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淡々とした背中に隠された想い

 茉凜は、あれからしばらく沈黙を守っている。剣の内側が、妙に静かだ。わたしの拒絶を、ただ怒っているわけではない。たぶん、わたしの強情さと、ヴィルの真剣さのあいだで、かける言葉を選んでいるのだろう。


 そう、わかってる。彼女は優しい子だ。だから押し付けたりしない。だというのに、わたしは臆病で傲慢で、いつだって頼ってばかりで……。


 焚き火の残り香が外套に染み、夜気が頬に薄く触れる。熱が引ききらないからだは、火のそばでも芯が冷えるみたいで、毛布を掴む指先だけが落ち着かない。


 ヴィルは甲斐甲斐しく、けれど手際よく介抱を続けていた。荷物の中から取り出したのは、小指ほどの小さな小瓶だ。


「それは……?」


「レルゲンから託されたポーションだ。解熱と魔素の中和に効くらしい」


「レルゲンが……?」


「安心しろ。あいつは無類の酒好きではあるが、数多の修羅場を潜り抜けてきた男だ。腕前は信用できる。さあ、飲め」


 差し出された瓶を持つ手がぶれない。命令みたいに硬いのに、そこに苛立ちはない。


 ガラス越しの琥珀は、焚き火の光を含んでとろりと透けている。


「でも、そんなに貴重なもの。こんな熱くらいで――もったいないよ」


「いいや、こういう時にこそ惜しんでいてはならん。肝心な時にお前が全力で動けない方が、俺にとっては損失だ」


 言い返す言葉が、舌の裏で乾いた。


 損得で語るその口調が、逆に気遣いだと分かってしまう。逆らえない自分が情けない。差し出された瓶の口が、唇にひやりと触れた。


「こんなことで……」


 小さく呟くが、ヴィルは眉一つ動かさず、鋭くこちらを見る。迷いがない。一度決めた運用を曲げない、指揮官の目だ。


 ――この人はいつだって本気で、本当にずるい……。


 わたしは観念して、瓶の中身をあおる。薬草の香りが鼻腔を抜け、清涼感が喉の奥のざらつきを洗い流していく。食道を通って胃の腑へ落ちると、胸骨の裏に小さな灯火のような熱がともった。


 微量のアルコールが配合されているのか、それとも、彼の真剣さにこちらの強張りが折れたのか、区別がつかない。確かなのは、ポーションで全部が片付くほどこの世界は都合よくないということ。だからこそ、いま飲む意味がある。


 空になった瓶を置く音が小さく鳴って、火のはぜる音が戻ってきた。


《《……美鶴》》


 ふいに、風が止むような静けさで、名前を呼ばれた。


《《いくら意地を張ったって、ヴィルはあなたのもっと上を行く頑固者なんだから。決してあなたのことを離してはくれないよ》》


 久しぶりに響くその声は、驚くほど透明で、責める色はひとつもなかった。


《《わかるでしょ? 彼が本気であなたを大切に思ってくれているって。それはもしかしたら、わたしに負けないくらいかもしれない。……だからね、素直になっていいんだよ》》


 肋の檻をすり抜けて、一番柔らかい場所を撫でられる。わたしは小さくため息をついた。ヴィルは絶対に信念を曲げないし、見捨てない。


「わかるけど……」


 結局、言葉のほうが先に硬くなる。その自覚が、口の中に苦さを残していく。


《《ちょっと妬けちゃうけど、わたしにはしてあげられないことが、彼にはできるんだよね……》》


 返す言葉が見つからない。


 ヴィルは茉凜の干渉には気づかない。冷静なまま、自分の革の外套を広げて、上から掛けてくれる。


 布地が肩に落ちる瞬間、彼の体温と革の匂いがふっと近づいた。仕草は少しぎこちなく、不器用さがかえって可笑しい。けれど優しさが物理的な重みとなって届くたび、自分の脆さが際立ち、胃の奥が冷たく縮む。


「情けない、わたし……」


 声が震えた。ヴィルは焚き火へ戻そうとした手を止め、わずかに瞼を上げる。赤橙の光が、その瞳の奥で揺らいだ。


「何を言っているんだ。情けなくなんかないさ。……こういう不調は、誰にだってある」


 その慰めが、かえって棘のように刺さる。喉の奥が引き攣れた。


「それに、お前はちゃんとやってる」


「そんなこと、ない……」


「いいや、むしろできすぎなくらいだ。こっちが目を回す。まったく、お前は大した奴だよ」


 呆れたような、けれど温かい響き。その言葉に、強張っていた背骨が、ひとつきりと鳴った気がした。


《《ほらね。あなたが頑張ってるってこと、彼だってちゃんと認めてる。じゃなかったら、一人前の仲間だなんて絶対に言わないよ。……ま、ちょっと不器用が過ぎるけどね》》


 剣の内側が、ひと呼吸ぶんだけ緩む。茉凜が言い終えたあとに残る余韻が、やけに澄んでいる。


 安心を落としてくれる声なのに、肩はまだ上がったままだった。外套の重みが肩甲骨へ沈むたび、息が喉の手前で途切れる。素直に受け取れば楽になるのに、受け取った瞬間、膝の裏が頼りなくなって、指が無意識に外套の織り目を撫でてしまう。


 からだが震える。寒さではない。彼の手が触れるたびに温かく、その温度が肌の上で広がるほど、内側で拒絶の壁を作ろうとしてしまう。あたたかさに寄りかかりたいのに、寄りかかった自分を見たくない。


「寒くはないか?」


 至近距離で響く低い声。心配そうな皺を刻んだ目に見つめられると、余計に泣きたくなる。泣けば弱さを認めてしまう気がして、唇を噛んだ。


「……なんで、かな」


 声がほどけて、すぐ喉で引っかかった。答えが見つからない。


《《……いまのあなたは、信じることが怖いだけ。優しさに寄りかかるのは、とても勇気がいることだから。ほら、思い出してみて。わたしたちが出会ったときだってそうだったでしょ? いろいろと大変だったけどね》》


 外套の端を指がつまみ、温度だけ確かめて離した。


「信じる、か……簡単なようで、難しいよね」


 誰かに自分を預ける、という言葉を口の中で転がすだけで、舌裏が乾く。預けた瞬間、もう「ひとりで立つ」ふりができなくなる。


 ――ふたつでひとつ。茉凜がいればそれだけで、もういいじゃない。


 自分に言い聞かせる。彼は父と並び立つ、いつか追いつきたい大きな目標。単なる仲間で、剣の師匠で、この世界を生き抜くための指南役。そう思えば、楽になれるはずだった。


 でも、心のどこかで「それだけじゃない」を欲している自分がいる。それは、父の影を見ているからなのだろうか。それとも――外套の重みが肩へ沈むたび、胸の奥が勝手にほどけてしまうからなのだろうか。


 恐る恐る見上げると、ヴィルは困惑した表情を浮かべながらも、急かさず見守っていた。


 ――この人は、わたしにとって……なに?


 薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。その静かな思いやりが、肋の裏へじわりと染みていく。わたしはぎこちなく微笑もうとするけれど、視界が滲んで、結局うまく笑えなかった。

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