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双星の翡翠姫

 倉庫街に足を踏み入れた瞬間、空気が一段、沈んだ。湿りを含んだ冷気が皮膚にまとわりつき、腐った魚と古い油の匂いが鼻腔に貼りつく。どこかで水が滴り、その音が闇の中で遅れて返ってきた。


 わたしたちは一歩ずつ、靴音を殺して進んだ。石畳は濡れて黒く光り、踏むたび薄い水が跳ねる。吐く息が細り、舌の裏が渇いていく。


 雑踏の中、不意に甲高い声が割れた。


「おい、そいつぁどこで仕入れた? 言えよ、ああ?」


 言い争う熱が、湿った闇に絡みつく。わたしは外套の襟を立て、肩をすくめるようにして目だけを滑らせた。


 別の場所から、かすれた笑い声。


「出所はご想像にお任せするぜ。ヒヒッ! ここで聞くのは野暮ってもんだろ?」


 下卑た笑いと物音が混じり、暗がりに反響する。板箱を引きずる音が擦れ、背筋がこわばった。わたしは周囲を警戒しながら歩を進める。


 角に潜む人影。微動だにせず、こちらへ向けられる無数の目。皮膚の表面がざわつき、思わずヴィルへ目をやった。


 言葉より先に、彼の肩がわたしの視界の端を塞ぐ。


 半歩だけ前にいる、それだけで。彼は「問題ない」と言う代わりに、ただ軽く顎を引いた。警戒は解けていない。肩越しに伝わる張りが、わたしの息まで細らせる。


 やがて市場の芯に近づく。乱雑に組まれた木箱の上に、怪しく光る魔石、異国風の彫りの短剣、赤黒い染みの残る古びた巻物が積まれていた。売り手の声は低く、値踏みと駆け引きの気配が漂う。甘い金属臭が鼻先で膨らんだ。


