交易都市コマド
スレイドの蹄が乾いた土を蹴り、小高い丘の稜線を登りきった、その瞬間だった。
視界が白く裂けた。反射が刃のようで、まぶたが勝手に閉じる。開き直すと、眩しさの底から眼下が起き上がり、息が一拍遅れた。
《《うわぁぁぁぁっ! すごぉぉぉいっ! なにこれ、海!? ねえ美鶴、これ海じゃないの!?》》
茉凜の声が頭の芯をびり、と揺らした。わたしは手綱を握る手を止め、ただ呆然と、丘の下に横たわる圧倒的な流れを見下ろした。
それは、わたしが知っている「川」ではなかった。雲ひとつない空の下、遥か地平のかなたまで続く平原を、一本の巨大な流れが裂いている――ミレヌ川。高台から見下ろしているはずなのに、対岸は霞んで青く煙り、その全貌は視界に収まりきらない。
水は澄んだ青ではなく、大地の色を溶かし込んだような深い翡翠色をしていて、滔々と、あくまで静かにうねっている。音は届かないのに、そのうねりだけが肋の内側を重く押した。
《《見て見て! あそこ、中洲に森があるよ! あっ、いま魚が跳ねた! きらきらしてて、宝石箱をひっくり返したみたい!》》
茉凜の興奮が、神経へ直に届く。わたしが拾いきれない光を、彼女は指先でつまむように次々と掬い上げていた。同じ景色を見ているはずなのに、喜びのほうが先に押し寄せる。
その眩しさが痛い。わたしは額に手をかざし、目を細めて蛇行を追った。
吹き上げてくる風が髪を激しく巻き上げる。その風には、湿った土と、遠い草いきれが濃く混じっていた。わたしの記憶にある、清冽で儚い渓流の匂いとは決定的に違う。土臭くて、荒々しい。
――大陸の匂いだ。
知っているはずのことが、いま、胃へ落ちた。
この川は、何千、何万年とこうして流れてきたのだろう。その厚みに、わたしの呼吸だけが追いつかない。鞍の上で自分の重さだけを持て余し、足元の土が急に頼りなく思えた。
ヴィルも、スレイドも、わたしの感覚を通してはしゃぐ茉凜さえも、この世界の一部なのに。わたしだけが遅れて、手綱の革が掌に硬く食い込み、指先の熱が吹き上げる川風にさらわれて冷えていく。
「……ミツル?」
立ち尽くすわたしを不審に思ったのか、先に馬を進めていたヴィルが振り返った。
逆光の中、乱れた金髪が風に踊っている。馬の首がわずかに揺れ、鐙がきしんだ。
「お前、ミレヌ川を見るのは初めてか?」
その声に引き戻され、わたしは息を吸い込んだ。肺いっぱいに入ってくる湿りが、舌の上に土の味を薄く残す。
「うん……こんなに大きな川、見たことがないわ」
声が震えないようにするのが精一杯だった。ヴィルはわたしの返事にわずかに眉を上げ、それから懐かしそうに眼下へ視線を戻した。
「そりゃあ驚くよな。この川は中央大陸を横切る最も雄大な流れだ。東の山脈から西の海まで、この大陸の命を運んでいると言ってもいい」
若き日より旅を重ねてきた男の、静かで誇らしげな横顔。風も、光も、この泥を含んだ川の匂いも、彼には馴染んでいる。
――命を運ぶ。
その言い方だけで、視線が落ちかけた。
わたしは手綱を握り直した。革がこわばって、きし、と鳴る。その音だけが、みぞおちの沈みを確かめさせた。
《《ねえねえ美鶴! あとで川辺まで降りてみようよ! この大きさ、近くで感じてみたい!》》
茉凜の明るい声が、感傷とは無関係に脳裏へ転がり込んでくる。唇を噛んで、強ばりかけた頬の力をほどいた。
「……そうね。それにしても、世界って本当に広いのね」
言葉が口から落ちた瞬間、喉が細く狭くなる。
眼下を流れる大河は、わたしの孤独も、茉凜の歓喜も、ヴィルの記憶も、区別せずに抱えたまま、ただ静かに海へ向かって流れていく。
