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穏やかな風と胸のざわめき

 わたしたちは、翌朝早くにコマドの街を後にした。


 長居すれば思わぬトラブルに巻き込まれそうな気がしたからだ。噂はどこでどう広がるかわからない。大金を抱えている身としては、用心するに越したことはない。


 野原が広がる一角で早めの昼をとったあと、わたしは地図を広げて、これからの道筋を確かめる。


 紙は草いきれで少し湿りを含んでいて、指先にしっとり馴染んだ。風が端を持ち上げるたび、わたしはそっと押さえ直す。


 リーディスへのルートは、ヴィルの主導で決められていた。彼は中央大陸の隅々まで歩いたと豪語し、二十年近く父の行方を追い続けてきた。その経験は、地図上のどの線よりも頼りになる。


 それでもこうして地図を広げる癖が抜けないのは、慎重というより――いま目の前にある安らぎを、すぐには信じきれない貧乏性のせいだ。


 旅を始めてから、わたしは自分のこの癖を、いちいち言い訳しないで済むようになってきた。ヴィルが、いつだって笑って許してくれるから。


 ふと、視線を上げる。


 ヴィルは草の上に寝そべっていた。


 陽射しは絡むようにあたたかく、穏やかな風が草をそよがせる。片腕を枕にした姿のまま、皮鎧の縫い目の間から白いシャツが覗き、日に浅く光っていた。


 日向の匂いに、使い込まれた革の匂いが混じる。その奥に、鋭い鋼の気配だけが薄く残っている気がして、わたしの喉が一度だけ鳴った。


 深い眠りは、戦場の匂いさえ優しく溶かしてしまうのだろうか。


 無防備な姿に、つい笑みがこぼれる。


 戦う時は誰よりも鋭い彼が、今はただ、大きな犬のように安らいだ顔だ。日差しがやわらかく頬に降り、緩んだ眉間から、張りつめていたものがそっとほどけていく。


 草の葉が彼の肩に触れて、また離れる。長いまつ毛の影が頬に落ちたまま動かないのが、妙に幼く見えて――わたしは地図の上で、指をいらないほど揃えた。


「もう……いくらなんでも油断しすぎじゃないの?」


 声に出した瞬間、言葉が熱を帯びて舌裏に戻ってくる。


 呆れているようで、その実、この無防備さを自分だけが見ていることに、息がひとつだけ浅くなっていた。


 わたしは唾を飲み込み、平静なふりをして地図に視線を戻す。


 けれど視界の端に、彼の寝顔が焼き付いて離れない。紙の上の等高線を追っているはずなのに、文字が意味をなさず滑っていく。わたしは困って、地図の角をくしゃりと折りそうになる指をほどいた。


 草が波打つ。膝の上の紙が陽を返し、墨の線がいっそう黒く見えた。遠くで鳥が短く鳴き、あふれる光が音の輪郭まで白くする。


 その中で、ヴィルの寝息だけが落ち着いている。規則正しい、というより、息の出入りに余裕がある。


 見張り役を放棄した人の呼吸ではなく――ここを安全だと選び、わたしを信じてくれている人の呼吸。


 わたしはその信頼を、言葉にするのがもったいなくて、唇の裏をそっと噛んだ。


「……こんな顔も、するんだ」


《《ヴィルもこうしてみると、なんだかかわいいね。なんとなくだけど、昔家で飼ってた犬に似てる感じがする》》


「犬って? どんな犬なの?」


《《ラブラドール。ラブラドール・レトリバーだよ。大きくて、優しくて、賢い犬》》


「……ぷっ」


 記憶の中の「垂れ耳の大型犬」のイメージと、目の前のヴィルがあまりにも重なりすぎて、思わず吹き出してしまった。


 口元が勝手にゆるむ。否定しようとして、でも否定できなくて、頬の温度だけが上がった。


「……彼のこと、まだよくわからない。けど――」


 口に出してしまってから、少し遅れて恥ずかしさが波のように押し寄せた。わたしは地図の線を、必要以上に丁寧になぞった。紙の擦れるカサリという細い音が、沈黙の間を埋めてくれる。


