黒鶴の叫び
腹の奥で、どろりとした遅い熱が渦を巻いていた。
もう一度、崖下の裂け目に視線を据える。断続する稲光が岩肌を白く染め、すぐに闇へ引きずり戻す。その明滅のたびに、ここが単なる「風景」ではなく、人間をあざ笑う何かだと、皮膚が先に悟ってしまう。
深く息を吐き、意識を無理やり沈めようとした。だが裂け目から放たれる不吉な光が、記憶の底をかき乱す。指先がじんわり痺れ、散り散りだった旅路の断片が、遅れてひとつの結び目になっていく。
父が守ろうとしたもの。わたしが信じてきたこの世界の常識。魔獣狩りとしての矜持。――それらすべてが、誰かの腹を満たすための、餌に過ぎなかったというのか。
「父さま、あなたは……」
あたたかいはずの記憶に、触れた瞬間だけ痛みが走る。父が笑っていた顔が鮮明なぶん、その裏に沈んでいた冷たい無力感まで浮かび上がってしまう。
「どうして……どうしてこんな――」
かすれた声の端から、弱さが漏れた。
――わたしはこんなにも無知で無力だったのか。
問いを繰り返すたび、腹の底の熱が濃くなる。指先が震え、爪が掌に食い込み、痛みでしか今を繋ぎ止められない。
やがて、吐き出した息と一緒に、決定的な言葉がこぼれ落ちた。
「――……こんなもの、許せない。許せるわけない……」
視界が涙で曇った。頬の熱さに呼応するように、怒りがもう一段、噛み上げてくる。足元の石を小さく蹴り飛ばし、砂が乾いた音を立てた。
その衝動が、最後の歯止めを外していった。
精霊子が一気に流れ込み、皮膚の下を駆け巡る。背中の奥で何かが裂けた。焦げた痛みが骨の際へ染み広がった。息をするたび、喉の奥が焼けつくようにひりつく。
視界の端が紅く染まり、外界の音が綿を被ったように鈍る。自分の呼吸と鼓動だけが、やけに大きく、近く聞こえた。
「――っ!」
背中に鋭い痛みが走り、息が詰まる。だが痛みはすぐ薄れ、怖いほど体が軽くなる。今まで自分を縛っていた常識や躊躇いが、音もなく崩れ去っていく。
黒の情動が拍を刻むたび、眠っていた獣が目を開けるかのように暴れ狂う。それが『黒鶴』――深淵の血族に継承され、禁忌の色とされた力。
幻視なのか、現実なのか。黒い翼の影が背後で大きく広がり、羽ばたくたび空気が歪む。砂塵が巻き上がり、渓谷の熱が一瞬だけ冷える。こぼれ落ちた涙でさえ、灼けに呑まれて蒸発していく。
「こんな痛みがなんだ……父さまが味わった絶望に比べたら――!」
声は低く震えていたが、意思だけは研ぎ澄まされた刃のように鋭い。理性は遠のき、黒鶴の奔流は感情のままにうねった。守るためでも、報いのためでもない。ただ「ここにある全てを消し去りたい」とだけ、燃え上がっていく。
明滅の合間、闇が押し返すたび、頭の中が圧迫される。精霊子の過剰集積が脳を押し、視界の端が白く滲んだ。引き返せない、と悟った瞬間、内側の声が刺さる。
《《やめなさいって、美鶴。あなたの気持ちはわかるよ。でも今は抑えて。落ち着いてヴィルと話をしよう? ねえ、聞いて!》》
届かない。耳の奥に薄い膜が張り、声の端が滑って落ちていく。わたしは彼女を遠ざけ、その忠告を聞き入れなかった。
――こんなふざけた現実を前にして、大人しく黙ってろっていうの? そんなことできるわけない。全部壊してやる。魔獣も、この裂け目も、それを守ろうとする国の思惑も、全部!
