氷風(ひょうふう)の街に灯る意志
雪混じりの風は、冷たいというより、肌を細かく裂くように刺さってくる。頭上を舞う雪が視界を白く柔らかく曇らせ、輪郭を溶かしていく。
それでも、二人は黙々と裏通りを進む。人気のない建物の並ぶ一帯は雪に封じられ、白い空気のなかをかすかな風音だけがかき分けていく。足音は雪に沈み、まるでこの町に二人以外は誰もいないかのようだ。
ヴィルは先頭を歩き、通りの先や建物の影、上階の窓へ順に視線を向ける。背中からは、見慣れた寡黙さと研ぎ澄まされた警戒が伝わった。彼の足取りは驚くほど音を立てず、影のように白い通りを渡っていく。
ミツルもできる限り音を殺すが、ときおり足が雪に取られ、ぎゅっと雪を踏む微かな響きが残る。
ここへ来る前、大通りで宰相家の私兵――灰色のマントの男たちがたむろしているのを見た。もし正面から抜ければ、不審者として声をかけられるのは必定だ。最悪の場合、追われてただの旅人ではないと知られる。だからこそ裏通りから予定の乗り継ぎ場所へ向かい、宿屋や酒場の裏手を覗いて支援の者を探すしかない。私兵の動きや町の様子も、その途中で確かめておく必要があった。
宿場町であるはずのこの場所は、いまは凍りついたように静まり、家々の扉は固く閉ざされている。灯りも活気もなく、吐息さえ凍らせる暗い寒さばかりが満ちていた。
胸の奥で不安がくすぶる。こんな状況で仲間と接触しなければならないのに、それすら容易ではない。全身にまとわりつく冷えが緊張を煽り、鼓動が速まっていく。
角をひとつ越えたところで、ヴィルが唐突に動きを止めた。ミツルも立ち止まった。そのとき、背後から粗野な笑い声が響き、胸がこわばる。
耳の奥で雪のざわめきが詰まり、舌裏がひやりと乾いた。
――ただの笑い声じゃない。嫌悪を煽る、下卑た嘲り。
足先から頭のてっぺんまで冷たい気配が駆け上がり、身体が震えた。
声のほうへ首を巡らせると、灰色のマントの男が三名、まだ幼い少女を壁際へ押しやっていた。
少女は薄汚れた粗末なマントに雪まみれのサンダル。暮らしの苦しさは一目でわかる。むき出しの素足が雪の上で細かく震えていた。その顔は寒さより、男たちへの恐怖に歪んでいる。
「おい、どこへ行く。薪運びを手伝えと言っただろうが」
「あ、あの……家の用事があって……そろそろ帰らないと……」
「家の用事だぁ? そんなもん、後にしろ」
「嫌なら詰所まで来てもらおうか。宰相閣下の命令に逆らう反逆者としてな。ククク……」
「い、いや……」
少女は何度も首を振り、家並みのほうへ戻ろうとした。男がその前に足を出す。逃げ道を塞がれた少女の肩が壁に当たり、粗末なマントが擦れた。拒んでも、離してもらえない。
その瞬間、腹の底がきしむ不快がこみ上げた。
男のひとりが少女の手首を掴み、腕を背へ捻り上げた。少女の膝が折れかけ、足先が雪を掻く。喉の奥で小さなえずきが跳ねた。
「いや、やめて……」
怯えきった瞳がはっきり見える。歪んだ瞼の縁には、声にならない悲鳴が滲んでいた。あどけない頬は真っ青で、痛々しいほどだ。
あまりの下劣さに、唇を噛む。
「……っ!」
息を呑んだ瞬間、ヴィルが素早くミツルの腕を掴む。目の端で彼の瞳が鋭く閃き、ヴィルは袖を引いて「動くな」と口の形だけで告げた。彼の視線が男たちから路地の出口へ走り、外套の陰で剣の柄へ指がかかった。
頭ではわかっている。ここで声を上げれば、すぐに仲間を呼ばれ包囲される。逃げ場を失えば、ヴィルまで巻き込む。だから理性は「いまは耐えろ」と訴える。
けれど、目の前の現実はあまりに酷い。
――あの子、あんなにも震えているじゃない。何も悪いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの?
