小さな盾の圧力
ヴィルは盾を軽く揺らし、足元に崩れ落ちた大男を無感動に見下ろしていた。
呼吸ひとつ乱れていない。
視線は途切れず、部屋の奥に控える槍の女へ移る。肩も指も緩まず、背筋の芯だけが鋼のようにほどけない。
一方、槍の女はじっと彼を見返していた。
相棒が瞬きする間に沈められたというのに、彼女に動揺の色はない。むしろ頬がかすかに動き、唇に薄い笑みさえ浮かんでいる。
姿勢に隙はなく、切っ先は正確にヴィルの喉元を狙っていた。
その笑みは、手並みを認めた余裕とも、骨のある獲物を見つけた狩人の歓喜とも取れた。
「驚いたわ。まさか『岩山』と呼ばれるグレッグの旦那を、たった一撃で沈めるなんてね」
ヴィルは口角だけを上げて答えた。
「岩山だか何だか知らんが、頭を揺らせばこの通りだ。斬る、貫く、潰すだけが能じゃないんでな」
「へぇ……。ただのゴロツキかと思ったけど、どうやら思い違ったみたいね」
女の瞳がすっと細まり、値踏みするような光が宿る。
「あんた、相当場数を踏んでるね?」
「それなりに、長く生きている分にはな」
「けど、あたしを甘く見ないことね。あんな鈍亀と一緒にされちゃ困る」
長い柄を握る手に力がこもり、槍がきちりと構え直される。
靴底が石床を、きゅ、と短く擦った。重心が低く落ちる。穂先は喉元に残したまま、石突きの側だけがわずかに壁から離れた。
逃げるためではない。
引く余地を、先に作ったのだ。
「一つだけ聞いておくけど、お連れのお嬢ちゃんは、あんたの娘かい?」
「そんなわけがあるか。ミツルは旅の仲間であり、魔獣狩りの相棒だ」
「そうかい。じゃあ手加減はいらないね」
それは、わたしを狙うという意味ではなかった。
ヴィルの視線がこちらへ逃げるかどうか、その一点を測っている声だった。
槍の長さに裏付けられた自信が、その目に揺るぎなく宿っている。
わたしは部屋の幅を一瞬で測ってしまう。
部屋は狭い。けれど、この距離だけなら、まだ槍のほうが優位だ。
ヴィルの小さな盾が届くより外側から、喉も胸も狙える。しかも女は、大男の倒れた位置と卓の脚まで、もう視界に入れていた。
ヴィルは盾を指先で直し、角度を少し変えた。
「悪いが、こっちも甘い相手には慣れていないんでな。すまんが、手加減などできん」
その言葉に、女は眉を動かし、にやりと笑った。
「言ってくれるじゃないか。――行くよ!」
女が一気に動き出す。
風音が鋭く走り、銀色の閃光がヴィルの眉間を射抜くように迫る。
速い。
迷いのない一撃は、視界から消えるほど鋭く、美しい軌道を描いた。けれど、突き出した腕も、引き戻す肩も、決して伸び切らない。外されることまで織り込んだ突きだった。
ヴィルは盾を滑らせた。
金属音が高く弾け、闇の中で火花が散る。
盾の縁で穂先を弾き、軌道を耳の横へ逸らした。空気が裂ける音が鼓膜を叩き、わたしの息がひとつ遅れる。
だが、女は崩れなかった。
穂先が逸れた瞬間には、もう柄を引いている。引きながら、石突きが横へ払われた。ヴィルの踏み込みを止めるための、低い牽制。
ヴィルは膝を沈め、盾の面で石突きを外へ流す。
足が半歩、止まった。
「ほう、なかなかに鋭い突きだ」
短い賞賛。
けれど眼差しは冷えたまま、相手の次なる動きを追い続けていた。
「ちいっ!」
女は舌打ちし、体をひねる。
突き損じた槍を引き戻す動作さえ攻撃に転じ、石突きで横を払う。ヴィルが屈んで避けると、再び穂先が針雨のように繰り出された。
