに寄りかかった。


「父さまが味わった辛さや苦しみを、知ることが出来た。あなただって、辛かったでしょう? 二十年もの間、ずっと父さまを探して、彷徨い続けていたんだもの……――」


 言葉の続きを探したのに、喉がひとつ鳴っただけで終わった。背中越しの鼓動が、ほんのわずか乱れる。


「でもね。一人で抱えるのが辛いなら、『はんぶんこ』にすればいい。わたしじゃ、頼りないかもしれないけど……」


 言い終えた途端、口の中が乾いた。けれど彼の腕の重みは、変わらず腹のあたりを支えてくれている。むしろ、少しだけ力がこもったようにも感じた。


「……そうか。ありがとな」


 短く返ってきた声は、先ほどまでの苦渋が消え、少しだけ晴れやかに聞こえた。


 背中に当たる彼の体温が、言葉以上の雄弁さで「ありがとう」と言っている気がした。現実の重さは変わらない。けれど、二人で背負えば、潰されずに歩けるかもしれない。


「でも、こういうのってやるせないわね」


 吐いた息が風にほどけ、ヴィルの腕の内側で肩の力がゆっくり抜けていく。


「はぁ……わたし、これからどうしたらいいんだろう……」


 安堵と共に、弱音がぽとりと落ちた。無力が肩へ積もり、気持ちが沈む。


「残念だが、現状では魔獣の巣窟を消し去ることは困難だ。できたとしても、それは魔石に依存する国家や産業、人々を敵に回すことになる。滅ぼすべき敵が、世界を回してる巨大な歯車の一つだってんだからな……」


 ヴィルの声には、もう迷いはなかった。


「人々があれを正しく脅威と認識できるようになるには、あの穴の奥に隠されているかもしれない真実。その何かを掴むことだと、俺は考えている」


 顔がわずかに上がる。横顔は鋭く、決意の影が灯っている。闇雲ではない。真実を探り、未来を変える覚悟を、わたしも持たなければ。


「薄々感じたことだけど、あれはこの世の理の範疇に収まるような代物じゃないと思える。あんなもの、いったいこの世の誰が作り出せるというの?」


 可能性を静かに並べていく。


「魔石は人々にとって有益なもの。魔獣を狩って、魔石を手に入れて、魔術や魔道具に生かす循環が定着している。そして、それを都合よく回転させるための“偽り”がある……。そこまでは理解できる。でも、それならなぜ大国が独占しようとしないのだろうかって話よね」


 疑問を口にした途端、胃の底にざらりとした違和感が残る。


 鞍が小さくきしみ、彼の腕の力だけが変わらずそこにあった。


 利権構造は常に強者が独占するもの――それが常識だ。なのに、この世界の魔石は、なぜかどの国も“均等”に扱っている。支配したがる者が必ず現れるはずなのに、現実には、魔獣の巣窟が小国にも分散し、魔石の供給は均衡を保ったまま維持されている――まるで、誰かが意図して「争いを制御」しているような……。


「あるいは、大国が裏で結託していたりとか……?」


 別の可能性が舌先に乗る。スレイドの蹄が石を打つ音だけが、やけに整っていた。


「それは違うな」


 即座の否定。簡潔で、強い。思考がそこで止まる。


「どうして……違うって言い切れるの?」


 見上げる。真剣な眼差しが、何かを知る光を宿している。


 ヴィルは一瞬、前方の道へ視線を向けた。


「有力各国が裏で手を組むなら、もっと露骨にやるだろう」


「たとえばブロック経済。つまり、排他的な経済圏を確立するとか?」


 つい、前世で拾った教科書知識が口を滑ってこぼれてしまった。はっとして口をつぐむが、もう遅い。


「……なんだそれは? 難しい言葉を使われてもわからん」


 ヴィルは怪訝な顔をしたが、深く追求はせず鼻を鳴らした。


「ま、現実はそうなっちゃいないってことだ。巣窟は大国だろうが小国だろうが、貧富に関わらずどこにでもある。取り分が一つに偏りきってないんだ」


「エレダンはその典型だったわけね。ケリンみたいな小国がなぜ成り立つのか、納得できるわ」


 淡々とした口調で、彼は世界の奇妙な均衡を説いた。


「それに、魔獣という共通の脅威がいるせいで、人間同士の大きな戦にもなりにくい。金にもなるから、互いに踏み越えない。例の『銀環条約』がその証拠だ。……皮肉な話だろ?」


