ハムロ渓谷の真実
翌朝、目覚めると熱は嘘のように引いていた。レルゲンのポーションが劇的に効いたのだろう。森の湿った冷気が昨夜の火照りを冷たい水で拭い去ったように、感覚が恐ろしいほど鋭敏に戻っている。
肺いっぱいに吸い込んだ空気が、肋の奥まで澄み渡る。けれど、その冴えた視界に映るヴィルの背中が、妙に遠かった。
出発の準備を整え、スレイドに揺られ始めてから半刻。ヴィルはずっと黙っていた。
昨夜のような、不器用な気遣いの沈黙ではない。もっと硬質で、冷たい金属のような静けさが、彼の周りに張り詰めている。
時折、手綱を握る革手袋がぎゅっと鳴る音だけが、森の静寂に落ちた。彼は一度も振り返らない。ただ前方にある何か――霧の向こうに見えない標的を見据えるように、視線が固定されている。
その背中から滲む重圧に、わたしは息を潜めた。茉凜も、この異様な空気を読んでか、気配を消して静まり返っている。
昨夜の焚き火の輪が、ふっと脳裏をよぎる。自分の目で見て、考えて、答えを出せ。命じない。あの言葉の余韻が、問いを喉元で止める楔になっていた。
森の密度が変わっていく。鬱蒼としていた木々の間隔が広がり、湿った苔の匂いが薄れ始める。代わりに鼻先を掠めたのは、砂の粉っぽい匂いだ。風の音が変わり、葉擦れのやわらかな音から、荒涼とした響きへと変質していく。
ヴィルの背中が、わずかに強張ったように見えた。彼が何を見据えているのか、何を語ろうとして口を閉ざしているのか。その答えが、目の前に迫っていた。
唐突に、緑が途切れる。
「――ここだ」
ヴィルが短く呟き、手綱を引いた。スレイドが足を止め、鼻を鳴らす。その先を見た瞬間、わたしは言葉を失った。
赤茶けた岩肌が、視界いっぱいにむき出しになっていた。
◇◇◇
焼けつく陽の光が容赦なく降り注ぎ、ひび割れた大地の照り返しが、膝の裏からじんじんと這い上がってくる。渓谷の底からは、焼けた岩の匂いが乾いた熱気に混じって立ち上がり、肺の奥まで入り込んだ。
背後に残る森は、もう影の縁へ押し戻されている。葉擦れの柔らかさは遠のき、耳に残るのは、乾いた風が砂を転がす音だけだった。
草木の影はどこにもない。命の気配どころか、根づくもののない空白が、ここには広がっている。風はぱさつき、吹くたびに赤い砂を巻き上げて、遠い空の色まで薄く曇らせた。
風が頬に触れるたび、細かな粒子がざらりと肌を削る。耳を澄ませても、鳥の声も虫の羽音もない。砂が鳴る音だけが、やけに大きく響いていた。
「ここから先は、キカロスの森林地帯を横断する大渓谷だ。その名を『ハムロ渓谷』という」
ヴィルの声は低く、熱の層を割るみたいに届いてくる。その響きだけが、この荒れ果てた場所に、かろうじて人の気配を結び止めているようだった。
眼下にそびえる断崖は、ただ静かに、けれど圧倒的な存在感でわたしたちを見下ろしている。岩肌は削がれ、断層の切れ目は不自然なほど真っ直ぐだ。風化で丸くなるはずの角が、ここだけは鋭く残っている。
あまりの光景に、息が細くなる。その奥で、言葉にできない疑問が、砂粒が積もるようにじわじわと胃の底へ溜まり始める。
ここに至るまでの森道の記憶が、ひと息で剥がれていく。
もしかすると、父もこの光景を前に立ち尽くしたのだろうか――そんな考えが、背筋をひやりと撫でた。
地図の端が指に食い込み、紙の硬さが爪の根へ刺さった。あの夜、ヴィルは「正式ね……だが、書かれていることがそのまま真実とは限らない」と言った。その言葉が、今は熱い空気より冷たく、舌根に沈んだ。
「……ねぇ、ヴィル?」
「なんだ?」