怒りを叩きつけることしか、残っていなかった。
ヴィルを見る。驚愕が瞳をよぎり、それでも彼はすぐに落ち着いた。深く静かな眼差しのまま、一歩一歩、ためらわずこちらへ近づいてくる。砂を踏む音が、やけに明確だ。
「邪魔よ……そこをどいて……」
信頼する人に向けた言葉としては、あまりに酷い。それでも止まれない。けれど彼は足を止めない。恐れも怒りもなく、ただ理解しようとする意志だけを宿して。その姿が、かえってわたしの罪悪感を刺激し、肋の奥が灼けるように締めつけられた。
「どいてって言ってるでしょ。あなた、そこにいたら消し飛ぶわよ?」
喉に哀願が引っかかる。
――お願いだからこれ以上近づかないで。わたしはもう、自分を止められない。もし踏み込まれたら、わたしはあなたを傷つけてしまう。
思考が途切れた瞬間、世界が砕け散った。
黒い圧力が爆発しそうになった刹那、視界が暗黒に飲み込まれ、別の重みが全身を押し潰す。考える暇もなく、目をぎゅっと閉じた。
遅れて気づく。硬質な温もりが、わたしを包んでいた。鎧越しの鼓動が骨へ響き、息の戻り道を塞ぐ。わたしはヴィルの広い胸の中に、すっぽり抱きしめられている。革と鉄、そして微かな汗の匂いが鼻先をかすめた。
「ヴィ、ヴィル……!?」
抱きすくめる力が強すぎて息が苦しい。肋骨がきしむほどの拘束。抗おうとした瞬間――
「いやっ、離して!」
制御を失った〈場裏・白〉が、防衛本能だけで勝手に展開して、領域解放へ走る。圧縮空気が至近距離で炸裂し、衝撃波が二人の間で弾けた。砂が跳ね、鼓膜が痛んだ。
「ぐっ!」
ヴィルが低く唸る。それでも彼は手を緩めない。地を踏みしめ、なおも抱きしめ続ける。まるで嵐の中に立つ巨木のように、わたしの暴走をその身一つで受け止めている。
「離しなさい! 離してよ!」
抗う声も虚しく、腕の力は強まるばかりだった。彼の体温が、鎧越しに伝わってくる。それが熱くて、苦しくて、たまらない。
「お前の気持ちは、わかっているつもりだ……」
「だったら……!」
顔を横に振って抵抗する。情動が出口を求めて暴れ回り、血管を引きちぎりそうだ。
「俺はお前の意志を否定したくはない……。だが冷静に考えろ。ここで怒りに任せて魔術を放てば、周囲に潜んでいる魔獣どもが刺激されて一斉に押し寄せて来る。そうなれば――いくらお前でも、捌ききれないかもしれん」
その意味が、みぞおちへ重く落ちる。焦げた痛みが、ほんの一瞬だけ退いた。
そうだ、理屈ではわかっている。けれど感情が追いつかない。許せないという思いが、理屈を食い破ろうとする。
「戦いは冷静さを失った方が負ける。いいか、今は一旦引くんだ」
彼はいつだって鋼のように揺るがない。どんな絶望の前でも、父と同じように立ち続ける。そんな彼の前では、自分がどうしようもなく子供で、未熟に思えて悔しい。
「ヴィル……離さないっていうなら、この腕をブチ切ってでも行くわよ」
衝動の言葉が胃をかき乱す。言った本人がいちばん怖いのに、止められない。自分の口から出る呪詛が、自分自身を傷つけていく。
剣の奥で、茉凜が息を呑む気配がした。悲しそうな沈黙。けれどそこから先が続かない。声が出るより早く、黒の奔流が全部を埋め尽くした。わたしはもう、わたしのままでいられないのか。
「……まったく、グロンダイルと名のつくやつは、どうしてこうも強情なんだ」
耳元で、その呟きが落ちた。
呆れたような、けれど慈しむような響き。その言葉に、喉の奥がざわめいた。真剣そのものの表情が、至近距離でわたしを見つめている。その瞳に映るわたしは、泣いているように見えた。
ますます心が乱れる。どうして、そんな顔をするの。怒ってくれればいいのに。切り捨ててくれればいいのに。
「すまん……」
「えっ?」
謝罪の言葉と共に、ヴィルの指先が一瞬だけ迷い、次の瞬間に固まった。
筋肉が収縮する気配。
ドッ、と腹部に鋭い衝撃が走った。鳩尾を正確に貫く一撃。
息が詰まり、声にならない悲鳴が喉で止まる。身体がくの字に折れ、抱きしめられていた腕の中で力が霧散していく。
世界が揺らぎ、支配していた灼けが急速に冷えていく。
遠のく視界に、ヴィルの顔がぼやけて映る。その表情は苦渋に満ちていて、傷ついたのは、たぶん彼のほうだった。何を守ろうとしているのか。父の影か、わたし自身か。それを掴めぬまま、わたしの意識は深い闇の底へと沈んでいった。