しなやかな連撃が途切れなく突き出される。
喉、心臓、膝の内側。狙いが細かく変わるたび、槍の影が部屋の灯を裂いた。
槍がうねるたび、空気が唸り、金属音が絶えず部屋に響き渡る。
だが、女はただ突いているわけではなかった。
穂先を外されれば引く。引きながら柄を滑らせる。長く使ったかと思えば、次の拍では中ほどを握り、短く払う。床に倒れた大男の脚を境に、ヴィルの足が入れる線を削っていく。
ヴィルの盾はいなす。
受け止めるのではない。傾きで衝撃を流し、穂先を外へ滑らせる。
けれど、そのたび女も半歩下がる。流された線を無理に戻さず、石突きと柄で入口を塞ぐ。小さな盾の届く距離へ、簡単には入らせない。
盾の面がじりじり前へ食い込み、女の靴底が石を擦る。
それでも、彼女は崩れてはいなかった。
下がりながら、まだ距離を作っている。
わたしは息を詰め、肩が上がりそうになるのを押さえた。
どう見ても槍の長さが優位だ。ヴィルの剣は鞘に納まったまま。あの小さな盾ひとつで、針雨のような連撃を凌いでいるに過ぎない。
踏み込む隙はないように見える。
「だめだ、あれじゃ届くわけがない。リーチが違いすぎるんだ……」
連続する金属音が耳に残り、みぞおちがきつく締まる。
盾と槍の振動が床を伝い、喉の奥が乾いていく。
《《いんや、そうでもない。美鶴、よく見てみて?》》
不意に、茉凜の声が心に響いた。
《《足元だよ。ヴィルじゃなくて、あの女の人の足元》》
わたしは言われるまま、火花散る攻防の下、二人の足さばきに目を凝らした。
女の踵が、じわりと下がっている。
下がってはいる。けれど、ただ押されているのではない。倒れた大男の肩、卓の脚、壁際の薄い影。その間へ、狭く、狭く、退路を残しながら下がっている。
ヴィルはその退路を踏ませない。
盾で穂先を逸らすたび、足を一つ置く。大男の腕を跨がず、脛の外をなぞる。卓の脚に自分の外套を引っかけない角度で、女が逃げたい場所へ、先に圧を置く。
「まさか……ヴィルが押している?」
信じられなかった。
槍の猛攻が続いているのに、攻めているはずの女が、少しずつ部屋の角へ寄せられている。
「どうして? 彼はただ突きを捌いているだけなのに……」
理解が追いつかず、ただ凝視する。
だがヴィルは半歩、さらに半歩と間合いを詰めていた。
受け、逸らし、足を詰める。
小さな盾が槍の線を外へ払い、女の踵を追い詰める。踏み直すたび、石が短く鳴り、間合いが詰まっていくのが見えた。
ヴィルが見ているのは速さではなかった。穂先が当たったあと、どれだけ相手の骨格を押し崩せるか。その重さだった。
氷のような声が落ちる。
「軽いな……軽すぎる」
その言葉が落ちた瞬間、女の穂先がほんの一瞬だけ鈍る。
「なんだって!?」
反射的に言い返す声。
槍を握る指がかすかに痙攣していた。攻撃の手は休まないが、その表情には焦りの色が滲み始めている。
「たしかにお前の槍は速くてしなやかだ。連撃も鋭い。相手に付け入る隙を与えない。――だが」
ヴィルは盾で穂先を叩き落とし、さらに半歩踏み込んだ。
「それも人相手に限れば、の話だ。これでは決して魔獣相手には通用せん。一突き一突きに、重さが無い」
「それがなんだってんだい!?」
「この俺をぶっ飛ばすくらいの殺意と圧が無ければ、皮一枚すら貫けんということだ」
冷徹な指摘が、女の自信に亀裂を走らせる。