「これっておかしくない? だってこんな渓谷、地図にはどこにも描かれてない。それに『ハムロ渓谷』なんて名前、一文字だって記されてないのよ」
「だろうな。公の資料をいくら漁ったところで、どこにも記されてなどいない」
「……前に言った通りだ。書かれていることが、そのまま真実とは限らない」
頷くでもなく驚くでもなく、彼は淡々と返した。その平静が、いちばん怖い。わたしの持っていた――公式な国家認証を受けた地図より先に、彼の中にはわたしの知らない座標があるのだと知らされる。
「だいたい緑豊かな大森林地帯が、草木一本もない渓谷で分断されてるなんてありえないでしょう? 境界があまりにもはっきりしすぎていて……どう考えても不自然だわ。それに……」
言葉が喉で止まり、ヴィルを見る。彼の眉が微かに寄り、考え込む横顔が、この裂けた大地の稜線みたいに険しく見えた。熱い風が、彼の髪をゆるく揺らし、その影が頬に落ちる。その影が、一瞬だけ父の横顔と重なる。
「それに……?」
静かに問い返されて、わたしは小さく息を継ぐ。熱い空気が肺を擦り、肋の裏で心臓の鼓動が頼りなく跳ねた。
「わたしの知る限り、渓谷というものは風とか水に削られて、気の遠くなるほどの年月をかけて形になるもののはず。でも……ここはそれとはまったく違う。岩の表面も、自然の力が描いたようには見えない。なんだかまるで……」
「まるで……?」
ためらいがちに口をつぐむわたしに、ヴィルは促すように繰り返した。
舌の裏がひどく乾く。父が手にしていた地図には、この「穴」はなかった――そんな記憶の断片が、心のどこかでざらりと擦れた。
「外側からものすごく大きな力で、無理やり作り変えられてしまったみたいに見えるの。その……荒唐無稽すぎる話で、ありえないことだとは思うのだけど」
その瞬間、渓谷の奥で微かに空気が振動する。風の層がずれたのか、肌に触れる温度が一瞬だけ変わった気がした。ヴィルは黙って頷き、鋭い視線を大地の裂け目に向ける。その眼差しは、この場所に刻まれた何かを、すでに知っている者のものだった。
「よく気がついたな。そうだ。普通ならありえない。じゃあ、どうしてこの地がこうなったのか……その理由を知りたくはないか?」
その言葉は、風景そのものが語りかけてくるようだった。わたしは無意識に岩肌へ目を向け直す。赤い岩の合間を縫うように、白い鉱の筋が目を刺すように光り、縞は不規則で、どこか生々しい。
もしこれが本当に長い年月で削られたなら、もっと丸く、もっと曖昧なはずだ。けれど、ここは違う。輪郭が、硬い。
「こんな直線的な断崖が、風化や侵食でできるわけないのよ。どう考えたっておかしいじゃない」
疑念を言葉にした瞬間、空気の重さが増す。熱が増したわけでもないのに、肩に乗る圧だけが深くなる。ヴィルは険しい岩の斜面へ指を伸ばし、声を落とした。
「ああ、特にあそこを見ろ。お前の言った通り、自然の力じゃ説明できない疵痕がある」
彼が示した先には、深く鋭く走る亀裂。その周囲には、何かに叩きつけられたような粉砕痕が広がり、小さな岩片が無造作に転がっている。そこだけ色がわずかにくすみ、熱を受けた斑点のように見えた。
背筋に冷たいものが広がる。
「『何か』が、この地に異変をもたらしたのは確かだ」
――ヴィルは、その『何か』を知っている。
砂を孕んだ風がまた頬を撫でる。指先にまとわりついた砂が、きしりと鳴った。ヴィルの微かな苦笑、その影に滲むものは、遠い過去の痛みか。
「人には到底扱えない……いや、理解すら及ばないような巨大な力が働いた。そう言ってもいいかもしれない」