◇◇◇
川の湿り気を孕んだ風が、街路の奥まで入り込み、真昼の熱気に香辛料の香りを混ぜていた。
エリンの南、ハージルの要衝コマド。石畳の坂を荷車がのろのろ這い、河港のほうから濡れた麻袋の生ぬるい匂いが流れてくる。どこかで縄が擦れ、硬い音が短く走った。
一歩足を踏み入れれば、色彩と喧噪がぶつかってくる。石畳の広場を埋め尽くすのは、大陸中から集まった露店の波。
天幕の極彩色が日差しを弾き、山積みにされた見たこともない形の野菜や、甘い蜜の香りを放つ果物、麻袋から溢れる色とりどりの香辛料が、強烈な色彩となって目に飛び込んでくる。
鉄板で肉が焼ける脂の音。商人たちの野太い呼び込み。異国の楽器が奏でる甲高い音色。人々の熱気が湯気のように立ち上り、肌にねっとりとまとわりついた。
その洪水の上から、茉凜の声が矢継ぎ早に降ってきた。
《《美鶴、ストーップ! 今の見た!? 右の屋台! あの紫色のお芋みたいなやつ、湯気が出てる! 絶対ホクホクだよ!》》
声の塊に押し返され、奥歯がきゅっと噛み合う。人波に押されて肩が揺れ、外套の布が背に張りついた。肘が誰かの籠に触れ、籐がかさりと鳴る。謝る声が頬をかすめ、わたしの歩調だけが半拍ずれた。
その瞬間、隣のヴィルがわたしの目の動きをちらりと追い、口の端を上げた。声は聞こえないはずなのに、いま何に振り回されているかだけは、もう分かった顔だ。
視線を向けるより早く、鼻先をくすぐったのは焦げたタレと脂の重たい香りだった。
《《あーっ! ちょっと待って、左も! あの串焼き、肉汁が垂れてる! 炭火の匂いがヤバいって! ねえ嗅いだ!? 今嗅いだよね!?》》
唾液が湧くのを止める間もなく、今度は視界の端へ鋭い輝きが差し込む。食欲から物欲へ、彼女の興味は目まぐるしく移り、わたしの首を物理的にねじ切らんばかりの勢いで注意を引いてくる。
《《あっちの宝石屋さん、すごいキラキラしてるー! あの赤い石、美鶴に絶対似合うよ! ねえ寄ろうよ、見るだけ! 見るだけだから!》》
茉凜の声が襟元を引き、首の後ろをせかし続ける。わたしは鼻の付け根を押さえ、人波の端へ身を寄せた。
同時に、ヴィルが半歩だけ内側へ入った。背中をぐいと押すでも守るでもなく、ただ「ここにいる」と示す位置取りで、人の流れをわたしから逸らしてくる。
「……う、るさい。一度に全部言わないでちょうだい……」
思わず口から漏れた文句に、ヴィルが足を止め、面白そうに眉を上げた。
「どうした? またマリンが騒いでいるのか?」
その目が、わたしの口元に一瞬だけ落ちる。笑っているのか怒っているのか、どちらにせよ「いつもと違う」と見抜かれてしまったみたいで、頬の力を余計に持て余す。
わたしは恨めしげに彼を見上げる。
「笑い事じゃないわよ。茉凜ったら、この街に入ってからずっとこうなの。右を見ても左を見ても『あれ食べたい』だ『これ見たい』って大騒ぎで……頭が割れそうよ」
《《だって仕方ないじゃん! 見てよこの活気! エレダンとは品揃えが全然違うんだもん! わたしは食べられないし触れないんだから、美鶴がわたしの目となり舌とならなきゃダメなの! それが相棒の務めでしょ!?》》
「務めって……そんなに食べたらわたしのお腹が破裂するわよ」
ぶつぶつと虚空に向かって反論するわたしを見て、ヴィルは喉の奥でくっくと笑った。
「前にも酒に目がないと言っていたが、食い気と物欲も相当なもののようだな。賑やかでいいじゃないか。姫君がそこまで望むなら、叶えてやるのが従者の務めだろう?」
「ヴィル……! あなたまで調子に乗って。人ごとだと思って面白がってるでしょ」
