意地と優しさの狭間で
翌日も、わたしはスレイドの上で揺られながら、ヴィルの大きな背中を見つめていた。鞍の革がきしむたび、馬の体温が膝裏へじかに伝わってくるのに、からだの芯だけが、うすい氷を抱えたままほどけない。
森林地帯の空気は湿っているはずなのに、吸い込むたび喉の内側が乾いた砂のようにざらついた。
この森に満ちる濃厚な魔素――それが、今のわたしの体には強すぎる。高い魔術適正を持つミツルという器は、空気中の魔素を無防備に吸い込んでしまう。まるで毒の混じった水を、肺いっぱいに満たされているような息苦しさ。
息の幅が、知らず細くなっていく。
口の中が、やけに苦い。
「まるで……あの頃に戻ってしまったみたい……」
声が落ちた瞬間、喉がひゅっと鳴った。剣の柄を握る指が勝手に固まり、節が白く浮く。唇を舌で湿らせても、潤いが追いつかない。
昔――一年と少し前。無数の魔獣に囲まれた森で、父がたった一人でわたしを守ってくれようとした、あの血の気配。白い息の向こうへ、赤黒い残滓だけがよぎり、視界の輪郭が少し遅れて揺れた。
掌の汗が柄の革へじっとり移る。落ち着こうとするほど、指先が小さく震え、爪の先まで冷えが走っていく。
息を吸う。冷えた空気が喉を撫で、胸骨の裏へ刺さる。魔素のせいなのか、記憶のせいなのか――区別がつかない。ただ、背の奥に冷えが居座り、吐く息だけが浅くなる。
「くそっ……」
否定するように首を振る。揺れが一瞬大きくなり、鞍の感触が遠のいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
吐息がほどけるたび、耳の奥で鼓動が騒がしく跳ね回る。積み上げたはずの冷静が、指の間から砂みたいにこぼれ落ちていく。
《《美鶴……?》》
茉凜の声が、遠くから遠慮がちに届く。肋の檻の硬さが、ほんのわずかだけ緩む。
「……だいじょうぶ」
言い切ったはずの語尾が、喉でほどけた。いちばん信じていないのが自分だと、息が先にばらしてしまう。
《《いんや、ぜんぜん大丈夫じゃないよ。わたしにはわかるもの。あなたの体、悲鳴を上げている》》
思考を読んでいるわけではない。けれどわたしの五感を共有している彼女は、些細な変化を拾ってしまう。まぶたの重さ、指先の冷え、視野の端の白み――隠していたはずの小さな崩れさえ、茉凜だけが拾い上げる。けれど、拾い上げた指先がやさしいのがつらい。
返事の代わりに、指が柄の革を一度だけなぞった。触れているのに、離れたくてたまらないみたいに。
《《……寒気がして、頭だって痛いんでしょう? 周りの魔素が濃すぎて、身体がびっくりしちゃってるんだと思う》》
蹄の音がひとつ、頭の中でやけに大きく鳴った。胃の底がきゅっと縮み、息が引っかかる。
「……そんなことあるわけ、ないでしょ」
首を振る。寒気くらい、耐えられるはず。そう言い聞かせても、喉の奥が狭まり、息が戻らない。
《《わたしには嘘はつけないよ。だって、わたしはあなたなんだから。ふたつでひとつのツバサなんだから……》》
――わかってる。わかってるけど。
《《ねえ、ヴィルに伝えよう? 少し休んだほうがいいって》》
押し返しても、胸郭の奥へまっすぐ届いてくる声だった。唇の内側を噛むと、一瞬だけ鉄の味がした。
「……平気よ。わたしのことなんて心配しなくていいから」
言葉が揺れ、嘘がにじむ。内側は熱いのに、寒気は骨の奥へ根を張ったまま。甘えたい気配を、自分の手で叩き落とすみたいに否定する。
《《美鶴……》》
落ち葉を踏む音が遠くへ散っていくのに、耳の奥だけが、水に入ったようにこもったままだ。
「もういい……」
《《どうして? 素直になっていいんだよ?》》
茉凜の声が、ゆっくりと肋の内側を撫でる。触れられたところだけ熱を持って、わたしは視線を逸らした。安堵と苛立ちが、喉もとで絡み合う。
「……だからって……」
言葉は喉の奥で詰まる。目の端がわずかに熱くなり、肩が微かに震えた。
《《昔、言ったよね。『辛いことも悲しいこともはんぶんこにしよう』って。いまのわたしはあなたの感じていること、誰よりもわかるところにいる。……あなたが苦しんでいるのが辛いのよ。だからヴィルに――》》
みぞおちの奥が大きく揺れる。固い鎧の下で、ぬくもりがほどけかけて、指がいちど宙で迷う。それでも、わたしはそれを掴む手つきを知らない。
「茉凜、お願い……もう黙ってて」
《《……ごめんね。わたし、見ていることしかできないから。なにもしてあげられないから……》》
消え入りそうな響きが刺さる。突き放すと、逆に不安が膨らむ。わたしは無意識に剣へ目を落とし、唇だけがかすかに動いた。
背中の革がきしみ、ヴィルの肩がわずかに止まった。
「ミツル、さっきからおかしいぞ?」
現実へ引き戻す声。振り返った青い瞳は、よく周囲を見渡した人のそれで、荒っぽい顔立ちの奥に、確かな気遣いが隠れている――そう感じたのは、きっと勘違いじゃない。
わたしは震える手を握りしめ、呼吸を整えようとする。けれど茉凜の言葉が頭の内側で反響し、無視できない。鼓動だけが不規則に浮き上がっていた。
「……別に、何でもないわ」
掠れた声。顔をそむけたくなる弱さが滲む。平静を装うが、うまくいかない。
ヴィルは黙って見つめる。無遠慮なほどの視線が重い。
「本当か? 顔色が悪い。マリンと喧嘩でもしたか?」
「っ……」
喉が詰まる。スレイドの背がひとつ沈み、奥歯がひとつ鳴った。
茉凜とのつながりは、言葉にした途端に形を失いそうで、舌が動かない。大切で、誰よりも近い。けれど、そのまま口に出せば、弱い自分まで剥き出しになる。女の子同士で、しかも剣の中で――名前を付けた瞬間、ここでは言葉が尖る気がして、息を飲み込めなかった。
「……そういうんじゃ、ないよ」
震える返答が、むしろ曖昧さをばらす。それでもヴィルは問い詰めず、眉を寄せて考えるように目を伏せた。
「そうか。だが、身体が辛いなら言ってくれ」
言い終えるより先に、ヴィルの目が一度だけ左の茂みを切った。スレイドの耳が同じ方向へぴくりと動き、わたしの喉が無意識に狭まる。
視線が外れ、空気が少し軽くなる。押し付けはない。ただ、そばにいる。――それが、苦しい。寄りかかりたい衝動を、全力で押し戻す。
「……ありがと」
目を伏せたまま、ようやく絞り出す。唇が微かに震え、顔を上げられない自分に、また小さな自己嫌悪が滲む。強くありたいのに、脆さがこぼれる。
茉凜も、ヴィルも。支えてくれる人たちがいるのに、それでもわたしは独りで立とうとしてしまう。
――強く、ならなきゃいけないのに……。
その言葉が、魔素の冷えと混ざり合いながら、みぞおちの底で重く渦を巻いていた。