 わたしはポーチを握り、ある露店の前で立ち止まる。


 膝丈の薄汚れたコートを着た、肥えた男。欠けた金歯が薄く光り、細めた目がこちらの全身をねっとりと舐め回す。笑っているのに、目は爬虫類のように冷たい。


「おいおい、お嬢ちゃん。ここはガキの遊び場じゃねえぞ。怪我しねぇうちに、とっととママの元へ帰りな」


 男の口元に薄い嘲りが浮かぶ。息に混じる強い酒の匂いが、距離よりも近く感じられた。


 ――子供扱いして……。


 奥歯がきしみ、言葉が一度引っかかった。噛み返しが舌の先まで出かかった、その前にヴィルが一歩前へ出て、低く睨みを落とした。


「あいにくだが、冷やかしじゃない。商談だ。それも“魔石”のな」


 短い間。


 周囲のざわめきが一瞬やみ、遠くで木箱の軋む音が響いた。空気の重みがわずかに動いて、こちらへ寄ってくる気配がある。


 男は一度たじろぎ、すぐに薄笑いで肩をすくめた。


「ほう、そうかい。見たところ、冒険者崩れといったところだな。あんた、その嬢ちゃんの親父さんかい?」


 ――父親……か。


 他人の目からすれば、十二歳のわたしと四十半ばと思われる彼が並んで歩いていれば、そう見えて当然だ。妙な居心地の悪さに、わたしは目を足元へ落とした。


 ヴィルは眉ひとつ動かさずに言い捨てた。


「見くびるなよ。こいつは俺の相棒だ。外見で判断すると、痛い目を見るぞ」


「へーっ……。あんたは見るからに強そうだ。だがな、こっちのお嬢ちゃんがかい?」


 唇の端を歪め、鼻で息を鳴らす。目線が、わたしの手元へ這ってきた。


「……まぁ、好きにしな。ただし、ここは生き馬の目を抜く連中ばかりでな。油断は禁物だぜ」


 親切の顔をした忠告の底が、冷たい。ヴィルは短く返した。


「承知している。あんたの目を見ればな」


 その安定した声が、逆にこの場の危うさを際立たせる。わたしは唇を湿らせ、ポーチの口を指で押さえた。


 男は目を細め、カモンと手を招く仕草をした。


「なら、まずはその魔石とやらを見せてみな」


 わたしは無言のままポーチをわずかに開き、翡翠色の魔石をちらりと覗かせた。


 かすかな輝きに、男の目が見開かれる。口元の嘲笑が、欲望に濁った。


「こりゃまた……たいした代物じゃねえか。どうだい、俺に譲らねぇか? 値は弾むぜ?」


 伸ばしかけた手がぴたりと止まり、瞳の色が変わる。


 わたしもポーチを握る手に力を込めた。掌に汗がにじみ、石の冷たさが布越しに骨へ移る。


 わたしは相手から目を逸らさずに言った。


「弾むと言うなら、まずは数字を出して。安い言葉はいらないわ。それよりも――この市場の『元締め』に取り次いでくれないかしら?」


「ちっ、ガキだと思って舐めてりゃ、言ってくれるじゃねぇか」


 舌打ちが闇に落ちる。男は肩をすくめ、親指で奥を示した。


「ほれ、そこの裏手だ。この闇市を取り仕切ってる頭の商談部屋がある。行ってみるがいい。だが注意しな。“奴”は気難しいことで有名だ。下手を打てば商談どころか、最悪川に骸を浮かべることになるぜ」


 指の示す先は、倉庫の隙間のさらに向こう。灯りが薄く、空気が重く沈んでいる。わたしは気配を漏らさないように肩を落とし、息を整えた。


「忠告、感謝するわ。これ、お礼よ。取っておいて」


 懐から小銀貨を二枚弾く。硬貨が空を切る音がして、男の掌に収まった。


 男はニヤリと笑うと、倉庫の奥――闇へ溶ける扉を顎でしゃくった。


「せいぜい頑張るんだな」


 その一言が、やけに軽い。足元の水気がじっと靴底を吸い、さっき浴びせられた「ガキ」の響きだけが、腹の底でまだ温度を持っていた。


 唇の裏が乾きかける。噛みしめたまま飲み込んで、息を細く整えた。逃げれば、あの嘲りに背を向けることになる。いちばん嫌なのは、そこだ。


「行くのか?」


 わたしは息を詰めて頷く。


「もちろんよ。ここで引くわけにはいかないもの」


 声は落ち着いているのに、指先だけが強情に力を入れていた。ポーチの布越しに、魔石の冷たさが骨へ移る。冷えが、むしろ頭を澄ませた。


「いい度胸だ。ならば、頭とやらにお目通りといこうか」


「ヴィル?」


「なんだ?」


 さっきの男が「ママの元へ帰れ」と言ったとき、わたしは反論を喉で噛み潰した。あの続きを、ここで終わらせるわけにはいかない。子供扱いされて黙る自分にだけは、もう戻りたくなかった。


「交渉については、わたしに任せてもらえないかしら?」


 滴る水音が、どこかで一度だけはっきり鳴った。


 ヴィルは返事を急がない。わたしの顔を見て、次に手元へ目を落とし、周囲の暗がりへも一度だけ目を走らせる。剣の柄に置いた指が、わずかに位置を変えた。


 沈黙が長く感じられるのに、不思議と怖くはならない。いまのわたしは、逃げ道を探していないからだ。


「ふむ……いいだろう。魔石や魔術の分野に関しては、お前の方が適任だろう。ま、いざとなれば俺がいる。なんとでもなるさ」


 その言葉が落ちた瞬間、腹の底の熱が少しだけ形を変えた。反抗の棘が、決断の芯へ移り替わるみたいに。


《《わたしもだよ! なんとでもなるさ!》》


「ええ、頼りにしているわヴィル。茉凜もね」


 ヴィルと短く目を交わす。その瞬間、背中の芯が少しだけ立った。


 茉凜の明るい声が、張り詰めた意識をほんの少しゆるめてくれる。


《《おおお……なんだか、わくわくしてきたーっ……!》》


 茉凜は、こんな時でもドキドキハラハラのサスペンス気分だ。危機感の薄さがいかにも彼女らしくて、わたしは思わず口元を緩めてしまう。


 笑ったぶんだけ喉が鳴り、すぐ唇を閉じた。


 笑いが引いた途端、湿った空気が戻ってくる。だから余計に、自分の足音が大きく響いて聞こえた。


 ヴィルもわたしを見て、口元だけでニヤリとした。


「ひとつだけ、俺からの忠告だ。“財布を開きながら剣の柄を握れ”」


 その言葉が、冷水を浴びたように意識を覚醒させる。布の上からでも、背負った剣の重みがはっきり感じられる。


「交渉はあくまで穏便に。けど油断だけはするな、ということ?」


「そういうことだ。じゃあ、行こうか」


「うん」


 意を決して歩き出す。裏手の扉を押すと、湿った板がぎしりと不穏な音を立てて軋んだ。中には淡いランプが数個、頼りなく揺れるだけ。薄暗い光が壁をかすめ、古い鉄の錆の匂いが鼻を掠めた。