雪の中、無慈悲な手に腕を捻られながら、少女は幼い肩をすぼめて声を殺す。ミツルの胸の内側が鈍く疼く。彼女の恐怖と痛みが、我が身へ滲み込んで、呼吸さえ苦しくなる。
吐息が細かく震え、冷えが胸へじわりと侵入する。思考は凍りつきそうなのに、見過ごせないという思いだけが内側で煮えたぎった。
――こんな理不尽、黙って見ていることなんてできない。
少女は身体を丸め、捻られた腕へもう片方の手を伸ばす。踵が雪を削っても、男の手は緩まなかった。何か言いかけても、怯えで声が出ないのだろう。
泣き声まで飲み込むのが見えると、頭が白く霞むほど胸が痛んだ。刃を自分の胸に突き立てられたような刺痛――。
そして、一瞬だけ前世の光景が閃く。
焦げの匂いに満ちた家、血の海に倒れる両親、膝をつく弓鶴の虚ろな瞳。あの日、世界は色を失った……。
ミツルが弓鶴として生きていた頃。上帳の要求を拒むと、血族に関わりのない茉凜まで、力で押し潰されかけた。
白く細い手首を締め上げる粗野な指から、目が離せない。
――いやだ……。
理不尽と暴力の記憶が心を抉る。理性と衝動がせめぎ合う。ヴィルの制止はわかる。それでも、怯えた瞳を見たら、もう逸らせなかった。
「こんなの許せない……許せるわけない」
自分でも驚くほど低い、震えを含んだ声が喉から零れる。冷えきっていた胸の内に熱が込み上げ、鼓動はむやみに速まった。
男が少女の腕を引き、壁際から連れ出そうとした。雪に踵を押しつけても止まれず、細い身体が引きずられていく。
暗い雲も、頬を斬る風も、もうどうでもよかった。思いが限界を越え、ヴィルの手を振り切って一歩を踏み出す。
「待て」
背後でヴィルの低い声。外套を引く力。肩口の布地が鳴り、身体が後ろへ引かれる。だが、その声も頭の奥で唸る熱にかき消される。理性は半ば溶け、苦しむ少女を見捨てないという思いだけが身体を動かす。
ミツルは身をよじって外套を引く手を振り切り、雪を踏んで裾を翻す。凍った地面で足が滑りかけるが、意志で体勢を戻し、男たちの前へ立ちはだかる。
かかとに力が集まり、指先の血が熱く戻るのを感じた。
「やめなさいっ!」
声は意外なほどよく響き、白い通りの空気を震わせた。男たちの注意が一気にミツルたちへ向く。
嘲る笑みが怪訝に揺れ、すぐ嘲笑へ戻る。
「なんだぁ、お前は? 見たところ町の人間じゃないな? 下手に首を突っ込むと痛い目を見るぞ」
「俺たちは宰相閣下の命令で、警戒任務にあたっている。不穏な動きを見せる奴は、すべて引っ捕らえろってな」
獲物を弄ぶ猛獣の目。屋根から舞う粉雪は冷たいのに、その視線は皮膚の下をざらつかせる。
――やっぱり、思ったとおりだった。
ここは北方と王都を結ぶ要衝。女王派の動きを監視し、阻止するための駐留なのだろう。
男のくすくす笑いが、血管を逆撫でる。
視線の端で、少女は腰を抜かしかけている。自分が出たことで助かるならそれでいい。だが、男たちはミツルまで、命令に逆らう者として連れていくつもりらしい。
「あなたたち、ひどいじゃない……。こんな子どもを相手に何をしようっていうの? 宰相家に仕える兵であるならば、その紋章に恥じない行動をとるべきではないの?」
できる限り平静に言うが、怒りは端々に滲む。男のひとりが少女の腕を放り、こちらへ歩む。にやけた笑み、尊大な声。
「はぁ? 俺たちは契約書の通りに働いてるだけだぜ? 手伝えって言ったら、こいつが逃げやがった」