 寝息に合わせて草がわずかに動き、風の音が耳に心地よい。じっと見ていると、若い頃の彼がどんなふうに笑い、どんな夢を抱いていたのか、淡い光景が浮かんでくるようだ。


 たぶん、ほんとうは――わたしが見たいだけだ。


 父の親友で、雷光の剣士で、百戦錬磨の戦術家で、頼れる年長者。そういう肩書きの輪郭の外側に、もっと柔らかい「ヴィル」という人がいるのだと、確かめたくて。


 風が彼の前髪を少しだけ揺らす。


 伸ばした指がそこへ届きそうで、届かない。わたしは何もしていないのに、手のひらがじんと熱くなる。


「……きっと若い頃も、こうして父さまと並んで昼寝をしてたのかもしれないね」


 思わずこぼれた言葉に、自分でも驚く。穏やかな寝顔に、かつての時間の愛おしさがにじむ気がした。


 父とヴィルが並んでいる場面を、わたしは見たことがない。なのに想像だけが、やけに具体的だ。草の匂い、陽の角度、ふたりの信頼しきった沈黙の長さまで――勝手に埋まっていく。


《《かもねー。いまみたいに、穏やかな時間を大切にしていたのかな……》》


 茉凜の声は、野の花が静かに咲くような柔らかさを帯びていた。


 草花の匂いが風に混じり、青空に白い雲がゆっくり流れる。旅路はまだ長いが、この一瞬は、永遠に続くように思えた。


 わたしは地図を畳みかけて、やめた。


 端を揃えるだけにして、膝の上に置いたままにする。ここで音を立てて先を急いでしまったら、せっかくの静けさに傷がつく気がした。


「ヴィル……起きたら、また色々教えてね」


 願いは声にした途端、風に乗って少し軽くなる。


 それでも唇の裏には、まだ甘い熱が残っていて、わたしはその消し方がわからないままだった。


 その熱をしまったまま、陽はゆっくり傾いていった。


◇◇◇


 夕方、わたしたちは野営地に着いた。陽が傾き、草の匂いに薪の焦げが混じった。焚き火の熱が頬を撫で、指先だけがまだ冷えている。わたしは地図を広げ、抱えていた疑問を確かめようと顔を上げた。


「ねぇ、ヴィル? これからのルートなんだけど、一つだけ気になることがあるの」


 紙の縁が指に擦れて、乾いた音がした。


「なにがだ?」


 わたしは地図の一点に指を置く。墨の線が爪の下で黒く見えた。


「わたしたちがこれから向かう、キカロスの大森林地帯のことよ」


「それがどうした? 何か問題でもあるか?」


 彼は平然としている。焚き火が弾けても、まぶたの動きひとつ変えず、地図へも視線を落とさない。


「いやね、わたしが持っている地図なんだけど、これを見たら、キカロスは全域が立ち入り禁止区域に指定されているの」


「だから?」


 あまりに淡白な答えに、腹の奥で熱がはねた。薪のはぜる音が一つ遅れて耳に届く。


「だからじゃないわよ。有毒なガスが噴出して滞留しているって、ここに記されているの。そんな場所を抜けるのは危険じゃないかって言ってるの!」


「ほう? なるほどな」


 まるで他人事のような反応に、わたしは思わず詰め寄った。足元の草が靴底でつぶれて、青い匂いが立つ。


「ちょっとヴィル、本当にわかってて言ってるの? 真面目に答えてよ?」


 ヴィルは一度目を閉じて短く息を吐き、真剣なまなざしを向けた。その鋭さに、言葉が喉で止まる。


「……ミツル、与えられる情報をただ鵜呑みにするな――」


 低く重みのある声が、焚き火の熱の下へ沈む。


「――常に疑い、別の可能性を探る目を持つことだ」


 胸ではなく、みぞおちの奥へ沈む教訓だった。反論を探して口を開いたのに、何も掴めずに空を噛む。


「これが一番早くて、一番筋がいい。俺がそう見た。わかったな?」


 視線に触れた途端、言葉が引っかかって落ちた。悔しさが舌裏に残る。


「わ、わかったわよ……」


 少し拗ねた声で、わたしは視線をそらす。これ以上は、いまではないのだと、自分に言い聞かせる。


 ヴィルは口元をわずかに緩め、言葉は返さず周囲を見回した。草原を渡る風がさらさらと鳴り、焚き火の匂いがいったん薄くなる。


 思えば、これまでわたしは彼に反発したことなどなかったと思う。彼への信頼は揺るぎないはずだった。それでも、言葉の端に残った小さな棘が、手のひらの内側でひそひそ擦れている。


 信じたい。けれど、今の返し方は、何かを伏せたままのようにも見えた。焚き火の赤が揺れるたび、その感覚だけが形を探していく。


 風が吹くたび、草原のざわめきが不確かな気持ちをそっと掻き立てた。


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