優しさに包まれた旅立ち
大剣を担ぐカイルの笑い声、金の髪を高く束ねたエリスの弓の軋み。風魔術のフィルは涼しい眼差しで場を見渡し、罠師マティウスは腰袋を鳴らして照れ笑いを浮かべた。斧使いのボッツーリ、槍使いのマーク、そして名もない無数の仲間たち──小さな空間に詰まった息づかいが熱を帯びていた。
喉もとに息がたまり、肋の内側がわずかにゆるむ。
「まったくよう……ここ何日か姿を見せねぇと思ったら、なんて水臭いんだよミツル。街を出るっていうなら、俺たちに一言くらい声をかけてくれてもよかったんじゃないか?」
皮手袋の匂いに樹脂が混じり、記憶がふっとほどける。
「ごめんね、マティウス……急に決まったことだから」
返事の隙間に、誰かの靴底が床を鳴らし、笑いがひとつ転がった。梁の上の埃が、ふわりと落ちる。
「旅立ちってのは、もっと盛大に祝って送り出すもんだろう? 肉でも焼いて、夜通し酒でも飲んで騒いでさ! 俺、泣くなって言われても、きっと泣いちまうぜ!」
どん、と背を叩かれ、肩先が一瞬だけ熱くなる。
「カイル……。大げさね。そんな盛大に見送られたら、わたしだって本当に泣いちゃうかもしれない」
笑いの残響が細くなっていく。そのすき間に、涼しい声が落ちた。
「残念だよ。君とはもっと魔術について語り合いたかったんだけどね」
腹の底にぬるいものが溜まり、言葉が丸くなる。
「フィル……」
フィルが懐から封筒を取り出し、指先で角をそろえた。
この辺境では見かけない、雪のように白く、滑らかな紙の封筒だ。ざらついた羊皮紙ばかりを見てきた目には、その白さが眩しいほど異質に映る。
「けど、決めたことなら仕方がない。これからの君の活躍を期待しているよ」
封の糸がこすれる細い音が、胸骨にやわく触れた。
「それと、これを受け取ってもらえないかい?」
差し出された手の甲の体温が、指先へそっと移る。
「これって?」
窓越しの光が赤い封蝋に跳ね、繊細な紋章が小さく瞬いた。羊皮紙のごわつきとは違う、洗練された指触りがそこにある。
「僕からの餞別がわり、といったらいいかな。ちょっとした紹介状だよ。もし、リーディスに立ち寄ることがあったら、王立魔術大学の人たちに見せるといい。何かしら便宜を図ってもらえるはずだ」
「王立魔術大学って、あなたが魔術を学んだという場所?」
「うん、そうだよ。王都リーディスは、中央大陸の中でも文化と学術の最先端を征く都市だ。王立魔術大学は、世界でも指折りの魔術研究機関でね。別名『古今東西の知の集積地』とも言われている。それは、なにも魔術だけに限らない」
「知の集積……」
「君には、まだ知りたいことがたくさんあるんだろう?」
みぞおちの奥にほどよい熱が灯り、息がすんなり落ちる。
「フィル、本当にありがとう。あなたの気持ち、大切にするわ」
ざわめきが小さく波を打つ。誰かが鼻をすすり、誰かが笑いをごまかすみたいに喉を鳴らした。足音が一歩ぶん寄って、距離がまた詰まる。
「ねぇ、ミツルちゃん……本当に行っちゃうの? せっかく仲良くなれたのに、こんなのってないよ……」
嗚咽の合間に布が擦れ、小さな音が途切れ途切れに揺れた。
「エリス……大丈夫。きっとまた会えるから。どこにいても、あなたのことを忘れたりしないよ。それにね、この街はわたしにとって第二の故郷なの。だから、いつか必ず戻ってくる。約束するわ」
肩口の震えが掌に伝わり、指が自然と強く絡む。
「本当に……本当に約束だよ?」
窓辺の埃がきらりと舞い、涙の縁が薄く光る。
「うん、約束する。絶対にね」
胸骨の裏にあたたかい脈が打ち、息がまるくほどける。
「ミツルさん、これはお返ししますよ」
革ひもの匂いに金属の冷たさが混じり、意識が引き締まる。
「えっ、どうして?」
木札が触れ合うかすかな音が、耳朶で丸く鳴った。
「いまやあなたは、私どもハンターギルドの関係者にとっての誇りだからです」
差し出された羊皮紙の登録証は、使い込まれて端が毛羽立ち、独特の獣の匂いが染みついていた。それは、なめらかな白い封筒とは対極にある、わたしがこの荒っぽい街で生きてきた時間の重みそのものだった。
「そんなこと、ないです」