「ああ、愉快だとも。お前の百面相を見るのは、退屈しないからな」
「ひゃっ、百面相ですって……!?」
「んん、その顔も面白い。いつものすました顔より、ずっといい」
「もっ、もう……」
わたしは唇の端を押さえ込みたくなって、代わりに指をぎゅっと握った。握るほどに、爪が掌へ食い込み、余計に熱が逃げ場を失う。
ヴィルは軽やかに歩き出し、店先で赤い果実を山積みにしている屋台の前で立ち止まった。
熟れた果実の甘い香りが、鼻いっぱいに広がる。
《《ひゃああああ! 美鶴、それ! それそれ! たしか旅人が教えてくれた『太陽の雫』って呼ばれてる果物だよ! 皮ごと食べられて、中から蜜が溢れ出すんだって!》》
茉凜が口を大きく開けて待機している情景が浮かび、わたしは観念して息を吐いた。
「……おじさん、これひとつ頂戴」
銀貨を渡し、手渡された果実は、手のひらにずしりと重かった。太陽の熱を吸い込んだように温かく、表面がつやつやと光っている。
「茉凜の分もしっかり食え。お前は少しは肉をつけないと、風で飛んでいきそうだからな」
ヴィルが自分の分をかじりながら、空いた手でわたしの頭をぽんと撫でる。
その手つきは子供扱いするようで少し癪だった。それでも、大きな掌の温もりに、呼び込みのざらついた声が一枚布を挟んだように遠のいた。
《《うふふ、ヴィルったら優しい~! さあ美鶴、実食! わたしの分まで味わってね!》》
わたしは果実を口元へ運び、小さくかぶりついた。ぱりっとした皮が弾け、とろりとした甘みが舌の上で溶け出す。
《《あま~い! 最高~っ!》》
茉凜の悶絶が遠くで波を打ち、口の中には確かな甘みが残る。市場の喧噪まで、どこか丸く聞こえた。
みぞおちに沈んでいた硬さが、息を吐くたび、指の力から少しずつ抜けていく。爪が何かを探す癖が止まり、掌がようやく自分の形に戻っていった。
わたしは口元の果汁を指先で拭い、ヴィルへ目を向けた。逸らしきれないまま、笑みだけが先に落ちる。
「……おいしい」
その一言の柔らかさを、ヴィルが聞き逃すはずもない。からかう前の一瞬だけ、目が細くなる。
「そうか。なら、次はあの肉串だな」
《《賛成ーっ! さすがは、ヴィル。わかってる! 次は肉! 肉だよ美鶴!》》
ヴィルが顎で示した先には、煙を上げて焼かれる巨大な肉の塊があった。わたしは再び頭を抱えたくなったけれど、腹の底が正直にぐぅと鳴り、結局は二人と一振りの欲望に従って歩き出すしかなかった。
◇◇◇
この街で、まずやるべきは魔石の鑑定と換金だ。道中、山岳地帯で魔獣を狩った際に手に入れた魔石は、この先の旅資金を左右する。
ただ、換金は原則として正規の窓口を通さなければならない。魔石は国庫を潤す資源として厳格に管理されており、正規ルートを外れれば密輸扱いになる。面倒が増えるだけだ。
ヴィルが以前言っていた言葉が、遅れて胃の腑に重くのしかかる。
『あいにくだが、コマドにはハンターギルドがない。魔獣の出没しない平和な土地柄じゃ、仕方ないがな』
となれば、手段はひとつ。非正規の取引場を探すしかない。歩調が詰まり、石畳を踏む音に、気づかないふりの緊張が混じった。
ヴィルの声が、現実的な判断で背中を押した。
「ミツル、次はどうする?」
わたしは手に持った果物をひと口かじった。甘酸っぱさが舌に広がり、張り詰めたところを少しだけほどいてくれる。
「魔石をどうにかしなきゃね。まずは魔道具のお店かしら。仕入先を伝って、何か手がかりが得られるかもしれないでしょう?」
ヴィルが「いいだろう」と頷く。わたしたちは市場の喧噪を背に、人気の少ない路地へ足を向けた。
角を曲がった途端、果実の甘い香りが途切れ、鉄錆と薬草の匂いが鼻をついた。頬に触れる空気が薄く冷える。
