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裂け目に潜む真実

 胸の奥で、遅い熱が渦を巻いていた。


 もう一度、崖下の裂け目に視線を据える。断続する稲光が岩肌を白く染め、すぐに闇へ引きずり戻す。その明滅のたびに、ここが「風景」ではなく「意思」に近いものだと、皮膚が先に悟ってしまう。


 深く息を吐き、意識を無理やり沈めようとした。だが裂け目から放たれる不吉な光が、記憶の底をかき乱す。指先がじんわり痺れてくる。散り散りだった旅路の断片が、頭の中で遅れて結び目を作り始めた。


 かつて、ヴィルが酒場で語ってくれたこと。


 二十数年前――リーディスの国境西部を揺るがした、史上稀に見る魔獣の大量発生。それを皮切りに、中央大陸各地で魔獣の出没が増加していったという話。


 そして、ここキカロスが「火山性ガスが充満する危険地帯」という情報が、虚構にすぎなかったという事実。


 思えば、エレダンの状況も似ていた。あの地域で魔獣が確認され始めたのは十年ほど前と聞く。


 半年前、あの地でわたしが魔獣狩りを始めた頃、ギルドロビーのマップには立ち入り禁止区域がはっきりと示されていた。理由は『有毒な霧が滞留し、踏み込めば二度と生きては帰れない』というもの。周辺の魔素濃度も異常に高く、その事実だけで足を向けようとは思えなかったし、規則を守ることが大切だと信じ、疑うことすらしなかった。


 ここに至るまでの道筋を思い返す。裂け目に近づくほど、大気中の魔素は濃厚になり、意識を圧迫する。比例して魔獣の数も増えた。個体そのものは特別強くない。それでも、ここ数日で倒した数は、エレダンでの一週間分に匹敵する。


 熱いはずの空気の中で、背筋だけが冷える。


 この裂け目は、単なる地形の歪みではない――そう考えずにはいられなかった。魔素の濃度、稲光の断片、そして尽きることなく現れる魔獣。すべてが、目の前の『底なし』のような口へ収束しているのかもしれない。