 そこで一拍、間を置き、慎重な声で続ける。


「もし裏で操る者がいるとするなら、金とは別の目的があるはずだ。だが、どう考えてもそんな存在がいるとは思えない。あれはあまりに異質で理解不能で、意図など全く見えない。魔獣自体、行動に法則性が見られない。ただの破壊と殺戮の本能だけで動いている」


 眉が寄る。


 あまりにも異質で、理解不能。価値観にも当てはまらず、行動理念も曖昧。生き物なのか、無生物なのか――それすらも分からない。


 二の腕の産毛が、すっと起きた。世界の理が、そこだけ捩れている気がした。


「ねぇ……こんなこと言うと、変かもしれないけど……」


 不安に言葉を探しながら、彼の横顔をうかがう。


「なんだ?」


 真剣な視線が促す。


「魔獣って……もしかして、この世の理とは異なる、わたしたちとは別の……」


 そこまで言って、息を呑む。突拍子もない考えが、自分でも怖い。だが、疑念は消えない。


 彼はわたしの様子を見て、穏やかに問いを継いだ。


「別の……何だ?」


 優しい声に一瞬迷い、首を横に振る。


「ううん、なんでもない。ただの思いつきで、特に意味はないわ。忘れてちょうだい」


 無理に笑ってみせる。背筋を這い上がるざわめきは、なお去らない。


 わたしは意識と記憶――魂と呼べる情報だけとはいえ、理の異なる世界から来た。そして、『深淵の血族を生み出した根源』とマウザーグレイルは、世界を渡って、わたしの前世世界へやって来た。なら、あの巣窟が異なる世界へ通じる穴だとしても、何ら不思議ではない。


 でも、それに触れることは、わたしの正体に光を当てることになる。もしヴィルが真実へたどり着けば、隠してきたすべてが露わになる。


 わたしは怖くて、考えに蓋をした。


「まあ、何にせよ、もっと情報を集める必要があるな」


 ヴィルの視線が地平へ滑る。スレイドの耳が風に揺れた。


「あと、これは俺の推論だが、言ってもいいか?」


 息を整え、頷く。彼の考えはいつも冷静で、現実的だ。受け止める覚悟はできている。


「……もちろん。聞かせて」


 喉の奥で、呼吸が一拍だけ止まった。


「俺は、ユベルとメイレアが国を出た理由に、魔獣の巣窟の先にある真実が関わっているんじゃないかと考えている」


 心臓のあたりが、きゅ、と縮んだ。


 ユベル――父。メイレア――母。二人の行動には謎が多い。今の言葉は、その謎へ新しい光を投げた。


「父さまと母さまが?」


 小さく反芻しながら、意味を探す。二人が関与していたなら、どれほどの秘密か。何を知り、何を隠したのか。思考がざわめき、落ち着かない。


「そして、お前が受け継いだ形見――マウザーグレイルをあいつが肌身離さず持っていたことを考えると、何らかの関わりがあると見ていいだろう。あいつは、誰よりも真剣に魔獣の脅威に対して向き合っていたんだからな。そうでもなければ……」


 父の行動も、その結末も、彼の推測を裏づける。


 腰のベルトへ視線を落とす。鞘に収まった純白の剣。剣に宿る茉凜は、黙って話を聞いていた。鞘越しに触れる銀の冷たさが、茉凜の沈黙と重なる。


「それは、わたしにしても、ね……」


 彼に聞こえないほどの息で、そっとつぶやく。


 根源が約束を違え、わたしと茉凜を魔獣と戦わせようとした理由は、きっとどこかにある。


 運命に抗いたいと願いながら、見えない糸に絡め取られている感覚が、静かに全身を巡っていた。

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