窓光が頬を淡く撫で、言い訳の影を浅くする。
「この半年余り、あなたは当ギルドに計り知れない貢献をもたらしてくださいました」
「そんな……わたしはとくに、なにも……」
「いいえ。私を含め、ここにいる皆さんはよく存じています。誰もが嫌がる周辺警戒の割り当てを進んで引き受け、突発的な事態にも真っ先に駆けつけておられましたね」
「それはたまたま暇だったからで、別に……」
「だとしてもです。ハンターに限らず、あなたに救われた者がどれほどいることか……心から感謝しています。ですから、どこへ行こうとも、あなたが当ギルドの一員である事実は変わりません」
「ベルデンさん……」
「それに、いまや“黒髪のグロンダイル”の噂は、大陸中に広まりつつある。これを携えていれば、あなたという存在の証明になるはずです。さぁ、どうか受け取ってください」
掌の中心に確かな重みが宿り、体温がゆっくり広がる。
「ありがとうございます、ベルデンさん。わたし、なんてお礼を言ったらいいか……」
古い羊皮紙の匂いが立ち、言葉の端が少し甘くなる。
「ミツル、くれぐれも無茶だけはするなよ! まあ、お前のことだ、そんな心配は無用か。はっはっはっ」
笑いが梁で跳ね返り、細い残響が背筋をくすぐる。
「ありがとう、カイル。あなたも無茶だけはしないでね。エリスを心配させたら承知しないんだから」
背中に落ちた掌の余熱が、服越しにまだ残る。
「ああ、肝に銘じておく。こいつを怒らせると手が付けられないからな」
そこに寄り添うエリスの肘打ちが入り、カイルは「おっ!?」と声を上げる。
扉隙間の光が揺れ、瞳の中で小さく瞬いた。
「絶対、絶対に帰ってきてね! わたし、あなたが帰ってくるのを、ずっと待ってるから!」
胸に寄せたエリスの手を、わたしの手が包む。鼓動がわたしの拍へ静かに重なった。
「うん、必ず戻ってくるから。そしたら、一緒にいっぱい遊ぼうね」
頬の内側が温み、笑みが自然にほどけていく。
フィルが封筒の角を指でそっと撫でた。乾いた紙の感触が、薄い沈黙を整える。
「旅が君を成長させてくれることを信じている。再会を楽しみにしているよ」
差し出された白い紙の匂いが淡く流れ、涼しい声の余韻だけが残った。
「もちろん。また会う迄に、あなたに負けないくらい、たくさん知識を蓄えてみせるわ」
吐く息が静かに鳴り、胸郭の内で音が澄んだ。
「ありがとう、みんな。わたし、これからもがんばるよ。いろんな意味で強くなって、いつかこの街に帰ってくるから」
握った手の温度が指の根に残り、決意がじんと熱を持つ。
《《美鶴。あなたは自分が思っている以上に、みんなから愛されているんだよ。それはね、あなたが持っているほんとうの優しさが自然と伝わるから。だから、自信を持って》》
乾いた木床が一度だけ鳴り、肋の内側で小さな光がゆっくり広がった。
「……もう、茉凛ったら」
頬の内側にぬるい熱が差し、息が短く弾む。
◇◇◇
外へ出ると、朝の空気が研ぎ澄まされた刃のように澄んでいた。
ギルドの中の熱気が嘘のように、静寂が満ちている。吐く息が白く揺れ、朝靄に溶けていくのを視線で追う。
石畳に蹄の音が響いた。
愛馬のスレイドが、主人の気配に気づいて穏やかに鼻を鳴らす。近づいて首筋の毛並みを撫でると、生き物特有の温かさと、干し草の乾いた匂いが指先へ戻ってきた。
足元の石がひんやりとして、足裏の感覚が冴える。
「ヴィル!」
呼びかけると、彼は建物の陰で、一人の男と向き合っていた。
鞍革の匂いがふっと立ち、強張っていた肩の力がほどけていく。
ヴィルの前に立っていたのは、古参のハンターであり、彼の古い飲み仲間でもあるレルゲンだった。白髪交じりの髭を蓄えた厳つい顔が、今は穏やかに綻んでいる。
誰かが瓶を鳴らして、喉の奥で笑った。
「旨い酒を揃えてまた帰って来るさ。あんたも身体だけは大切にな」
ヴィルが低く笑う。手には、レルゲンから渡されたらしい小瓶が握られていた。琥珀瓶が触れ合う小さな音が、朝の静けさに溶ける。
レルゲンが大きく節くれだった掌を差し出し、短く息を整えた。