渓谷がそのまま黙して、誰にも打ち明けられない秘密を抱えている気がした。髪先が砂を孕み、喉の奥に苦味が残る。熱いはずの空気の中で、汗だけがすっと冷えていく。
わたしにできることは、この異様な風景と静かに向き合うことだけ。渓谷は沈黙のまま、けれど確かな存在感でそこにあった。
ここに刻まれた何かは、きっと父ユベル・グロンダイルの物語と、切り離せないのだと――まだ形にならないまま、理解が始まっていた。
風が遠くで鳴り、ヴィルの視線は、まだ奥の何かをじっと追い続けている。その姿は、わたしの記憶にある父の背中とどこか同じ影を背負っている。
「この先に……この変容をもたらした原因。あるいはその痕跡がある。そういうことなのね?」
かすれる声が、渓谷の静寂に小さく吸い込まれる。自分の声さえ、ここではよそよそしい。ヴィルは沈黙の後で頷いた。その表情には、切なさと覚悟が綯い交ぜになっている。
「そうだ。ミツルよ……」
「なに?」
緊張で心臓が細い糸のように震える。焼けた空気の中で、その震えだけが冷たい。
「お前には、それを知る権利と義務がある。ユベル・グロンダイルの娘であるならば、な……」
「だが、どうするかはお前が決めろ。俺は命じるつもりはない」
渓谷に吹く風が、首筋をひやりと撫でた。思わず両腕を抱きしめる。父の名が、熱を含んだ空気の中で、重い錘になって胸に落ちた。どこか遠くの空に、鈍い光がゆらいだ。
「権利と義務……そして選択……」
呟きは小さく震えていた。渓谷の奥に、見えない何かが潜んでいる気がしてならない。父が踏み込んだ場所へ、今度は自分が足を運ばなければならないのだという予感が、まだ形にならないまま肌の内側を粟立たせていく。
「父さまは……この渓谷に隠された真実を知っていた、ということ?」
息が詰まり、かすかな声で問い返す。唇が乾いて、言葉が少し遅れて出た。ヴィルは視線を外し、儚い笑みを浮かべた。その横顔に、かつて父と肩を並べていた時間の影が、ふと差し込む。
「そうだ。ユベルはこの一帯に潜む真実に迫り、そして……挑もうとした男だ」
「挑んだって……!?」
国家地理院の地図から存在を抹消されるような秘匿懸案。知るだけでも大問題ではないのだろうか。
「あいつから『繋がれた命』であるお前には、それを知る必要がある。いや、これだけは避けては通れない道と言うべきか。だから俺はキカロスを抜けるルートを選んだ」
砂の匂いが重く降り積もる。父の背中を思い出す。いつも遠ざかっていく広い背中。その足もとに、こんな赤い砂が散っていたのかもしれない。封じられた歴史が岩の縞に浮かび上がり、一本一本の線が、ユベルという名の輪郭を描き始める。
「……わたしに退くという選択肢はないわ。このまま進む。何であろうと受け止めてみせる。だって……わたしは父さまの娘なのだから」
言い切ると、ヴィルは目を細めてわたしを見た。その瞳には、守りたい気持ちと、見守るしかない切なさが淡く揺れている。彼の視線の先には、わたしだけでなく、もう一人の「ユベルの影」も重なっているように感じられた。
「いいだろう。ただし、ここから先はさらに油断ならない場所だ。何が待っているか分からない以上、決して気を抜くな」
「わかった」
「……俺は隣にいる。決して置いてはいかない」
その言葉に、足指が砂を掴んだ。腹の底でひときわ強い熱が灯る。風が砂を巻き上げ、岩肌がふと息を潜めたように見えた。世界全体が、わたしが一歩を踏み出すのを、無言で待っている。
渓谷の奥、その先に広がる未知。それがどれほど厳しくても、父の遺志とともに、この地の真実に向き合う。
わたしの未来は、その先でしか選べないのだと、赤い砂が舞う風の中で静かに信じていた。




