魔獣の森と少女の覚醒
わたしたちはヴィルの愛馬スレイドに跨り、キカロスの森林地帯を進み続けていた。
あれから三日が過ぎようとしている。鬱蒼とした緑が視界を覆い、森そのものが方角を呑み込んでいく。かつての街道は危険地帯に指定されて久しく、草に飲まれた轍の名残だけが、苔の纏った石標とともに辛うじて過去を指し示していた。
今のところ懸念していた火山性の有毒ガスの兆候はない。あるのは、湿り気を含んだ重い空気が、肌にべたりとまとわりつく感触だけだ。
スレイドが枯葉を踏むたび、ぬかるみの柔らかな反発が鐙越しに伝わり、腐葉土と泥の匂いが浅く立ちのぼる。木々の隙間から差す陽は心許なく、昼のはずなのに森の内側は深い緑の影に沈んでいた。白い靄が低く漂い、呼吸のたび喉の奥が少しだけ湿った。
わたしは前方へ目を細め、肩にかかった髪を指で払う。鳥のさえずりは遠く、長い間を置いて一声だけが落ちてくる。人気のないこの場所で、年輪を刻んだ幹と幹がひそやかに秘密を交わしているように思えた。
馬上から眺める道は草に絡まれ、刻み痕の残る標だけが、繁栄の名残を幻のように浮かび上がらせる。
その時、ヴィルがスレイドの歩を止め、周囲を見回しながら低く告げた。
「もう少し進めば、早瀬に出られるはずだ。そこで休憩しよう」
張り詰めた沈黙が、彼の声で緩む。森へ入る前は、何が待つのかと胃の底が強く硬くなっていた。けれどここまで、兆しはない――そう思っただけで、肺の奥に入る空気がわずかに軽くなる。
異様に静かな森で、頼れるのはヴィルとスレイドの体温だけ。わたしは彼の背へそっと体重を預け、深呼吸で背の強ばりをほどこうとする。革の匂いが微かに温度を持って返ってきた。
やがて、細いが清らかな流れが視界に現れる。水面のきらめきが薄暗がりに灯りを撒き、そこだけが確かな生の色を帯びていた。スレイドが歩みを緩めると、肩の力がふっと抜け、息が楽になる。
ヴィルは手綱を引き、わたしたちを早瀬のほとりへ導く。スレイドを寄せると、わたしは鞍から滑り降り、草を踏んで水際へ近づいた。水音が静けさをやわらかく破り、耳朶の裏まで冷たさがしみてきた。
わたしは足でぱしゃぱしゃと水を蹴り、散った雫を追ってもう一度だけ踵を入れた。雫が陽をつかんで頬に触れ、ひやりとした感触が思わず笑みを誘った。
「冷たくて気持ちいいね」
《《だねー。ここって湿気が多いから、なんだかすっきりするよ》》
茉凜の声が頭の内に広がり、その頷きがわたしの喜びへ波紋をつくる。冷えた水が、森の重さを一瞬だけ押し流していく。小さなひとときを、二人で分け合った。
スレイドは喉を鳴らして水を飲み、横ではヴィルがスキットルの酒をぐいっとやる。喉を通る音が心地よく、思わずくすりと笑ってしまう。
「ふっ」
彼は少し照れたように肩をすくめた。長旅の途中、こういう一息があるだけで、背負っていた荷が少しだけ軽くなる。
けれど、その平穏は、そう長くは続かなかった。
「うっ……!?」
ぞわり、と寒気が皮膚の下を駆けた。頭の奥へ、煤紫の霞のような禍がゆっくりと流れ込む。鼻の奥に、湿った鉄の匂いが薄く貼りつく。
《《美鶴。この感覚って、まさか!?》》
「うん、魔素の流れを感じる。それもかなり重い……」
わたしは膝から水を払って立ち上がる。早瀬の冷たさが足首に残り、森は息を潜めたように、音の層を一枚ずつ剥ぎ取っていく。
「むっ……」
