わたしたちの旅路と赤い痣
旅の始まりは、荒涼とした大地に砂塵が舞い、夜には凍える冷気が皮膚を刺す過酷な環境だった。
頬骨のあたりを指でそっと押すと、あの風の痛みが薄く戻ってくる。そんな中でもスレイドの歩みはたしかで、その背に身を預けるたび、ヴィルの存在がわたしの輪郭をやわらかく撫で直した。肩の奥の力が、ひとつ息を吐くたびに抜けていく。
広い背中は壁のように頼もしく、彼はただ前を向いて黙々と進む。言葉がなくても、不安は少しずつ遠のいていく気がした。
エレダンを発って半月ほどが過ぎたころ、空気は澄み、乾いた土と枯れ草の匂いが混じり始めた。草は少しずつ色を抜き、穂先の金が陽を拾う。風のどこかに木の実の甘さが混ざり、鳥の声は高く遠くへ流れていった。南へ進むにつれて、野の花は名残りの色を薄く残し、代わりに低い灌木の赤い実が、ひっそり目に入るようになる。
頬をかすめる風がきりりと澄むたび、旅が少しずつ過酷さだけのものから、生きていく時間へと形を変えていくのを、呼吸の深さで感じていた。
◇◇◇
わたし――ミツル・グロンダイルは、中央大陸を南下し、リーディス王国を目指してヴィルと共に馬上にいた。
スレイドのしなやかな歩みに合わせて身体を預けると、鞍がわずかに沈み、腰の奥で揺れが受け止まられる。前を行くヴィルが手綱を短く張り直すたび、スレイドの首が小さく応え、その張りが鞍越しに静かに返ってきた。
視線はいつも道の先。ときどき彼は、気配を切り分けるように左右へ目を走らせる。わたしはそれに合わせて肩の力を抜き、彼の呼吸の間に自分の息を落とした。
あの背中が揺れないだけで、進むべきほうが決まる。数多の荒地を越えてきた今も、その確かさが「信じていれば大丈夫」という静かな確信をみぞおちへ沈めてくれる。
草原にスレイドの蹄が落ちるたび、乾いた草がかさりと潰れ、土が硬く返る。踏みしめた音は小さく、冷えた空気の中で余計に輪郭を持ち、耳の奥で静まっていった。そのぶん、呼吸が一段深くなる。
けれど、ヴィルは決して油断しない。前方を真っ直ぐに見据え、顔を強ばらせることもなく、ただ静かに周囲の気配を計っている。わたしがそっと横顔を窺うと、陽射しのなかで無造作に跳ねた金髪が、一瞬だけ淡い光を返した。
その色と、眉間に刻まれた微かな皺を見ていると、懐かしさに似た温もりが肋の内側でゆるむ。
思い出すのは、ここまでに一緒に越えてきた無数の困難――砂塵が頬の内側に貼りつく昼、乾いた喉が鳴る夕方、遠くで獣が鳴いた気配に空気が固くなる夜。道が分かれれば、ヴィルは先に立って地面を見た。草が倒れている向き、蹄の跡の新しさ、風下の匂い。何も言わないまま、足が自然に安全なほうへ向きを変えていく。
強い風に帽子を吹き飛ばされた日もあった。音もなく攫われて、布が石の間を跳ね、視界の端で小さく転がっていく。
わたしが息を呑むより早く、ヴィルは馬を止めた。手綱を短く取り直し、荷を揺らさずに降りる。拾い上げた帽子の砂を軽く払って、黙って戻してくる――それだけ。叱りもしない。笑いもしない。代わりに、いつの間にか顎紐が結び直されていた。
冷たい夜に小さく丸まって眠った朝も、全部この背中と一緒だった。起きたとき、焚き火の灰がもう片づけられていて、濡れた革が乾く位置に掛け直されていた。水袋は満ち、干し肉は切り分けられ、スレイドの蹄の泥が落とされていた。
わたしが「しまった」と思う前に、重いものは先に動き、危ないものは先に遠ざけられている。無言のうちに支えられてきた日々が、呼吸に混じる枯れ草の匂いと一緒に、肺の奥まで沁みていく。
喉元のざわめきに触れないよう、わたしは何でもないふりで息を吸う。
「疲れてない?」