プロとしての矜持を傷つけられたのか、女の眉間に深いしわが刻まれ、瞳に怒りが燃えた。
「ちくしょう。あたしはね、この槍一本でここまでのし上がってきたんだ。魔獣が相手だって引けを取ったことはない……馬鹿にすんじゃないよ……!」
女は槍を握り直し、肩が震えた。
呼吸が荒くなる。
けれど、怒りのまま突っ込んではこなかった。
その怒りを、奥歯で噛み殺すように、槍を半ばまで引く。長く伸ばしていた手を縮め、柄の中ほどを握った。
長さを捨てたのではない。
狭い部屋に合わせたのだ。
「その生意気な口、ふさいでやる!」
踏み込みと同時に、全身のバネを使った突き。
先ほどまでの長い針ではない。短く、速く、連続して刺し込むための突きだった。石突きはもう大きく払わず、足元へ低く置いたまま、ヴィルの踏み込みを殺している。
これまでで最も速い。
そして、最も実戦的だった。
だがヴィルは、それを待っていたかのように静かに盾を構え、軌道を外側へ逸らした。
また金属が鳴る。
今度は耳ではなく、歯の奥に響くような音だった。
女はすぐに柄を戻す。戻そうとした。
けれど、その瞬間、支点が一つ増えた。
倒れた大男の腕が、彼女の退路にあった。卓の脚が左足の外を塞いでいる。壁際の影は、もうただの影ではなかった。そこにはヴィルが置いた圧がある。
女の靴底が、石の上でほんのわずかに迷った。
「だから言った。決定的に重さが足らん、と。それが敗因だ」
目が一瞬、雷光のように鋭く光る。
女は気力を振り絞り、槍を引き戻して次の動作へ移ろうとする。だが、体が言うことを聞かない。
重心が完全に崩されたのではない。
崩される場所へ、先に追い込まれていたのだ。
槍の柄を握る手が震え、ついに最後の突きが放たれる。
その刹那。
音が消える。
槍先が伸びきり、止まりきらないその刹那、ヴィルは動いた。
盾の縁で槍の柄を強打し、跳ね上がった隙へ最短で飛び込む。
盾を構えたままの掌底打ち――いや、盾そのものを叩き込む一撃だった。
鈍い音が、胸の奥まで響いた。
その一撃が、女の肩の付け根を正確に捉えていた。予備動作のない、体重を乗せた衝撃。
「ぐあっ……!」
苦しげな声。
女は体勢を失い、後ろへ崩れた。受け身を取ろうとした腕が遅れ、肩から床へ落ちる。槍が手元から離れ、カランと乾いた音を立てて遠くへ滑った。
女は肩を抱え、脂汗を浮かべて息を詰まらせていた。
骨が砕ける音こそしなかったが、今の衝撃で腕の神経が痺れ、戦う力は残っていないだろう。
前に立つヴィルは微動だにしない。
盾を構え直すことすらせず、ただ冷ややかに見下ろしている。
「ここまでだ。……いい槍だった」
低い声は乾いていた。
それでもどこか、同業者へ最後に渡すだけの、距離のある敬意が混じる。
ヴィルは盾を手首で返し、縁を掌に沿わせたまま、完全に終わりを告げるように構えを解いた。
女は唇をきつく噛み、悔しげに睨み返す。
怒りと未練は残るが、体はもう動かない。彼女の視界には、揺るがぬヴィルの姿が、越えられない壁のように焼きついているのだろう。
わたしは茉凜と同時に息を飲んだ。
《《うーん。つ、つよい……。ほんとにあんな盾だけで勝っちゃった》》
彼女の感嘆の声が胸に響き、わたしは小さく頷いた。
「……父さまと並び立った人」
それだけが、息の底からこぼれた。
背中を預けるこの男が、どれほど遥かな場所に立っているのか。その一端を垣間見て、指の関節が白くなるまで掌を握り込むしかできなかった。