ヴィルはスキットルを懐に収め、目だけで周囲を掃く。スレイドが鼻を鳴らし、前蹄で泥を軽く掻いた。馬の汗の匂いに、湿土の匂いが重なる。
魔素は、わたしの身体へ滲み込む道を知っている。暗葡萄の気配が、皮膚の裏をやわく撫で、内側の温度を奪う。
「……間違いない。近くに魔獣がいるわ。それも、数が多い」
声がわずかに震え、喉の奥で乾く。彼の視線が鋭さを増し、空気の張りが一段階上がる。
《《美鶴、気を付けて》》
わたしは湿った草から踵を離し、体勢を整える。白い靄は濃さを増し、光が粒のまま空気に行き場を失った。
目を凝らしても茂みは壁のまま。けれど、魔素の流れに小石が落ちたような乱れが、あちこちで細かく弾む。舌の裏が乾き、息の置き場が定まらない。死角は多すぎる。濡れた葉影と枝と音の断片が、神経をばらばらの方向へ引き裂こうとしていた。
靄と枝の間で、影がひとつ滑った。葉が遅れて小さく震えた。
ヴィルが剣の柄に手を置き、低く告げる。
「スレイドから離れるな。守りを固めるんだ」
わたしは頷いて彼の背後へ滑り込む。革の匂いが近づき、心拍が少し落ちた。
《《美鶴、マウザーグレイルを抜いて》》
「わかった」
喉に通る彼女の温度に背を押され、白き刃を構える。柄から伝う微かな振動が、掌の汗を吸う。
魔素はさらに満ち、煤紫の霞が視界を狭める。どこから来るのか掴めない焦燥に、指先の力が強くなる。
「なんなの、これ? 濃厚な魔素が押し寄せて来て、よくわからない」
四方から押し寄せる魔素の濃さが感覚を掻き乱し、芯が揺れる。
「落ち着け、ミツル! 感覚に呑まれるんじゃない!」
叱咤が鼓膜を叩き、わたしは乱れた呼吸を無理やり均す。
次の瞬間、視界がふっと暗幕に包まれた。マウザーグレイルの自己防衛機能――予知の視界だと頭では分かる。けれど、多重視界の縁が魔素のざわめきに揺らぎ、焦点が結べない。額に冷たい汗が滲み、膝裏がひやりと冷える。
《《美鶴、しっかりして!》》
金属が弾ける高音が、森を切り裂いた。白い閃き――ヴィルの剣先。わたしはその音に引き戻され、暗幕の向こうに現実がうっすらと返る。
「ちぃっ!」
彼は雷光の一閃で、迫る正体不明を叩き落としていた。火花の匂いが一瞬だけ鼻を刺す。
「感覚に呑まれるなと言った! 自分を見失うな!」
鋭い声が胸骨に響く。
「ここはエレダンとは違う。視界が見通せない森の中に大量の魔獣が潜んでいれば、充満する魔素に感覚を奪われることだってある!」
「そうか。状況が違うだけで、こうも……」
わたしは拳を握り直す。開けたエレダンでは通じた勘も、ここでは靄の粒で鈍る。深い森では、焦りが最初の敵だ。
足元に転がる小さな骸を、彼が一瞥する。
「ムササビ型の魔獣、通称『夜滑』か。小さいが、すばしっこくて面倒な奴だ」
黒紫の体毛。小さな顎に、針のような牙。刃の痕がまだ温かく、血の匂いが湿りに混ざった。
「厄介な相手だね……」
呟きが自分の喉で重く落ちる。
――ここで〈場裏・赤〉を複数展開して、領域解放で爆風を起こせば、一気に焼き払える。……いや、だめだ。
湿った葉と苔の匂いが肌に貼りついている。ここで熱を放てば、森は燃える。樹冠に火が回ったら止まらない。わたしの力なら、なおさらだ。
それに早瀬がある。熱波が水面を舐めた瞬間、白い蒸気が跳ね上がる。視界も奪われるし、熱い飛沫が飛ぶ。スレイドの脚や、ヴィルの息を守りきれる保証がない。たとえ〈場裏・白〉で空気断層の防壁を張っても、間に合わないかもしれない。
――では〈場裏・白〉を使う?
