嘲笑う盾の一撃
認識票の縁が、汗ばんだ指腹に吸いついている。灯の下に差し出したままの木製のプレートは、男の視線に晒され、冷たさだけを増していった。
男の瞳がきゅっと細まり、その凍てつく視線がわたしを貫く。背後の壁が近づく錯覚に、肩甲骨のあたりが硬くなる。
窓もない閉ざされた部屋。油染みと埃の匂いが澱み、誰かの吐いた煙草の残り香が、鼻の奥に重たく居座っている。
長い沈黙のあと、男の低い声が部屋を割った。
「黒髪のグロンダイル、か……噂くらいは耳にしたことがある。なるほど、確かにその闇を溶かしたような色は珍しい。北からの風聞じゃあ、山一つ分の魔獣を一晩で消し炭に変えたそうだが……」
男は鼻を鳴らし、侮蔑の色を隠そうともしない。
「どうにも疑わしい。こんなひ弱そうなガキが、か?」
その冷酷な響きに、眉がふっと動く。隣のヴィルは青い瞳で男を見据え、こちらの息の乱れまで測っているみたいだった。
「噂に尾ひれはつきものだけど、わたしが当人であることは事実よ」
努めて平静を装うが、声の端がかすかに張る。わたしは椅子の座面を指先で強く押し、木の硬さで自分を支えた。
男の口元に不敵な笑みが浮かぶ。深く椅子にもたれかかると、煙草の残り香がいっそう低く垂れた気がした。
ランプの芯がぱちりと爆ぜ、滞った匂いに小さな亀裂が入る。
「噂通りだというなら、この魔石に見合う取引をしてやっても構わん。……だがその前に、その実力とやらを証明してもらいたいものだな」
証明――その響きは、もはや商談のそれではない。胃の腑で、警鐘がひとつ、硬い音を立てた。
男が黒マントを翻し、卓上の小ぶりな銀のベルを鳴らす。チリン、と冴えた高音が壁に吸われ、床に薄い余韻だけが残った。
直後、重い足音が近づいてくる。
鉄靴が石床を踏みつける鈍い音と、金属が擦れ合う鋭い音。そのたびに湿った空気が押し返され、皮膚が粟立つ。
扉が乱暴に開かれた。
現れたのは、小山のような体格の男だ。天井に届きそうな巨躯に、太い鎖で巨大な鉄塊を担いでいる。その質量だけで、部屋が狭くなったように感じた。
続いて、音もなく長身の女が滑り込んでくる。手には身の丈ほどの槍。まぶたひとつ動かさぬ目が、爬虫類のようにひやりと光った。
「この二人は、俺の護衛を務めている腕利きの傭兵だ」
男は楽しげに、けれど容赦なく告げる。
「こいつらを黙らせることができたなら、お前がただの娘っ子じゃないと認めてやろう」
言葉が喉の手前で詰まる。唇の端が引きつりそうになるのを、奥歯を噛んで堪えた。
「できなければ?」
わたしが問うと、男の口元が三日月のようにねじれた。残酷な瞳が、逃げ道を塞ぐようにこちらへ据わる。
「ここで葬られるまでのことだ。魔石は俺のもの、死人に口なし。簡単な理屈だろう?」
ランプの火が揺らぎ、二人の傭兵の影が長く伸びてわたしを覆う。
背筋にぞくりと寒気が走る。震えは指先から来る――そう気づいた瞬間、拳を握り込んで芯を作った。
「正式な国家認証を受けたハンターギルドの認識票まで提示しているのに、信じてもらえないだなんて。困ったものね……」
呆れたように言いながら、腹の底には冷たい不安が渦巻いている。
男の視線は、いっさいの情を排したままだ。
「残念だがな、俺はそんな札きれなど信用しない。この目で見た力と結果だけが真実だ」
息を細く吐き出し、内心で茉凜の気配を探る。意識を澄ませると、彼女の声が脳裏に響いた。
《《おおっ、きたきた! いよいよ出番かな? この人たち、いかにも強そうだけど、美鶴なら絶対負けないよ。なんたって、わたしの『予知視』があるもんね!》》
その場違いなほどの明るさが、今は逆に頼もしい。わたしは浅く息を吸い、短く答える。
「頼むわよ、茉凜」
わたしが椅子から立ち上がろうと腰を浮かせた、その時だった。
隣で、ヴィルが先に立った。
音もなく、張りつめたものだけがわずかにずれる。わたしを見下ろして、穏やかな、けれど底知れない微笑みを浮かべる。
「ミツル、ここは俺に任せろ」
「……ヴィル?」
驚いたわたしに、彼は雨に叩かれても崩れない岩のような落ち着きで応える。息が揃う一拍の「間」。心臓がひとつ、硬く鳴った。