「ではな、ヴィルよ。また会おう。旅先での良き酒と良き出会いを願っておる。……そこのお嬢ちゃんのことも、頼んだぞ」
握手の圧が手首へ伝い、心の芯がすこし温まる。ヴィルは力強く握り返した。
「おう、また飲み明かそう。土産話を楽しみに待っていてくれ」
斜めの陽が二人の肩口を撫で、影が並んで長く伸びた。男同士の、短くも濃い別れの儀式。
「ミツルも達者でな。また会おう」
レルゲンはわたしにも軽く会釈を残し、背を向けて建物の中へ戻っていった。扉が閉まる音が短く響き、あとには澄んだ風と馬の息づかいだけが残る。
やがて静寂を破るように、ヴィルがこちらを見る。にやりとした笑みが、いつもの彼らしい軽やかさを取り戻していた。
わたしは呆れたように、けれど隠しきれない笑みを浮かべて彼を見上げた。
「どうせそんなことじゃないかと思ったけど……裏で手を回していたのは、あなただったのね?」
ベルデンさんのあの演技も、仲間たちのタイミングも、すべてが出来すぎている。みぞおちの奥で穏やかな熱が膨らみ、とげとげしていた声色が自然と柔らぐ。
「まあ、いろいろ考えがあってな。昨夜、レルゲンと酒を飲んでる時に相談して、こっそり準備していたんだ。ベルデンの旦那も『それならば一肌脱ごう』とノリノリだったぞ」
ヴィルは悪びれもせず、肩をすくめてみせる。
「それに、せっかくなら特別な見送りのほうがいいだろう? 『あの時挨拶しておけばよかった』なんて後悔して酒が不味くなるくらいなら、派手にやったほうがいい」
髭油と酒の匂いがかすかに混じり、笑いが喉で転がる。
彼の配慮が不器用すぎて、それでいて温かい。
わたしが頑なに閉ざそうとしていた扉を、彼は強引にではなく、笑い声と共にこじ開けてくれた。
「本当に……あなたってそういうところだけは抜かりがないわね」
風切り音が耳元を撫で、緊張の糸が一段緩む。
「ふっ、これも戦術のうちさ。仲間の士気を維持するのは、指揮官の務めだからな」
言い終えた途端、ヴィルは一瞬だけ視線を逸らした。照れ隠しの仕草だ。肩先が触れそうな距離に温みが差し、指が無意識に丸まる。
《《よかったね、美鶴。ヴィルが仲間になってくれてさ》》
茉凜の冷やかすような、でも嬉しそうな声が頭の芯で弾む。わたしは心の中で、そっと頷いた。
「さてと、ミツルよ――」
ヴィルが革手袋をはめ直し、朝日に向かって顔を上げる。陽の粒が靴先で跳ね、石畳に淡い火花のように散った。
「――旅立つとするか」
その言葉が、始まりの鐘のように響く。
腹の底に静かな熱が灯り、足が自然に前へ出る。迷いはもう、荷物の中に置き忘れてきたみたいに軽かった。
「ええ、いきましょう」
スレイドが小さく鼻を鳴らし、草の匂いを含んだ白い息が頬をかすめた。
ヴィルが手綱を取り、歩き出す。革がきしむ音が一拍遅れて、石畳に落ちる。わたしはその隣に並び、肩の高さだけを合わせた。二人と一頭の靴音が澄んだ空気に溶け、影が長く伸びていく。
中央通りを抜け、大門へと続く道を行く。まだ人通りの少ない朝の街。けれど、先ほどの喧噪の余韻が、背中を温め続けている。
やがて門が近づき、石畳の冷たさが土の匂いに変わる場所まで来た。巨大な石造りの門が、額縁のように外の世界を切り取っている。その向こうには、果てしなく続く荒野と、どこまでも広がる青い空。
そこで初めて、鞍の高さが必要になる。ヴィルが立ち止まり、両手を組んで差し出した。
「ほら」
わたしはその手に足をかけ、身軽にスレイドの背へと飛び乗った。視界が一気に高くなる。屋根の連なり、遠くの山並み、そして足元にいるヴィルの頼もしい背中。世界がぐっと広がり、風の通り道が変わった気がした。
「……やっぱり、高いわね」
「これからは、この高さがお前の視界だ」
ヴィルが手綱を握り直し、前を見据える。わたしは鞍の上で一度だけ振り返った。
朝靄に煙るエレダンの街。わたしを救い、育ててくれた場所。
「行ってきます」
誰に聞かせるでもなく呟き、前を向く。光は影を遠くまで引き連れ、その先の道を祝福するように輝いていた。
「さあ、行こう」
ヴィルの声と共に、スレイドが力強く地面を蹴った。風が髪を巻き上げ、わたしたちは新しい世界へと踏み出した。