「邪魔をするなら、お前も詰所へ来い。ほら、フードを外して顔を見せろ」
「俺たちゃ十人いるんだぜ。今さら逃げられると思うなよ」
手首を抱えた少女が壁際へ身を縮める。男たちはこちらへ向き直り、左右からも距離を詰めてきた。拒めば、力ずくで連れていく。怒りが焼けつくが、奥歯で堪える。
飛びかかれば、左右から迫る男たちに隙を見せることになる。視線を逸らさず、右手を外套の下へ。そこには白い刃無き剣マウザーグレイル。
だが、ここで剣を晒すわけにはいかない。聖剣を知る者がいれば、正体は露見する。
ならば頼れる手はひとつ。
――このメービスの身体で、精霊魔術を使うしかない。
限定事象干渉領域――〈場裏〉を展開し、解除できることは確認している。ただし、この身体で実戦に使うのは初めてだ。これまでの経験から、実用に足ると判断できるだけの精霊子量を、この身体で集められるのか。メービスの大脳辺縁系がそれに耐えられるのか。どちらも確かめられないままの、まさにぶっつけ本番。だが、躊躇っている場合ではない。
――できる。いや、できないはずがない。デルワーズの血を継ぐ、精霊の巫女であるならば。
目をすがめ、胸の奥で眠る感覚を呼び起こす。
「……我が器へ集え、精霊子よ」
囁くと、呼吸の奥、風の流れ、雪の隙間に、目に見えない微かな力が集まってくる気配が立った。男たちはミツルの囁きに反応し、神経質に目を凝らす。
「おい、なんだ……?」
「こいつ、ただの女じゃねえな。何か隠し持ってやがるのか?」
外套の裾をさりげなく広げ、意識を一点へ。精霊子を凝縮するイメージを立てると、喉の奥で小さな熱がふつふつと湧く。
息を一瞬だけ止める。胸郭の内壁に、白い圧が張りつく。
「〈場裏・白〉……展開……!」
ミツルの前方、男たちの膝ほどの高さに、淡い白の球状領域がふくらむ。内部の空気を圧縮し、閉じ込める。解き放つ風が壁際の少女へ向かわないよう、噴き出す方向を男たちの足元へ絞る。そこまで意識を絞ると、ほかのことが頭から抜け落ちた。
男たちは目を剥き、何か言いかけるが遅い。ミツルは腰を沈め、右手でその球状の領域に意志を突き込む――
「エア・バーストだ……お前ら、ぶっとべ!」
耳をつんざく衝撃音。領域の一部を解放した瞬間、激しい風圧が男たちの足を雪ごと払った。
低く重い振動が路地を走り、雪が高く舞う。白い雪煙に視界が埋まり、ミツルですら一瞬立ち尽くすほどの圧だ。
「ぎゃあっ!?」
「うが……っ!?」
悲鳴とともに、男たちの足が雪面を離れた。膝や尻をついて転がる先に、別の〈場裏・白〉を展開する。その内側に生んだ空気の流れで男たちを受け止め、石壁へ届く前に勢いを殺す。除雪で寄せられた雪が潰れ、灰色のマントを覆った。
――三人程度、造作もない。
だが、どれほど下劣な相手だろうと、殺すわけにはいかない。それがミツルの信条だ。
「て、てめぇ……魔術師だったのか」
這い上がる男がナイフを握り直す。
ミツルは足元と背後に新たな〈場裏・白〉を展開し、圧縮大気を解放。風の力で雪面から身を浮かせ、男へ向かって跳ぶ。爆発的な加速に視界がわずかに撓む。
「なっ!?」
男は目を丸くし、振り上げた刃は空を切る。
懐へ滑り込み、右手を掌底に構える。掌の先に小さな〈場裏・白〉を展開し、そこから放つ風圧を重ねて、ナイフを握る手首へ叩き込む。
「ぬあっ!?」
男の指が開き、ナイフが雪へ落ちた。