ふいに声をかけてみる。自分でも、何を期待しているのかはよく分からない。ただ、その背中の硬さに、もう少しだけ柔らかな気配を分けてもらいたくなった。
ヴィルは振り返ることなく、少し声を低くして短く返す。
「心配するな」
言葉はそれだけだった。手綱が一度、小さく鳴る。わたしの口角がわずかにゆるみ、息が一拍遅れて落ちた。
彼はいつだって、必要なことしか言わない。だけど、言葉にならない安心を渡してくる――そんな不器用な優しさが、背中越しに伝わってくる。
彼が冗談を口にしたり、夜には静かに酒を飲むのも、過酷な過去を生き抜いた名残なのだろう。西部戦線の話を多く語ることはないけれど、そうやって覚えた暮らしの習慣が、今も彼の心を守る盾なのだと分かる気がした。
袖の縫い目を指でつまみ直す。気づけばそこが擦れていて、指先に小さな痛みが残る。たぶん、ここまでずっと、揺れの上で息をしてきたせいだ。
そうやってわたしは、澄んだ風の匂いと遠い鳥の声、穂の揺れる平原の景色のひとつひとつに、小さな安堵を見つけていく。
まだ見ぬリーディス――どんな場所なのか想像するだけで、足の指先がそわそわと動き、胃の腑に少しだけくすぐったい期待が生まれた。
◇◇◇
わたしたちの一日は、夜明けの光とともに静かに始まる。
夜の名残の冷えが地面に貼りつき、草の先には露が薄く光っている。焚き火の灰の匂いが、まだ指の腹に残っていた。
朝の冷気が頬に触れ、吐く息がほのかに白く残るうちに、わたしは目を覚ます。
毛布を押しのけると、肌が空気にさらされて、背中の内側が目を開ける。遠くでスレイドが鼻を鳴らし、革の匂いと乾いた草の匂いが混じって鼻先をくすぐった。
まず手に取るのは、真っ白なマウザーグレイルだ。長剣ほどの長さがあるのに、持ち上げた瞬間の重みは短い剣みたいに軽い。素振り用の重い木刀よりも、ずっと。
柄を握ったとき、指先に伝わるひんやりとした感触が、寝ぼけた思考を一枚ずつ剥がしていく。白い刃が朝の光を吸い、輪郭だけが静かに立つ。
素振りの回数は三十回――ヴィルが課す数だ。三十回を一まとまりに、一本ごとに形を崩さない。数を決められると、気持ちが逃げ道を失う。けれど、その逃げ道の無さが、今のわたしには必要だとも思う。
一振り目で、吐いた息の白さが濃くなる。二振り目、三振り目。刃が空を割るたび、草の匂いが揺れて、額の奥がじわじわ熱を持った。
軽いから、振れる。だからこそ、誤魔化しもきく。腕だけで振っても、形だけは作れてしまう。
けれど、刃が長いぶん、わずかなズレが先端で膨らむ。止まったつもりでも、剣先が半拍遅れてついてきて、空のどこかで小さく踊る。
構えのたび、背中と腰の筋が引き伸ばされる。頭のてっぺんから尾てい骨まで、一本の軸がすっと通る瞬間がある。そのときだけ、刃が近い。
呼吸を整え、一振りごとに重心を脚の裏で拾い直す。踵の感触が先に動き、遅れて膝と腰が追いかけてくる。上半身だけで振ろうとした瞬間、刃が遠くなるのが分かる。
ただの素振りのはずなのに、正しい動きを守ろうとするほど汗が皮膚に浮き、肺がひりついた。自分でも驚くほど、すぐに息があがってしまう。
息の粗さが恥ずかしい。冷たい朝のはずなのに、首すじのあたりだけ熱が残り、襟元がじわりと湿る。
遅れて起きてきたヴィルが、こちらを一瞥する。寝起きの気配をまとった視線が、容赦なく細部まで拾う。
革が擦れる小さな音。靴底が草を踏む音が、背後で一拍だけ止まった。
「そこ、つま先の重心移動が遅れてる」
「腕ばかりに力が入ってるぞ」
胸の奥がきゅっと縮む。指が先に硬くなる。次の一振りの初動で、すでに遅れているのが自分でも分かった。
肩甲骨の奥が固くなり、肘と手首が逆らおうとする。反射で言い返したくなるのに、息が先に詰まった。悔しさが喉に貼りついて、舌の裏が乾く。