一瞥ののち、ヴィルは視線を敵へ向け直す。室内の気配がきゅっと締まり、灯の芯が明滅して、光の輪が細る。
「こんな場末の用心棒ごとき、俺一人で充分だ」
その声は冷ややかに、滞った匂いの層へ落ちた。口を噤むべきか迷ったのに、わたしは反射で反論してしまう。口の中に鉄の味がにじむ。
「……だめよ、ヴィル。あなたの強さはわかってる。けど、いくらなんでも相手は二人なのよ?」
立ちかけたわたしを、彼はすぐに首を振って制した。その仕草に迷いはない。背筋には静かな緊張と覚悟が満ちている。
床下の湿り気が靴裏に吸い付き、足が半歩、戻される。
「いいから、お前は魔石を守っていろ。なにせ大事な稼ぎの元なんだからな」
視線がちらりとわたしのポーチをかすめる。布越しに硬い縁が主張して、息が浅くなる。
「わたしだって戦えるわ。子供だの娘っ子だのと馬鹿にされて、今さら引くわけにはいかない」
言い切った直後、返事のない間が伸びる。灯芯の燃えるかすかな擦れが、やけに近く聞こえた。
ヴィルは一瞬目を細め、強がりを見透かしたように苦笑する。その笑いには温かさと、容赦のない冷静さが同居していた。
「無理をする必要はない。だいたい、お前に人は殴れんだろう?」
息を呑む。言葉がほどけて崩れ、唇の内側を噛む。否定したくてもできない――彼は、ずっとわたしを見ていた。
「お前は優しいからな。いや、優しすぎるのかもしれん。だが、それでいいんだ――」
真剣な表情で、視線が揺らがない。灯が瞬き、眼差しの温度だけがわたしを留める。
わたしは目を逸らすしかなかった。
——違うよ。優しくなんかない。
ただ『弱』いだけ。あなたみたいに覚悟を持てないだけ。
「それに、ここでお前があの魔術を使ったら騒ぎが大きくなるだけだぞ? 建物ごと吹き飛ばす気か?」
「そんなことない。避けたり防御するくらいなら、わたしだって……!」
どうにか抗おうとするわたしを、彼はすぐに遮る。掌が上がり、言葉の続きを止めた。
「その必要はない。この程度の相手、一人で何とでもなる。お前、俺を誰だと思っているんだ?」
――閃光のユベル・グロンダイルと並び立つ唯一人の男。雷光のヴィル・ブルフォード……。
揺るぎない声が、腹の底へ沈む。悔しさと無力感が絡まり、まぶたの裏が熱を持つ。舌の裏に苦い唾が集まり、視界がわずかににじんだ。
「わかったわ……あなたを信じる」
しぶしぶ頷くしかなかった。肩の力が抜けるのに、悔しさが指先でじっと疼く。
「お前の憤りはもっともだ。この俺が、代わりにしっかりと礼儀というものを叩き込んでやる。なぁに、心配するな」
ヴィルは一瞬だけ息を吐き、再び敵に目を据えた。背中が一歩もぶれない。それだけで、足の裏が少し落ち着く。
そこに寄りかかれば倒れない――そう思ってしまう自分が、いちばん悔しい。
「さて、始めようじゃないか」
戦槌を握る大男が一歩踏み出す。床がどしんと震え、鉄塊が湿った空気を裂く。陽焼けした腕には無数の古い傷。岩のような顔、鋭い光を宿した目。
「……ずいぶんと威勢がいいじゃねえか、おっさんよ。言っとくが俺の得物を喰らったら、無事じゃすまねぇぞ」
大男はヴィルをじっと睨み、戦槌を担ぎ上げる。鉄塊が振り上がるたび、錆びの金気が鼻を掠めた。
一方、槍を構えた女は身を低く沈め、蛇のように間合いを測っている。髪が微かに滑り、瞳は無表情なまま穂先に光を映していた。
女の唇が薄く持ち上がる。笑みの形なのに、声だけは冷えていた。
「このおじさん、よく見るといい男じゃない。ふふ、早く苦悶に歪む顔が見てみたいわ」
呟きが闇に溶け、緊張が張り詰めていく。槍の先がわずかに煌めいた。
二人の殺気がぶつかり合い、部屋の音が引くように鎮まる。
ヴィルはそのすべてを受け止め、まっすぐ前に進み出る。背筋は揺るがない。
わたしは一歩退き、浅い息を整えて見守る。焦りが渦巻くが、手を握りしめて堪える。
心の中で茉凜の声がやわらかく響いた。
《《美鶴、ここはヴィルを信じてみよう。彼ほどの人がああ言うんだから、きっとやってくれるよ。なんせ雷光だもん》》
その言葉で、肩の力がほんのわずか抜けて、わたしは唇だけ動かすように呟く。
「……そうね、仲間を信じなくてどうする、って話よね」
