壊れそうな強がり
その日の野営場所が決まり、魔獣避けのささやかなシェルター作りを始めたが、わたしはもう、まともに思考できなくなっていた。焚き火の煙が細く流れ、乾いた木の匂いだけがやけに鮮明に鼻を刺す。
無理やり〈場裏・黄〉を展開しようとした。けれど、明確なイメージを保持できない。地面からせり上がる土の壁は歪み、縁が波を打って揺れて、固まる前に泥のように崩れていく。内側から見上げても稜線が定まらず、こちらの呼吸まで引きずられて乱れた。
指の腹に湿った土が張りつき、冷たさだけが残る。
「だめだな、わたし……いったいなにやってんだろう……」
ぽつりと、癖のように独り言ちた。
いつもなら、間髪入れずに明るい反論が脳裏で弾けるはずだった。あるいは呆れた声が鼓膜の裏をくすぐるはずだった。けれど、返事はない。あるのは、焚き火が薪を食む音と、風が闇を撫でる音だけ。意識の奥、いつもなら温かな光が灯っている場所が、しんと冷えて暗い。
――自業自得じゃない。あんなひどいこと言っておいて……。
昼間、わたしが突き放した言葉。「黙ってて」と言った拒絶を、彼女は守っている。あるいは、わたしの苦痛を同じように引き受けて、今は深く沈んでいるのかもしれない。どちらにせよ、この内側の静けさが、今は罰のように重かった。
呼吸が浅い。指先はじっとり冷え、額に嫌な汗が浮く。腰から下が鉛みたいに重く、視界の端で空気がかすかに震えた。もう一度、と念じるたび、土の縁がさらに頼りなくなる。息だけが先に速くなっていった。
その時、不意に肩へ触れる感触があった。
振り返ると、月明かりの下でヴィルが立っていた。瞳には険しさと気遣いが混じり、ただ黙ってこちらを見つめている。
「ミツル。やはり魔術の使い過ぎじゃないか? もういいから、見張りは俺に任せて休め」
低い声に温かさが混じる。甘えそうになる自分が嫌で、奥歯がかすかに鳴った。
「……別に、これくらいなんてことないわ」
気丈に言って視線を逸らす。作りかけの歪な壁へ目を向け、冷静を装った。けれど拳は震え、土の粒が指の隙間からさらりと落ちる。もう一度集中しようとしたのに、からだが言うことを聞かなかった。
ヴィルは何も言わず、じっと背中を見守っていた。やがて大きなため息とともに、わたしの隣へ腰を下ろす。乾いた草がかさりと鳴り、その音が妙に耳に残る。
草の音のあと、息がひとつだけ深く入った。彼は何も言わない。ただ、そばにいるだけだ。
喉の奥で、言葉が何度もつかえていた。湿った森の匂いが鼻の裏に残り、息を吸うたび、胸骨の奥がちくりとする。
「……ヴィル」
呼びかけた声が、自分でも頼りない。
「なんだ?」
返事は短いのに、そこにいると分かる重さがあった。焚き火が一度だけぱちりと弾け、赤い光が指先をかすめて消える。わたしは指先をいちど握って、ほどく。
「あなたから見て、わたしってさ……」
続きが出ない。出せば、崩れる。そう分かっていて、でも沈黙のほうが苦しい。
口の中が苦い。舌の裏が乾いて、唇の内側に鉄の気配が滲んだ。目を閉じれば、あの時の森が浮かぶ。白い息の向こうに、赤黒い残滓。父が、わたしを背にかばったまま崩れた輪郭。
言葉が、ようやく形になる。こぼれたら止められないと知りながら。
「ちゃんと……仲間になれてるのかな?」
喉がひゅっと鳴った。続けるほど、息が浅くなる。
「あなたの足手まといになってない?」
声が震える。ヴィルの肩が、ほんの僅かに固くなるのが見えた。
「あなたは強いわ。わたしの父さまと同じくらい……」
言った瞬間、胸の奥が冷える。比べたくて比べたんじゃない。怖くて、言ってしまった。
「でもね、その父さまは……わたしを守ろうとして戦って……死んでしまったのよ」
視界の端が白む。焚き火の匂いが急に濃くなり、指が柄の革を探って滑った。
「わたしみたいな足手まといが、いたせいで」
言い切った途端、息が詰まった。喉の奥が痛い。吐くたび、冷えが背骨を下る。