それでも、吐き直す。踵で地面を掴む。膝をゆるめて腰を乗せる。刃の長さが、やっと近づく。
背骨の奥から一本の芯が伸び始める。背中の内側が通った瞬間、動きが滑る。手元の軽さのまま、長さを味方にしていく。
「いいか、素振りごときと侮るなよ?」
ヴィルは険しい表情のまま、厳しく続ける。
「初歩にこそ奥義あり、だ。基礎を固めれば、身体は自然に覚える。剣を振れば心が形になる」
型どおりの言い回しだ。けれど、どこかで聞いた形でもある。あの人が言いそうな、言葉の硬さ。
胸に落ちる熱は励ましではなく釘に近い。抜け道を塞がれて、だからこそ前へ進める。
息が細くなる。言い切る前に、視線が一度だけ逃げた。指が、柄を握り直す。
「……分かるわ。要するに“芯”を作れってことよね。剣は腕で振るものじゃなくて、腹から、腰から――まるで指差すみたいに。剣はその延長にすぎない。違うかしら?」
言い終えた瞬間、腹の奥がきゅっと締まった。
古流を修めていた前世の父――玄昌の受け売りに過ぎない。言葉が先に走ってしまう癖が、いまも残っている。
無意識に腹に力が入る。振り下ろす瞬間、踵から母趾球へ体重が移り、背骨の軸がまっすぐ剣へ伝わっていく――そんな手応えが、かすかに身体の奥を走った。
刃が空気を切る音が、さっきより少しだけ乾く。自分の息が、その後から遅れて追いついた。
ヴィルはほんの一瞬だけ、目を細めてわたしを見た。低く、呟く。
「……よく気づいたな。そのままだ。腕や肩で振れば芯がぶれて、剣は自分から離れていく。だが腹から腰、背骨を通して指先へ生やすようにすれば、長さは武器になる。軽いからこそ、芯が通らないと先が踊る。芯が通れば、力みは消えて刃が走る」
乾いた風切りが、まだ耳の奥に残っていた。
褒められたはずなのに、嬉しさを出すのが怖い。だから、先に理屈を置きたくなる。
「そうね……音は結果ともいうわ。達人なら、風の割れ方で分かる」
「その歳で理屈だけじゃなく、その先の感覚までも理解しているとは驚いた。ユベルからは、何も教わっていないと聞いていたが?」
喉の奥が冷える。余計なものを見せたくないのに、見せてしまった。言葉が、手から滑って落ちたみたいだった。
「ち、違うの。ただ毎朝、父さまの素振りを見ていただけよ。わたしなんて所詮上っ面の真似事だし……音の違いくらいは、わかるけど……」
嘘ではない。父は毎朝、短い時間でも必ず素振りをしていた。回数は十にも満たなかったが、その一振りには、まるで全ての技が込められているように思えた。
剣が空気を割るたび、庭の静けさがきゅっと引き締まる。わたしは息を止めて見つめていた。いずれ自分も、あんなふうに重さを宿した一振りができるだろうか――そう思うたび、背中に小さな波が立った。
思い出すだけで、指先が勝手に固くなる。あの人の背中は、言葉より先に「守る」を教えていた。
「それで、自分なりにどうして結果として音に差が生まれるのかいろいろ考えて、理屈として捉えようとしていただけよ。でも、理屈と身体は別でしょう……?」
ヴィルは短くうなずいた。
「その通りだ」
息がひとつ遅れる。逃げ道を探すみたいに、視線が草へ落ちた。
「だめね、わたしって。つい頭でっかちになっちゃうから……実践が伴わないんじゃ意味がないわ」
誤魔化すように指先で頬をかく。熱さを隠そうとする仕草が、かえって目立つ気がして、さらに焦る。
「それでいい。さすがはユベルの娘だな」
「そ、そうかしら?」
どきりとして、指先が耳の後ろの髪をいじる。褒め言葉が、借り物の服みたいに肌の上で浮いた。
「感覚でやってきた俺とは真逆の、理詰めの視点で入るところとか、あいつにそっくりだ。ならば、あとは鍛錬あるのみだな」