彼の勝利を信じ、今はただ待つしかない自分がもどかしい。それでも――背中がここにあることだけは、痛いほど信じられる気がした。
「ところでおっさんよ。あんた丸腰でやり合おうってのかい? さっさと剣を抜け」
戦槌を握る大男がふと声を上げる。その言葉で、わたしも改めて気づいた。ヴィルは剣を抜いていない。なぜ剣も抜かぬまま、ここに立つのか――疑念が浮かぶ。
「おう、そういえばそうだったな。いやぁ、悪かった。さすがに丸腰ではそちらに失礼というものだ。それじゃあ、まあ――」
ヴィルは背負った荷から、鍋蓋のような小さな盾を手に取る。そのまま内側の握りを掴んで、二人に向けて見せつけた。
「――俺の得物はこれだ」
「はぁ? 何かと思えば鍋みたいなもん持ち出しやがって。お前、俺を馬鹿にしているのか?」
「あらあら。そんなおもちゃで、あたしたちとやろうっていうの?」
傭兵二人は、小さな申し訳程度の盾を見て鼻で笑った。
「あのな……おまえらの無知さ加減には呆れ果てたぞ。バックラー(小盾)も知らんのか?」
「知るかよ、そんな鍋蓋。俺の一撃を受け止められるとでも思ってんのか? 笑わせるな」
「はぁ……」
ヴィルは肩をすくめて、わざとらしく深いため息をつく。その余裕が、相手の苛立ちへ火種を落とす。
「なぜ俺がこの盾を選択したか、その利点も使い道も理解できんとはな。これだから、図体ばかりでかい素人は困る」
大男が眉をひそめ、不快そうに顔をしかめる。
「なんだと……!」
「聞こえんか? 場数が足りてないと言ったんだ。まったくもって、これだから攻め一辺倒の馬鹿は与し易い」
大男の腕の筋が浮き、戦槌の柄がきしむ。女の槍先だけは微動だにしない。その静止が、怖い。
殺気が再び絡み合い、灯の輪が机の角で途切れた。
ヴィルは軽く笑い、言い放つ。
「意味がわからんか、この木偶の坊。もっとも、こっちとしちゃあ都合がいいがな。相手が侮って、顔を真っ赤にして大振りしてくれりゃあ――『後の先』が取りやすくなるというものだ。……おおっと、口が滑った」
その言葉に大男の顔がみるみる赤く染まり、怒りが沸騰したようだった。
「貴様……ッ! そのふざけた面、ぶち砕いてやる!」
戦槌の大男が咆哮し、全力で武器を振り下ろす。床が唸り、衝撃の風圧が頬を叩いた。
その瞬間、ヴィルは足を半歩だけ滑らせる。盾は正面ではなく、斜めに合わせた。受け止めるのではない。勢いの通り道を、わずかにずらす。
カン、と甲高い音が弾ける。衝撃は腕へ突き上げるのに、ヴィルの肩は動かない。
勢いが上へ抜けた刹那、ヴィルが踏み込む。距離が縮むのは一瞬だった。
次の瞬間には、小さな盾が大男の顔面を正確に捉えていた。
派手には動かない。懐へ吸い込まれるように入り、体の芯で止めた勢いを、掌の円面へ一点で叩き込む。
顎が跳ねる。噛み合うはずの歯の音が、途中で途切れる。
巨漢の目が白く剥け、身体が一瞬だけ固まった。息の漏れる音さえ止まる。次の拍で膝が折れ、重さだけが落ちた。
戦槌は床に転がり、重い体がどさりと沈む。遅れて床の震えが踵へ届き、わたしは息をするのを思い出した。
卓の向こうで、元締めの男の指が止まった。笑みの端がふっと消え、喉仏がわずかに上下する。
槍の女が爪先をずらし、石床がかすかに擦れる。穂先が、ほんの少し角度を変えた。
間。ヴィルは息を整え、盾を下ろす。
「ふぅ……一丁上がり、と」
大男を見下ろし、淡い笑みが浮かぶ。勝ち誇りじゃない。手順が終わっただけの顔だ。
「言っただろう? ――力任せに殴るしか能のない攻め一辺倒は助かる、とな。自惚れと苛立ちで視界を狭めてくれれば、こちらの狙いどおり馬鹿正直に動いてくれる——」
ヴィルは鼻を鳴らした。
「——あとは楽な仕事だ」
掌に収まる盾。その縁に残っていた微かな震えが、ほどけていく。
ヴィルは盾を構え直し、残る一人へ視線を滑らせる。足元の巨躯には触れない。呼吸も、変えない。
槍の女はまばたきもせず、穂先を床すれすれに落としてから、またほんの少し起こした。金属が布に触れ、細い擦過音がひとつ落ちる。
それでもヴィルの背中は動かず、部屋の影だけがゆっくり沈んでいった。




