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焚き火の灯と揺れる真実

 夕闇が空を静かに食み、オレンジの帯が西の地平へ溶けていく。


 野営地を整え、わたしたちは焚き火を囲んでささやかな夕食をとった。炎は闇へほどけ、頬へ温かい光と影を交互に投げる。煙の匂いが髪の先にまとわりつき、風が通るたび、その名残を薄く攫っていった。


 食事を終え、椀を引いたあとも、膝の上には地図が残っている。端を押さえる指が、落ち着く場所を探して彷徨っていた。


 ヴィルは拾った枝で焚き火をかき回す。薪は赤く、ぱちり、と硬い音が夜気へ跳ねた。炎の陰影に彫り出された横顔には、戦士の厳しさと、どこか柔らかな気配が同居している。


「ねぇ、ヴィル……」


 火の粉がひとつ跳ね、闇へ吸い込まれて消える。わたしは膝の上の地図の縁を、親指でそっと撫でた。


 さっきの話が、まだ口の奥に残っている。彼が隠していること。わたしに知られたくない何か――それが何なのか、確かめたい。


「なんだ?」


 彼は焚き火から目を離さずに応える。低い響きは落ち着いているのに、もう片方の手の指だけが置き所を失って、衣の裾をつまみ直していた。


「さっきの話、蒸し返すようで悪いけど……ちゃんとした理由を説明してくれないかしら?」


 言い終えた途端、舌の裏がざらついた。地図の紙が思ったより薄く、縁をなぞる指がいちど止まりきれない。


《《うんうん。仲間内で隠し事はよくないぞ。当方は説明を要求するっ!》》


 茉凜が意識の奥で騒ぐ。その能天気な明るさが、今の切羽詰まったわたしには少し疎ましかった。言葉が先に尖りそうになって、歯の根に力が入る。


「茉凜、今は黙ってて……お願い」


 煙が喉に刺さり、声の端がざらりとした。


《《……ごめん、美鶴》》


 控えめな声が鼓膜の奥をひっかく。返事が見つからないまま、薪の割れる音だけを聞いていた。


 ヴィルは枝先で薪の端を崩した。赤い欠片が崩れ、火が低く息をつく。その熱が頬を掠めた瞬間だけ、呼吸の浅さがばれる気がして、わたしは唇を閉じ直す。


「……理由を、聞かせて。ねぇ、聞いてる?」


 声の端がわずかに震える。怒っているのに、足場がない。指先が冷えて、膝の布を握り込んだ。


 ヴィルが手を止め、こちらを見る。火の赤が瞳に映り、鋭さの奥に静かな影が沈んでいた。


「……ミツル。ひとつだけ言える」


 火が弾け、乾いた破裂音が夜気へ散った。胃の底が、すとんと落ちる。


「キカロスに、火山由来の毒ガスなんてものはない」


「……ないって? それはどういうこと?」


 自分の声が細くなるのがわかる。冗談ではない、と彼の顔が告げている。


「わたしが持っているのは、正式にハンターギルドから配布された地図よ。発行元はリーディス王国の国家地理院で、ちゃんと認証だって記されている。そこに書かれているのよ。一帯が有毒なガスに覆われているって……」