「あなたは悪くないって言ってくれたけど……それでも、また同じことが繰り返されたらって。想像したくもないのに、どうしても過って……」
言葉が先に走る。止めたくても止められない。
「あなたに迷惑かけるのが嫌……」
声がかすれる。
「あなたが傷つくのは嫌……」
奥歯が鳴る。涙は出ないのに、目の奥が熱い。
「あなたが居なくなってしまうのが、いや……」
最後だけ、ほとんど息になった。握っていた力が抜けて、指先が冷えたまま宙をさまよう。
風が一度、森を抜けた。葉擦れが遠くで揺れて、早瀬の音が薄く届く。わたしはうつむいた。見られたくない。けれど、聞いてほしい。
言い終えた途端、胸の内側が空っぽみたいに軽くなって、その反動が怖かった。
次の拍で、視界がぐらりと歪んだ。世界が傾ぎ、足元がふわりと浮く。冷や汗が背を伝い、闇が縁からせり出してくる。思わず目を閉じた。
その時、強い腕がわたしを抱き留めた。胸元に革鎧の硬さと金具の冷たさが食い込み、支えの力だけが確かだった。
「おいっ、ミツル!?」
耳元で響く声は、いつもの冷静さを失い、ほんの少し動揺していた。うなずこうとしても首が動かず、喉の奥がひりついた。
「ごめん。少し、疲れただけ。なんでも、ないよ……」
声はかすれ、頼りない。ヴィルは苦い顔をして、額に手を当てた。ひやりとした掌が、熱を暴くみたいに正直だった。
「なんでもないわけないだろう。むっ……体が熱い。もしや?」
腕の中で、自分の火照りにようやく気づく。息苦しさの輪郭が、遅れて形を持った。
「……そっか。わたし、熱……あるのか……」
驚くほど弱い声がこぼれる。ヴィルは焦って額に手を当て直す。その冷たさに、目を閉じたくなるのを堪えた。
「こいつはひどい熱だ……おい、どうしてこんなになるまで我慢していた?」
眉がぴくりと動き、苛立ちと心配が交じった声音が落ちる。頭は霞んでいて、言葉が掴めない。
「……ごめん、ね。ちょっと……自分でも、よく分からなくて……」
ぼそっと謝る。ヴィルは短く息を吐き、困ったように顔を覗き込む。その瞳は鋭くも優しく、逃げ道だけは残していた。
少しの間が流れ、空気がぴんと張り詰めた。
ヴィルはそっとわたしを横たえ、水筒で布を濡らし、額に当ててくれる。ひんやりとした感触が熱を引き、息がわずかに戻った。彼の動きは迷いがなく、その手際が静かな支えになる。
毛布の端を押さえたまま、視線を逸らして外衣だけをほどく気配がした。ほどいた布が脇へ寄せられ、新しい布の冷たさが肩口を撫でる。
「そうか、魔素酔いで感覚が鈍ったせいか。なんとなく、そうじゃないかと思っていたが……気づいてやれないとは情けない。すまない、ミツル……」
優しい声に、微かな不安が混じる。わたしは重たいまぶたを持ち上げ、うっすらと彼の輪郭だけを追った。
――そんなこと言わないで。情けないのも、弱いのも、わたしなのに……。
薄れていく意識の中で、ヴィルが髪をそっと撫でてくれる。指先の温もりに、握っていた力が、ふっと抜けていった。わたしは静かに目を閉じ、深い眠りへと落ちていった。
◇◇◇
ぱちぱち、と焚き火の弾ける音が耳に届き、じんわりした温もりが体を包む。
柔らかな毛布にくるまれている感覚のまま、自分がどこにいるのかをぼんやりと確かめる。顎先には毛布の縁のざらつきが触れていて、現実と夢の境目だけがまだ遠かった。
薄目を開けると、焚き火の揺れる橙の光が滲んだ。火の粉が夜空へとふわりと舞い、まぶたの裏に白く残る。目が少し痛くて、夢みたいに逃げられない。
煙の香りが鼻腔をくすぐり、冷えた大地に暖かさが溜まっていた。
夜の静けさが重く降りる。そのなかで火の音だけが、ふいに空気をやわらかく揺らす。わたしはそっとまぶたを上げ、隣の人影に視線をやった。
ヴィルが背を向け、慎重に火を見守っている。その広い背中は頼もしくて、どこか優しかった。
喉の詰まりが、少しだけゆるむ。
「ヴィル……?」
思わず呼びかけた声は、かすれて頼りなかった。けれど、彼はすぐに振り向く。焚き火の光が彼の顔を照らし出し、険しかった表情が少しだけ緩んだ気がした。