「ヴィル……わたしなりに考えをまとめてみたわ。聞いてくれるかしら?」


 ヴィルの方へ視線を移す。彼は裂け目から目を離さず、険しい表情のままわたしの言葉を待っていた。背中の静けさが、揺れる心をわずかに支えてくれる。


「この裂け目……ただの地形の異常なんかじゃない」


 静かだが、重みを込めて言葉を紡ぐ。喉の奥がきゅっと締まった。


「この異様な光景――ありえないほど濃密な魔素が脈打つように湧き出し、地を染めている。まるで地獄の釜への扉が開かれたかのように見える」


 言葉にした途端、その考えが現実となって腹の底に落ちる。心臓が騒ぎ、思わず目を閉じて息を吐いた。奥歯を噛みしめ、必死で体の震えを殺す。


「そして、その扉とは……こう言い換えてもいいかもしれない――」


 言いかけて、冷たい真実に指先が先に触れてしまう。怖い。けれど、目を逸らしたくない。


「――『魔獣の巣窟』……と」


 自分の声が、乾いて空気を裂いた。言った瞬間、口の中の湿りが引く。


 ヴィルは表情をさらに険しくし、裂け目を無言で見つめている。沈黙が張り詰めた空気と溶け合い、白い閃きだけが遠い。


 やがて、彼は低く深い溜息を吐いた。その音が、静寂に重く響く。


「……その通りだ」


 冷静な声だが、隠しきれない緊張が滲んでいる。その響きが、避けられない現実を突きつけてくるようで、肋の奥が小さく鳴った。


「魔獣がどこから生まれ、どうやって数を増やしているのか……その実態と元凶が、この裂け目にある。かつての西部戦線にしても、エレダンにしても同じことだ」


 言葉が身の内へ落ちるたび、砂を踏む音が遠のいていく。わたしは爪が掌に食い込むのも構わず、聞いていた。


「……なるほどね」


 自分でも驚くほど、平坦な声だった。虚勢だと、手の中で跳ねる脈が先に告げる。


 目の前の裂け目は、わたしの恐れを嘲笑うように明滅を繰り返す。濃厚な魔素が揺らめき、冷たい汗がこめかみを伝った。


 それでも、消えない疑問があった。


「……父さまも、この真実を知っていたの?」


 声が震えないよう、できるだけ静かに。けれど肩に力が入り、呼吸が浅くなる。


 ヴィルは険しい表情のまま、一瞬黙り込んだ。空気がひときわ冷たくなる。やがて、小さく頷く。


「そうだ」


 その一言を受け止めた瞬間、足元が揺らいだような錯覚に襲われた。


「あなたは、『挑んだ』って言ったけど……それはつまり、この裂け目――この魔獣の巣窟の存在を知り、破壊しようとした。そういうこと?」


 願いが、問いの形を借りて滑り出る。壊せるなら。止められるなら。そんな小さな希望に、すがりたかった。


 ヴィルは一瞬目を伏せ、言葉を飲み込むように沈黙した。重い現実を噛みしめるように、少し間を置いて口を開く。


「破壊? まさか、そいつはどうやったって無理だ。こんなもの、一人でどうこうできるものじゃないし、ハンターをどれだけかき集めたところで、まるで歯が立たないのは目に見えている」


 低く静かな声が、ずしりと降り積もる。わたしは小さく頷くしかなかった。吐いた息と一緒に、薄い希望がほどけて消えていく。


「それは……そうよね……」


 返事は軽く、内側は重い。


 ヴィルはわたしの反応を確かめるように一度こちらを見て、それから裂け目に視線を戻した。稲光が横顔の稜線を白く削り、次の瞬間には闇が塗り潰す。


「西部戦線が起きる二年前の話だ。ユベルはキカロス周辺の集落に出没する魔獣を調査し、掃討する任務に当たっていた。そして、キカロスの大森林地帯に火山性のガスなど存在せず、代わりに無数の魔獣が跋扈していることを知った。で、そこからが勘のいいあいつらしい。単独で森林地帯に入り込んだ。そして、見ちまったのさ。こいつをな……」


 「単独で」という言葉が、喉の奥に硬い砂を置いた。


 その語尾が落ちた瞬間、周囲の音が布一枚ぶん遠のいた。


 風がないのに、岩の表面だけが冷たい。わたしは指を握り込み、爪先で砂を探した。


「わかるわ。わたしでも、きっとそうする……」


 言った途端、口の奥が乾く。肯定してしまった自分の声が、崖の縁で小さく跳ね返った気がした。


「……王都にとって返したユベルは、軍の上層部に何度も掛け合った。キカロス一帯はリーディスにとって『飛び地』でもある。ならば被害が拡大するのを未然に防ぐために、軍を大規模動員して対処するしかない、と。そうすれば、この元凶を完全に消し去ることも可能だと信じてな……」


 胸骨の裏に、静かな熱が灯る。さすがは父らしい――言葉にできず、舌の裏でそっとなぞった。


 けれど、ヴィルは苦しげに呻くように言葉を絞り出した。


「……だが、それは却下された。それどころか一笑に付される有り様だった」


 息が止まった。喉が細く鳴り、吸い込んだ空気が冷たすぎて、肺の奥に刺さる。


「なんですって!?」


 反射的に声が大きくなる。腹の底でうねる熱いものが、せり上がってくるのを抑えられない。父の話になると、隠していたものが簡単にはみ出してしまう。


 ヴィルの瞳に、一瞬だけ哀しげな影がよぎった。だが、それを受け止める余裕はない。耳の奥で細い耳鳴りがして、頬が熱を帯びる。


「どうしてなの……?」


 かすれた声が震えた。こぼれそうな涙を必死にこらえる。


「父さまは、みんなのためになるように、命を懸けて尽くそうとしたのに。それなのに……どうして……」


 声に出すたび、押し込めていたものが押し寄せる。息がうまく入らない。


 ヴィルの冷静な声が、鋭い刃のように問いかける。


「人民を守るために戦う――それがユベルの信念だ。なぜ却下されたのか、理由を知りたいか?」


 その問いに、わたしは反射的に顔を上げた。涙が頬を伝う。


「……もちろんよ」


 細く震える声に、真実を求める意志を乗せる。


 彼は真っ直ぐにわたしを見つめている。その揺るぎない視線が、こちらに突き刺さる。


「一言で言うならば……――」


 彼は一瞬、言葉を切る。その重さを測るように息を吸い、静かに吐き出した。


「魔獣が生まれ出る環境を維持しなければ、いろいろと都合が悪いからだ」


 言葉が耳に入っても、すぐには理解できなかった。


 疑問が頭の中で絡まり、こめかみを締めつける。維持したい? この恐ろしい環境を? 魔獣が無慈悲に命を奪う、その根源である巣を?