 言いながら、息が足りなくなる。言葉の量で押し切ろうとしているのは、自分でもわかる。それでも止められない。


「正式な地図、か。……だが、そこに記されていることがそのまま真実とは限らない」


 淡々とした声が、焚き火の熱とは別の冷えを運んでくる。


「国家地理院の連中ってのは、昔から国家に不都合な場所を『禁止区域』にして地図から消す悪癖があることで有名でな」


「えっ……?」


 地図の端を押さえていた指をほどいたのに、掌は無意識に握っていた。紙の白が火を吸い、墨の線がちらついて見える。


「……じゃあ、有毒ガスっていうのは口実で……あそこには、別の何かがあるってこと?」


 口の中が急に狭くなる。舌先が上顎に貼りつき、地図の端が指へ食い込んだ。


 彼は短く息を吐き、視線を火へ戻す。瞳の奥で赤がふっと薄れ、すぐ戻った。


「そうだな。危険がないというわけではない。だが、理由は別にある」


 そこで一度、言葉が止まる。薪が崩れ、次の薪がぱちりと鳴った。


「このルートを選ぶことは、お前にとって意味がある。そう判断した」


 意味がある。そう言い切られると、背中側だけ冷たい。火の温もりが頬へ触れても、身体の芯が置き去りにされる。


「回りくどいのは嫌よ。どうして禁域にしたの? そこへ行くことに、どんな意味があるの……?」


 測りかねて、問い返す。ヴィルは動じず、真っ直ぐに続けた。


「……知るべきこと、得るべきもの、いろいろだ」


 彼の声はさらに低く、言葉は重かった。薪が沈む音が、沈黙の輪郭をなぞる。


「簡単に説明できることではないが、このルートを進むことで、お前はその一歩を踏み出すことになるかもしれん」


「一歩……」


 言葉を反芻し、掌を膝に押しつける。ただの道選びではない――そう告げる響き。彼の眼差しには、避けられない未来を引き受ける覚悟が宿っていた。


「でも、それって……本当にわたしに必要なことなの?」


 声が火へ溶けた途端、胃のあたりがひやりとする。膝の上の紙がかすかに鳴り、指が縁を強く掴み直した。


 ヴィルは小さく息をつき、火を見つめた。


「必要かどうかは、見てから決めろ。俺からは言わん。命じもしない」


「ヴィル……」


 彼は言いかけて、いったん口を閉じる。言葉を選ぶ沈黙が、妙に長い。


「……俺が言ったら、お前はそれを答えにする。……それじゃ駄目だ」


 火が一瞬だけ膨らみ、光が彼の頬骨をかすめた。


「自分の目で見て、考えて、答えを出せ。お前がユベル・グロンダイルの娘であるなら、なおさらだ」


 叱るみたいな言い方なのに、視線は逸らさない。試すようでいて、手を放さない――そんな言葉だ。火の赤がゆらいで、わたしの迷いを何度も撫でていく。


「……自分の目で見て、考えろ……か」


 小さく繰り返す。教えられる側でいることに慣れていたのだと、遅れて気づく。委ねられると、心細さは確かにある。


 ふいに、思考の底で小さなノイズが瞬いた。


《《なるほどね。わたし、彼が不誠実なんじゃないかって疑ったけど……そうじゃない。きっと、理由があるんだと思う》》


 茉凜の声が、意識の底で沈殿するように響く。わたしは眉を寄せ、火の影が揺れる地面へ視線を落とした。


「そう……?」


《《ヴィルって、ふだんはぶっきらぼうで雑で、戦いの話になると急に饒舌になるんだけどさ……肝心なところほど言葉が少なくなるんだよね》》


 その声が、暗がりの中で手を伸ばしてくるみたいに、冷えた指先へ触れる。あたたかくはない。けれど、確かな質量があった。


《《それってね、とくに美鶴に対しては強い気がする。怖がらせたくないし、答えを押しつけたくない。……だから言葉が減るんだと思う。あなたを仲間だって思ってるから、余計に不器用になる。……みたいな?》》


 ――わたし、だけ? 仲間……?


 問いが音にならず、喉の手前で止まる。


《《だからさ、今は信じてみよう》》


 さっきの一言がまだ痛いのに、その痛みを責め立てず、そっと撫でてくれる温度があった。強張っていた肩から、ふっと力が抜けていく。


「……そうかもしれないわね」


 応じると、茉凜の気配がふわりと緩む。わたしは少しだけ口元をほころばせ、ヴィルへ向き直る。


「わかったわ。わたし、自分の目で見て、考えて、ちゃんと答えを出す。それがどんなに難しいことでも……やってみる」


 決意の言葉に、ヴィルが目を細める。双眸の赤に深い安堵がにじみ、見守るように静かに頷いた。


「お前ならできるさ」


 風が草を渡り、焚き火の灯が丸く落ち着いた。星が一つ、また一つと増えていき、空が静かに奥行きを持つ。わたしは指をほどいて、掌の汗が冷えるのを待った。


「鬼が出るか蛇が出るか。正直、そういうの怖いのだけど……」


 その一言に、ヴィルは口元をわずかに緩めた。いつもの落ち着いた声で応える。


「何が来ようとも、俺はお前を守り抜く。見捨てない。……絶対にだ」


 言葉は夜気に溶け、火の温もりが静かに広がっていく。わたしはもう一度、星空を仰いだ。


 煙の匂いを肺いっぱいに吸い込み、吐く。白い息は見えないのに、肋の檻が少しだけ軽くなった気がした。わたしは旅の続きへと視線を戻した。

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