青い瞳がこちらを覗き込む。心配の影が、火の揺れに紛れている。
「どうだ、具合は? 少しは楽になったか?」
その声には、安堵が混じる。わたしは小さくうなずき、体を起こす。焚き火のぬくもりと、そばにいる気配が、骨の中へ染みていく。
「う、うん……」
微笑みながらそう言うと、彼は一瞬だけ目を見開き、困ったように視線を逸らした。
その仕草が気にかかった。
「あれ……?」
ふと、さっきまで汗ばんでいたはずの肌が、すっきりしている。皮の鎧は外され、清潔なチュニックに着替えている。
意味が追いついた瞬間、胃のあたりが冷たく縮んだ。頬へ一気に熱が集まり、息がつまる。
「えっ、と……」
言葉にならない。毛布の端を掴む指だけが忙しく動く。
「い、い、いやあぁ――っ!」
喉から突き上げるような悲鳴。夜の静寂を破り、焚き火の音すらかき消すほどだった。わたしは毛布を胸まで引き寄せ、両手で顔を覆った。
耳の後ろが焼けるみたいに熱い。
ヴィルは驚いたように目を見開きつつも、どこか冷静を保とうとしていた。その無骨な表情が、かえって胸のざわつきを煽る。
「落ち着け……」
「あなたっ、何考えてるの!? こ、こんなの、こんなのって……信じられない。ひ、ひどいじゃない……」
情けないほどか細い声で抗議するが、ヴィルは小さくため息をついた。視線は真っ直ぐでも、こちらの胸元へは落とさない。火に向け直すみたいに、わずかに焦点を外したまま話す。
「あなたね、自分が何をしたかわかってるの!?」
問い詰めると、ヴィルは瞬きをし、視線を逸らさずに答える。
「わかっているさ。だがな、たかが熱と油断できん。ここは街の中じゃない。医者も回復術師もいないんだ。ましてや、魔獣が跋扈する危険地帯だということは、お前だってわかるだろう。放置すれば命に関わる」
毛布の端を握る指が白くなり、遅れてゆるんだ。息が浅いまま、胸の奥だけが熱い。
「そ、たとえそうだとしても、普通そんなこと……! まず相手の了解を取ってからするものでしょ? ほんと、信じられない……」
羞恥と悔しさで、目の奥がじんとした。ヴィルが本当にわたしを気遣ってくれたのはわかっている。それでも、情けなさが胸に絡みつく。
ヴィルは、じっとわたしの動揺を受け止めていた。
「……俺はお前を一人前の人間として扱っているつもりだ。当然、信頼する仲間としてな。だから、俺は最善と思える手段を選んだ」
言い返そうとして、声が喉に引っかかった。
「だからって……!」
拳が震え、地面を打ちたいほど悔しさが湧く。目には涙がにじむ。自分がこんなふうに取り乱すのが、恥ずかかった。
ヴィルはその涙を見つめ、咎めることはしない。ただ、じっと受け止める。
「俺もユベルも、そうやって仲間を助けてきた」
声は低く深い。
「……戦場では男だとか女だとか、そんなことを考えている余裕はない。仲間が命の危機にある時、ためらう暇などありはしない。そのわずかが取り返しのつかない結果を生むことを、俺は何度も何度もこの目で見てきた……」
焚き火の火がはぜ、音がひとつ跳ねた。わたしの肩が、その音に合わせて小さく揺れる。
「俺は、すべきと思ったことをしたまでだ。お前が俺をどう思おうと構わない。嫌ってくれたっていい。弁解のしようがないことくらい、よくわかっている……」
言葉の最後が、ほんの少し擦れて聞こえた。肋の隙間がちくりと痛み、毛布の端に食い込んでいた指が、遅れて力を失った。
その擦れの向こうに、数え切れない別れが沈んでいる。わたしよりずっと、深いところで。
足手まといになりたくないと願っていたのに、涙がじんわりと溢れた。
「もう、いいよ……」
か細く震える声が、焚き火のぱちりに呑まれていく。
「……わたしだって、強くなりたいのに……」
そう絞り出した瞬間、喉が熱く詰まった。頬が濡れ、毛布の繊維に塩の気配が移る。
ヴィルは静かに、わたしの涙を見つめていた。その瞳は、ただ黙って、わたしの弱さごと受け止めてくれているようだった。