守りとして張り続けるのは噛み合わない。竜巻の囚で絡め取るにしても、狙いが付かない。見えない角度から突いてくる小型の魔獣に、囲いを維持する術は重すぎる。
空気噴出で魔素を散らすことはできる。けれど、それは一瞬の息継ぎに過ぎない。茂みの奥に大量に潜んでいるなら、押し返されて終わる。維持して守れば負荷でこちらが先に擦り切れる。
――赤は切る。白も、守りとしては切るしかない。制するなら、一撃だけだ。
ヴィルは足の重心を低く保ち、間合いを読み切っている。
「気を抜くな。奴らは群れを成して襲ってくることが多い。次は一匹だけとは限らん」
緊張がふたたび募り、わたしは刃の角度を低く保つ。靄の粒が頬に貼りつき、冷えが肌理に入る。
「でも、どうすればいいっていうの? どこから来るかわからないんだよ?」
喉が渇いて、唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
《《まずいね。マウザーグレイルの予知視は、あくまで視野の範囲だけに限られる。四方から来られたら、完全には認識できないよ》》
掌に汗が滲み、柄がわずかに滑る。息の置き場が、また揺らいだ。
ヴィルはわたしの動揺を拾い、言葉を投げる。
「ミツル、意識を研ぎ澄ませろ。気配を感じるんだ」
「そんなこと言ったって……!」
指先が冷えて、柄にしがみつく力がわずかに増す。
「そんな……あなたみたいな達人じゃないんだから。わたしには無理よ……」
小さく吐いた声が、冷えた空気に混じった。
それでも、彼の剣はわたしの周りの空白を守り続ける。夜滑が次々と軌跡を描き、刃はそのたびに正確に打ち落とす。風切り音と金属音が交互に重なった。
「ええい、一体何匹いるんだ! キリがないぞ!」
唸りながらも、彼の足は揺れない。
《《聞いて、美鶴? 魔素の感覚が重なって認識が邪魔されるから、予知視を使うのは難しい。だからって、ヴィルの真似をするなんていまのわたしたちじゃ到底無理》》
苛立ちが一瞬、喉の手前で膨らむ。わたしは剣を握り直し、思考を削る角度を探した。
「じゃあ、一体どうすればいいっていうの?」
《《だからね。ヴィルが言う気配とか空気とかとは別の、あなたが一番強く感じられる感覚だけに絞ってみようよ?》》
一番強く感じられる感覚――。
「それって、もしかして魔素のこと……?」
魔素を感じること自体は特別じゃない。けれど、わたしは流れそのものを読む。筋も濃淡も、触れた温度の差も。人はそれを魔術適正と呼ぶ。
《《そう。周りが魔素に満たされているなら、その中を突っ切ってくる魔獣の動きとか、揺らぎを通して兆しを感じ取れるんじゃないかな? ヴィルが言ってる、『気配』と同じみたいにさ》》
身体の奥で、何かが噛み合う音がした。乱されるなら、乱れそのものを指標にすればいい。
「そうか……魔素の『揺らぎ』か……!」
わたしは深く息を吸い、余計な音をひとつずつ消す。魔素の流れが濃く行き交い、その中に生じる微かな乱反射――異物の通り道が、皮膚の内で薄い線になって立ち上がる。
《《そう。この際余計なものはばっさり捨てて、その一点だけに絞ってみるんだよ。敵の兆しさえ察知できれば、意識を向けるだけで場裏の展開だって連動できるはず!》》
その声に合わせて、森のざわめきが一枚退いた。耳の奥に薄い膜が張り、早瀬の音だけが、遠く、けれど鮮明に残る。視界を覆う煤紫の霞――その濃密な澱みの中に、細い『皺』が立つのが見えた気がした。
「あなたって……こんな時に、よくそんなこと思いつくわね」
茉凜の声は温度が変わらない。揺れない人だ。その強さを、喉の奥で噛みしめる。
対するわたしはと言えば、喉がひとつ鳴り、柄を握る掌に汗が滲んでいる。まつ毛に留まった靄の粒が視界の端を揺らし、吹き抜ける風に、息の拍子が乱れそうになる。
《《うふへへへ……そう言われると照れちゃうなぁ。さあ、ものは試しだ。やってみよう!》》
無邪気な笑い声が意識の芯で弾けた。こわばっていた口角がわずかに緩む。緊迫の中で、彼女の体温のない明るさが、冷えた背骨を一本支えてくれた。
「決めた。――白で制して青で刺す!」
迷いを吐き出す。
わたしは視覚を捨て、魔素の揺らぎだけを拾い上げた。他の雑音を静かに落とす。流れの中に走る異音の線――そこへ、意識の照準をそっと合わせる。