その足元から背後にかけて、別の〈場裏・白〉を展開する。内側に生んだ風で踏ん張ろうとした脚を横から払う。バランスを崩して頭から落ちる男の身体を、さらに別の〈場裏・白〉が地面の手前で受け止める。男は静かに雪に沈み、うめきながら腕を抱え込んだ。
数秒と経たず、醜悪な男たちは三人とも雪の上に倒れ、すぐには立ち上がれそうになかった。
地を埋め尽くすような魔獣の群れとも戦ってきたミツルにとって、この程度は重荷ではない。〈場裏〉の展開規模も出力も必要最小限に抑えた。借り物のメービスの身体であっても、強い負担は感じられない。
それでも血が滾ったせいか、胸の奥で熱い疼きが残る。
息を整えるより早く、少女のほうへ視線を走らせる。
「ひっ……!」
壁際にうずくまっていた彼女は小さな悲鳴をあげ、ミツルを見て後ずさる。恐怖そのものの瞳。助けたはずの自分まで得体の知れないものに見えるのだろうか。
「だ、大丈夫……? いまのうちに、逃げてちょうだい」
乱れる息を抑え、なるべく柔らかく声をかける。
少女の頬は雪と涙で濡れている。けれど言葉を聞くと、彼女は小さく頷き、よろめきながらも一目散に走り去った。
ミツルの指先にはまだ熱が残り、視界の縁がきしむ。細い背が角の向こうに消えるまで見送り、ほっと息を吐く。同時に眼窩の奥が鈍く疼き、張り詰めていた緊張を自覚する。
「まったく……無茶はするなと、あれほど言ったのに」
背後から呆れ混じりの声。ぎくりと振り返れば、フードを深くかぶったヴィルが鋭い眼差しを寄こしていた。苛立ちの奥に、心配の色。彼の身体は路地の入口へ半ば向けられ、片手は剣の柄にかかっていた。ミツルが見ていなかった通りの先へ、鋭い視線が戻る。
「ヴィル。だって……」
言い訳を探すほどに、胸に熱が込み上がり、声がつまる。謝りたいのに言葉が出ない。ヴィルは戸惑うミツルの腕を鷲づかみにして引き寄せた。
体勢を崩し、彼の胸へ倒れこむ。革の匂いが鼻をかすめ、近さに鼓動が跳ねる。
「話は後だ。早くここを離れるぞ」
落ち着いた低音のほうが、責められるより痛い。罪悪感が胸に広がり、外套を握る指が小さく震える。
強引に腕を引かれ、彼に寄り添うように歩き出す。雪煙が舞い、膝を刺すような風が吹く。そんな中でも、彼の体温だけは頼もしく、芯に熱を灯す。
「……ごめんなさい。わたし、どうしても黙って見ていられなかったの」
消え入りそうな声。ヴィルは長く息を吐き、視線を落とす。その横顔に、いっそう胸が締めつけられた。
「お前の気持ちは、わかってる。だが、これで奴らに気づかれる可能性が格段に上がったのは確かだ。合計で十人と言っていたが、援軍を呼び寄せられたらまずいことになる。今はとにかく身を隠すんだ」
自分のせいで彼にも危険が及ぶ――それがいちばん堪える。なぜ自制できなかったのか。止められたはずなのに。悔いは増すばかりだ。
一方でヴィルは声を荒げず、前を向く。「ここからどう切り抜けるか」だけを優先しているように見える。
腕を引かれたまま、ミツルは後方へ視線を滑らせる。
倒れた連中はまだ動かないが、援軍がいつ来てもおかしくない。あの衝撃音は、この静かな宿場町では際立っただろう。
その焦燥をなぞるように、路地の隙間が鳴って、冷気が刃のように走る。
角を曲がったヴィルが一度立ち止まり、遠くの怒声に耳を澄ます。ミツルも息を詰めた。複数の足音が雪を叩き、近づいてくる。やはり察知された。
遠い金具が触れ合う音が増え、雪面のリズムが群れに変わる。