◇◇◇


 扉の向こうで待っていたのは、先ほどの売人とは別の男。豪奢だが古びた肘掛け椅子に深く腰掛け、痩せた体に黒いマントを纏っている。フードの奥から覗く瞳は、氷のように冷たく光を拒絶していた。


 言葉はなく、指先だけで正面の椅子を示される。わたしは唾が引っかかるのをこらえ、椅子に腰を下ろした。ヴィルは座らず、斜め後ろに立ったまま男から目を離さない。室内の音が一枚引く。背筋が勝手に伸びた。


 痩せた男が、値踏みするようにぼそりと切り出した。


「……見慣れない顔だな。……誰の口利きでここへ来た?」


 一瞬、言葉が喉元で止まりかける。わたしは平静を装って答えた。


「街の魔道具屋の店主からよ。名前は、ええと……」


 言いかけて、はっとする。――名前を聞いていない。掌が汗ばみ、椅子の布を指で押した。


 ヴィルは口を挟まない。ただ、わたしの視界の端で不動の岩のように立っている。


「……ギースか?」


 あっさりと、男が言った。


「ギース・クロットのことだろう? 片眼鏡の偏屈な爺さんだ」


 わたしは頷きの勢いで、つい声を張り上げてしまう。


「あ、ああ、そう、その人よ! 細身で片眼鏡を掛けた人」


 慌てた熱が頬に上がり、わたしはすぐ唇を閉じた。ヴィルの気配が背後で呆れたように緩むのが分かる。


 男はじっとこちらを見据え、口角を薄く持ち上げた。動揺を楽しむような、意地の悪い笑み。


「ふ、そうか……奴がここに行けと言ったか。ということは、お前さんが持ってきたのは魔石。それもあの偏屈の眼鏡に敵う、価値ある代物ということだな……」


 相場に明るくないわたしたちが、適当に回されたのだとしたら――そう考えるだけで、指の腹に冷たい汗が浮く。


「へえ、それは知らなかったわ」


 自分の声の高さが気になり、わたしは椅子の座面を指先で強く押した。木の硬さが、浮き足立つ意識を現実に縫い止める。


 男は顎を指先で撫で、促した。


「まあいい。さっさと物を見せてくれ。俺は気が短いんだ」


 わたしは小さなポーチを取り出し、肩でひと息を作った。ヴィルが斜め後ろで目を張ったままなのを確かめ、そっと口を開く。翡翠色の光が淡く立ち上がり、薄暗い部屋の空気を染めた。


 男の目がわずかに光った。


「ほほう……」


 口元に、かすかな興味。


「これはこれは……取引をするだけの価値はありそうだな」


 小さく息をつき、すぐ気を引き締める。ここからが本番だ。


 男は椅子からわずかに身を乗り出した。


「最初に、あんた達に尋ねたい。これをどこで、どうやって手に入れた?」


 わたしは短く考え、目を受け止める。答えを急げば、嘘になる。言葉を整える時間だけが、こちらの武器だ。


「半月くらい前、ここへ来る途中に通過した山岳地帯……たしか『ナルド山地』ってところで出くわした魔獣を倒してね」


 男の目が鋭くなる。光のない瞳が、刃物のように細められた。


「どんな魔獣だ?」


 ヴィルが静かに口を開いた。


「グラウクス・ボアだ……」


 その名に、男の瞳が一瞬、揺れた。椅子の脚が床をこすり、空気がさらに締まった。


「グラウクス・ボアだと?」


 ヴィルは淡々と続ける。言葉を飾らず、事実だけを積み上げていく声だ。


「単眼が特徴の巨大なイノシシ型の魔獣だ。突進力が尋常じゃない。真正面から受ければ、どんな堅牢な防御も紙屑同然だ。牙は大樹を砕き、表皮は鋼鉄の鎧に匹敵する。下手に剣を振れば刃こぼれするだけだ」