魔道具技師の店は、街外れの一角にひっそりと佇んでいた。朽ちかけた木の看板に色褪せた魔法陣。年季の入った扉の隙間から、湿りを含んだ空気が漏れている。
店内は薄暗く、棚に並ぶ魔道具が淡く光っていた。光は品物ではなく埃の輪郭を浮かび上がらせ、カウンターの縁だけがぼんやり白い。
ヴィルが油断なく辺りを確かめる横で、わたしは袖口を握り、指の震えを押さえ込んだ。
「ごめんください。あの……魔石の鑑定をお願いしたいのですが」
カウンターの奥、魔導書に顔を埋めていた店主が、ページから目だけを上げた。五十代半ばだろうか。片眼鏡の奥から射抜くような目が飛んでくる。彼は奇妙な形のペンを手元でくるくると弄び、言葉より先にこちらを値踏みした。
「ほう、鑑定かね。一見さんが珍しい依頼だ……。もしかしてお嬢さん、何か訳ありか?」
頬の筋肉が強張るのを意識してほどき、わたしは努めて明るく振る舞った。
「あら、別に? わたしたちはただの旅人よ。路銀が心もとなくて、この先に進むためにも換金しておきたいだけ」
店主は小さく鼻を鳴らし、口元を皮肉に歪める。
「だがね、この街にはハンターギルドも公社の窓口もない。魔石の個人取引は、表向きご法度だ」
「ええ、知ってるわ。だから、あなたのような専門家に相談に来たの。取引できる相手を紹介してもらえると助かるわ。もちろん、あなたが直接買い取ってくれるなら話は早いのだけど」
店主の片眉が上がる。
「ほう……子供にしては、なかなか度胸がある。では、まず物を見せてもらおうか。話はそれからだ」
わたしは一瞬手を止め、ヴィルと目配せしてから頷いた。腰のバッグから魔石を取り出し、カウンターの黒いビロードの上へそっと置く。
店主はそれを手に取り、片眼鏡の位置を直して観察した。冷えた指腹で転がすたび、石の内部で青白い光がちらちら揺れる。
「なるほど……どこで手に入れたかは聞かんが、この辺りではなかなかお目にかかれない代物だ。うむ、ならばあてがないこともない……」
彼は魔石を置くと、声を潜めてニヤリと笑った。
「お前たち、運がいいぞ」
舌裏が渇く。わたしは音を立てないように唾を飲み込み、慎重に問い返す。
「運がいい……?」
「今夜、川沿いの倉庫街で“特別な市場”が開かれる」
茉凜の声が、脳内で低く響いた。さっきまでのはしゃぎぶりとは違う、冷静なトーンだ。
《《……おお。いかにもな展開になってきた》》
わたしはその声に心の中で同意しつつ、店主から目を外さない。
「それって……つまり非合法の闇市場、ということ?」
「察しが良いな。コマドはミレヌ川の水運で栄える街だ。表で物の流れが大きい分、裏もまた大きい」
わたしは言葉を確かめるように、ゆっくり頷いた。
「要するに、正規の物流に紛れて密輸や違法取引が横行していると?」
「そういうことだ。駐在の役人どもも、黙認どころかどっぷり浸かってる」
薬草の匂いが、苦く転ぶ。
「どこでも同じようなものね……。それで、そこに行けば取引相手は見つかるのかしら?」
「まずは覗いてみるといい。だが、油断するな。あそこは弱肉強食。食うか食われるかの世界だ」
言葉の端が、釘みたいに意識へ刺さった。
「ありがたい。恩に着る」
ヴィルが短く礼を述べると、店主は軽く手を振って再び魔導書へ目を落とした。
「いい取引をするんだな。まあ、命だけは粗末にしないことだ」
その忠告を背に受け、わたしたちは再び通りへ出た。
夕暮れが近づき、空気が昼間より急速に温度を失っていく。その温度差が、これから向かう場所の危うさを、肌に触れる薄い刃のように予告していた。