 理性の縁が、ぎしりと軋む。


「なによそれ。なぜ、なぜなの……?」


 震える声が漏れる。現実を拒む叫びが、内側で反響していた。


「こんなものを維持したいだなんて……馬鹿じゃないの? 信じられない」


 怒りと無力感で、呼吸が苦しくなる。


「なんてくだらない……」


 絞り出した声は、かすれて震える。


 ヴィルはわたしの動揺を冷静に見つめている。その視線は揺らがず、覚悟と苦渋を物語っていた。


「ミツル、お前も理解しているだろう。魔獣から採取される魔石は、魔術はもちろん、国家にとって欠かせない資源だ。魔石に根ざした技術と産業がなければ、国家の基盤は根底から崩れてしまう」


 思考が止まった。


 確かに、魔石は不可欠な存在だ。魔術、街の明かり、工房の生産、家庭用の一般魔道具。どれも、あの小さな核に繋がっている。掌に載せれば、灯を吸い込むように鈍く冷えて、指の皺に硬さが残る。


 しかも魔石は内包する魔素を使い果たせば交換が必要だ。使うほどに、次が要る。


 この世界の今日の繁栄は――魔石によって支えられている。それを維持するために……。


 心が、軋むように痛んだ。


「だとしても……」


 抗議しようとして、声が震えて続かない。


「犠牲にするのは、誰かの命じゃないの……」


 やっとの思いで絞り出す。腹の底で燃える怒りは消えなかった。


「これがこの世界の真実であり、文明の繁栄が抱える矛盾だ」


 ヴィルの冷静すぎる言葉が、鋭く突き刺さった。


「そんなの……間違っているわ――」


 小さな声で、叫ぶように抗う。


「いくら魔石が大切な資源だとしても、それが人々の犠牲の上に成り立つものなら、そんな繁栄にどれほどの意味があるというの?」


 ヴィルはわたしの言葉を静かに受け止め、目を細めて呟くように語り出した。


「だからこそ、ユベルはその歪みを正そうとした。だが、魔石の利権にしがみつきたい王侯貴族は、耳を閉ざした。やつらにとって国家の繁栄と懐の余裕は、どれだけ多くの魔獣の巣を抱え込めるかにかかっている。巣から這い出してくる魔獣を適度に狩り、手に負えなければ軍を差し向けて抑え込む。それが彼らの考える安泰の形だ。金のなる木が枯れるのは、何かと都合が悪い。だからこそ、真実は秘匿されねばならないわけだ」


 こみ上げるものを、もう抑えきれなかった。


「……くだらない。くだらなすぎる……!」


 全身が震える。握りしめた手の中で爪が掌に食い込み、足元の小石を無意識に蹴り上げていた。その微かな痛みすら、この怒りを鎮めてはくれない。


《《……辛いね。でも、いまは落ち着いて》》


 その声に触れた途端、舌の裏が乾き、喉の奥で息がつかえた。張りつめていた糸が、音もなくほどけていく。せり上がった叫びを、そのままぶつけてしまう。


「うるさい……あなたは黙ってなさい!」


 鋭い自分の声が耳に突き刺さる。乾いた響きが岩肌に跳ね返り、もう一度こちらへ戻ってきた。


 彼女を突き放したかったわけじゃない。後悔が、冷たい水のように頭から浴びせられる。


 茉凜はわたしの憤りを理解しつつ、心配してくれている。それなのに、わたしはその優しさを拒絶した。


「ああ……」


 自分の不甲斐なさに、立っていられなくなる。怒りと混乱、そして自責の念が、思考をめちゃくちゃにかき乱していった。

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