 ヴィルは短く息を継ぎ、男を見下ろした。


「ただし、巨体ゆえに動きは鈍い。攻撃も直線的で単調だから、かわして隙を取ればいい。だが一度油断すれば命取りだ。奴が暴れるたびに、足場ごと世界がひっくり返るからな」


 フードの影で、男の指が肘掛けを軽く叩いた。乾いた音が一つ、部屋の隅へ転がる。


 男は唇を歪め、せせら笑った。


「……講釈だけは立派なものだ」


 熱がこみ上げ、言葉が刺になりかける。わたしはそれを噛み潰した。


「どういう意味?」


 男は挑発的に目を細めた。暗いのに、その視線だけが妙に明るい。


「お前さんたちが、その魔獣を倒せたとは到底思えない、ってことだ」


「なんですって?」


 椅子から立ち上がりかけた肩に、ヴィルの大きな手がそっと触れた。驚くほど温かい掌が、怒りの熱を受け止める。


「落ち着け……」


 男は魔石を指さす。


「なぜそう断言できるか、教えてやろう。その魔石は特別にも特別すぎるんだ」


「どこが特別だっていうの?」


 男はため息まじりに続けた。


「この翡翠色の魔石はな、その特異性から希少な宝物とされている。通称――『双星の翡翠姫』……そう呼ばれる代物だ」


 その名が落ちた瞬間、翡翠の輝きがわずかに揺れ、壁に映る影まで淡く染まった。あの骸から掬い上げた時の、目を奪う色。手放さずに残そうかと迷ったのは、その美しさのせいだ。


「通常の魔石は単一の属性にしか応じない。だが、これは二属性を抱き、複合魔術の核となり得る。この複雑な輝きは、内部で異なる属性の魔素がせめぎ合っている証拠だ。目を奪われるのも道理だな」


 ポーチの紐が、指の腹へじわりと食い込む。わたしはその痛みで、余計な熱を落とした。


「しかも、これは純度が極めて高い。伝導率が段違いで、魔術の出力そのものが跳ね上がる。おそらく内包する魔素の総量も規格外だろう。熟練の大魔術師や名工が、喉から手が出るほど欲しがる逸品だ」


 わたしは魔石へ目を落とす。翡翠の光が表面を揺れ、指先がきゅっと冷えた。この石は、単なる戦利品以上の意味を抱えている。そんな重さが、静かに腹の底へ沈んでいく。


「これほどのものを核として抱いていた魔獣が、どれだけの強さかは想像に難くない。ましてやグラウクス・ボアだと? それを倒しただと? 笑わせる。そんな与太話、誰が信じられるものか」


 わたしは大きく息を吐き、わだかまりを冷やす。ここで折れれば、ここまで来た意味がなくなる。


「倒したのよ、わたしたち二人だけでね……」


 フードの影を射るように睨む。試すように、わざと上目に目線を突き刺した。


 男は一瞬、目を見開き、すぐに大袈裟な笑い声を上げる。


「あっはっはっはっ! こいつは痛快だ。お前さん、作り話にしちゃ上出来じゃないか!」


 あまりにも鼻につく笑い。こめかみがぴくりと跳ねる。感情に任せれば交渉が壊れる。わたしは唇を噛み、堪えた。


 男は気づかぬまま、肩を揺らして続けた。


「ナルド山地のグラウクス・ボアと言えば、ここいらの手練れでもおいそれと手を出せない怪物だ。一体相手するのに、五十人、いや百人は必要だと言われてる。それをたった二人でだと? 小娘、冗談も大概にしろ」


 それがこの界隈の常識。年端もいかないわたしが、裏の商談場にいること自体、奇異に映るのだろう。舐められるほどに、逆に頭が冷えていくのが分かった。


「仕方ないわね……」


 わたしはため息とともに、首元の認識票タグをつまみ上げた。ランプの光の下に差し出す。金属がひやりと指に貼りつき、刻印が鈍く光った。


「わたしの名は、ミツル・グロンダイル。エレダンの魔獣狩り。「人は——わたしを“黒髪のグロンダイル”と呼ぶわ」


 名を告げた瞬間、男の表情が凍りついた。ほんの僅かな変化――それで十分だった。

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