ヴィルの口元に、わずかに満足そうな笑みが浮かぶ。その表情を見ていると、肩の力がほどけて、呼吸が少しだけ深くなった。
褒められたことより、「許された」みたいに感じてしまう。そういう自分が、少しだけ情けない。
「いいか? ユベルの剣技は一見流麗にも見えるが、その真髄は正統剣技を極めた先にある。だからお前には、まず芯を固めてもらいたい」
素振りを終えると、汗がじっとり肌に貼りついている。朝の空気が首すじを抜け、冷たさが一気に全身へ広がった。
汗の膜が冷えに変わる瞬間、体が小さく震える。震えを隠すように、肩を一度だけ回した。
◇◇◇
朝食は、粗末なパンが一切れだけ。噛みしめるたび歯ごたえが口の中に広がり、乾いた生地が舌に溶けると、ゆっくり力が戻ってくる。食べ終えると、手に残るわずかなパンくずを指先でつまみながら、荷物の点検に移った。
ヴィルが一つひとつ最終確認し、必要なものを淡々と詰め直してくれる。その手つきは、かつての父とはまた別の家族のような穏やかさがあり、わたしは黙ってその背を見守るだけだった。
支度が整うと、再びスレイドの背に乗る。革の鞍が太腿にぴたりと馴染み、足元の草の感触が、今日の旅の始まりを静かに告げているようだった。
旅程は、三日進んで一日休む三日目の夕方になると、膝の裏が重くなる。無理に歩みを繋ぐと、足が勝手に浅くなる。だから、その日は火を起こす。四日目の朝、肩がようやくほどけるまで、スレイドと共に身体を休ませる。
休息日には、川や小さな泉を見つけて即席の湯舟を作る。〈場裏・黄〉を領域展開して小さな壁を作り、そっと身体を拭いて着替える。
冷たい水に手を浸す瞬間、指先にピリピリと走る感覚が心地よい。布で汗をぬぐうたび、皮膚の上に残る熱が少しずつ落ち着いていく。拭い終わった首すじに、冷たい空気がすっと通る。
清潔な衣に袖を通し、背筋を伸ばすと、肺の奥まで新鮮な空気が行き渡る気がして、思わず小さく深呼吸をする。
けれど――その時、ひとつだけ、気にかかることがあった。
下腹部、少し脇に寄ったあたり。数日前から、薄い赤いアザのようなものが浮かび始めていた。最初は擦りむいたのかと思ったが、日を追うごとに色が濃くなってきている。
身体を拭いたあとでそっと指先で触れると、その部分だけ少し熱を帯び、じわじわとした疼きが残った。布越しでも、ときどきそこが「自分のものではない」みたいに感じる。
《《うーん……調べてみてはいるんだけど、お医者さん代わりになるような便利な機能は無さそうなんだよね》》
茉凜の声が脳裏に響く。期待してしまった自分に気づいて、肩がすこし落ちた。
「しょうがない。もう、なるようにしかならないよ……」
声に出すと、思いのほか気が緩む。
「次の街に回復術師がいたら診てもらおうか。ま、気休めにしかならないかもしれないけど……」
そう呟いても、不安は消えない。答えが出るかも分からず、ひとりで悩んでいる時間が静かに積もっていく。
ヴィルには、まだ言えなかった。お腹のアザを見せて説明するのは、どうにも恥ずかしい。心配をかけたくない思いと、もし大したことがなかったら余計に気まずくなりそうな不安が、胃の底を冷やし、喉を細く締めていく。
赤い印を思い出すたび、頬の奥がじんわり熱くなる。衣の上から、無意識にその場所を押さえた。指先に触れる布の薄さが、余計に頼りない。
わたしは何でもない顔で立ち上がり、スレイドの手綱を取る。歩き出すと、鞍革がきしむ音が一拍遅れて草の匂いに混ざった。革の感触が掌に戻ってきて、ようやく呼吸が落ち着いた。
次の街へ向かう道は、いつもと同じように伸びている。
進むしかない。そう自分に言い聞かせながら、わたしは足元を確かめるように一歩を重ねた。




