心に咲く別れの花
歩みを進めるたび、石畳の冷たさが革底を通して足裏を刺し、背筋が自然と伸びる。肩に食い込む荷物の重みはじんわりと広がったが、その感覚すら今のわたしには頼もしかった。
革紐がきしみ、荷が一歩ごとに背中へ打ち返される。反動のたびに腹の奥へ熱が残り、知らない場所へ踏み込んでいる証みたいに思えた。
《《美鶴。ヴィルとは、ハンターギルドの前で待ち合わせだったっけ?》》
茉凜の声が頭の芯に届く。明るく装いながらも、どこか不安を帯びた響き。わたしは正面を見据え、吸い込んだ冷気を肺の奥で温めてから答える。
「そうだよ……」
沈黙が落ち、慎重な間合いの後、茉凜がまた口を開く。やわらかな声に切なさが溶けていた。
《《でもさ……》》
朝の静けさに溶けるその声が、ふいに喉の奥で揺れる。
《《ハンターの人たちに旅に出ること、あなた伝えてなかったでしょ?》》
一歩ぶんだけ、足が遅れる。
《《本当にそれでいいの? カイルやエリスにだって黙ったままだし……普通こういうときって、あいさつ回りとかしたほうがいいんじゃないの?》》
置いていかれるみたいな気配が、ゆっくりと食道のあたりをくすぐった。わたしはあえて素っ気なく返す。
「いいのよ。気を遣うのも遣われるのも面倒だから。それに、ここはわたしたちのいた世界とは価値観が違うんだし。だいたい魔獣狩りの最前線に、そんな感傷は似合わないでしょ?」
声は平静を装っていた。けれど、革靴の底に硬さが返るたび、胃の底に迷いがしつこく残った。
路地の角を曲がると、風向きが変わり、どこかの軒先から湿った土の匂いが流れてきた。
《《……わからなくはないけど、わたしはよくないと思うけどな》》
茉凜の小さな抗議は、雨粒が頬に触れるような感触だった。わたしの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「いいの……」
そう言い切ったのに、舌の裏だけがざらついた。
中央通りに差しかかる頃、世界の色が一変した。淡い朝日が石畳に反射して広がり、通りのざわめきが巨大な生き物の呼吸のように耳に響く。
店先では開店準備の店主たちが忙しなく手を動かし、市場の方からは商人の野太い掛け声と、荷車の車輪が石を削る音が響いてくる。焼き上がったばかりの堅焼きパンの香ばしさと、荷馬車が運ぶ乾草の匂いが混じり合い、朝の冷気を熱量で押し返していた。
重い武器を背負ったハンターたちは、軽い足取りで街を後にしていく。その群れの中、屈強な男も、華奢な少女もいて、それぞれが自分だけの物語を懐にしまっているようだった。すれ違うたび、革鎧の擦れる匂いや、手入れされた油の香りが鼻先をかすめる。彼らは今日を生きるために門を目指し、わたしは今日、この場所を去るために歩いている。
わたしはしばし立ち止まり、その光景に目を奪われる。けれど、すぐに自分を叱った。今日この街を離れるのだと。当分、振り返れないかもしれないのだと。
唇を噛みしめ、振り返ることを自分に禁じた。もし一度でも目を戻せば、決意が揺れてしまう気がした。朝陽が眩しく、目を細める。網膜に残る光の粒が、街の記憶みたいにちかちかと瞬いた。
《《みんな、生き生きしてる。……不便なことも多かったけどさ。やっぱり、いい街だったね》》
茉凜の声が、張りつめた肩のこわばりをほどく。わたしは小さく頷いた。
「そうだね……」
雑踏を抜け、やがてハンターギルドの建物の前に辿り着いた。頑丈な石壁と大きな紋章が朝日に淡く輝き、堂々とした存在感を放っている。わたしはひとつ深呼吸をして気持ちを整え、重厚な扉に手をかけた。鉄の冷たさが掌に吸いつく。
懐の奥に指を差し入れると、登録証の紙と木製の認識票が、乾いて冷たく触れた。ベルデンさんに返す。――それだけが、旅立ちへのけじめになる。
◇◇◇
ギルドの重厚な扉を押し開けた瞬間、違和感が全身を走った。
温かいはずの空間は、水底のようにひどく静まり返っていた。耳に届くのは、自分の足音が石床に返る乾いた反響音のみ。いつもなら充満しているはずの喧噪――依頼書の紙が擦れる音、ジョッキがぶつかる音、紫煙と汗の匂いが、きれいに拭い去られている。
空気は冷えて、肌にまとわりつく。
広いロビーには誰の姿もない。受付の前に集まるハンターの談笑も、重装備の金属音も消え、壁の「狩り場マップ」だけが朝の光の中で虚ろに浮かんでいる。
高窓から差し込む光の筋の中で、埃だけがゆっくりと旋回している。その動きさえも、どこかよそよそしい。
無意識に拳を握り、背中の荷物の重みがさらに沈む。肩甲骨がきゅっと寄る感覚だけが、自分を支えてくれる。
《《うーん……。ねえ、美鶴。これって、どういうことなのかな?》》
茉凜の声も不安を含み、普段の明るさを欠いていた。わたしは唇を引き結び、肺の奥の空気を入れ替えてから短く答える。
「……わからない。いったい何があったんだろう? まさか、総出で対処しなきゃいけないような、大変なことが起きたなんてことは……」
声がロビーに吸い込まれ、余韻も残さず消える。
《《だったら、真っ先に美鶴に声がかかるでしょ? 普通に考えてありえないって》》
「じゃあ、この静けさはいったい……」
その時、カウンター奥の扉がゆっくり軋む音を立てて開いた。
蝶番の錆びた音が、静寂を裂くように響く。わたしは思わず肩を震わせる。だが姿を現した人物を見て、息が抜けるように安堵した。
細身で端正な佇まい。厳格な表情を崩さぬまま現れたのは、ギルドマスターのベルデンさんだった。整えられた銀髪が窓からの光を弾き、モノクルが冷たく光る。彼の眼差しを受け、わたしは自然と背筋を正す。
「……これはこれは、ミツルさん。おはようございます」
低く落ち着いた声が静まり返った空間に響いた。その響きは、漂っていた不安の粒を少しだけ引き締める。
「お、おはようございます。ベルデンさん」
わたしは丁寧に挨拶を返し、周囲を見回した。誰もいない受付カウンター。整然と並べられた羽ペンとインク壺。そこにあるはずの「熱」がない。
「どうして、今朝は誰もいないの? いつもと雰囲気が違うからびっくりしたわ」
ベルデンさんは肩をすくめ、冷静な仕草で答える。
「さて、私も存じません。ですが……たまにはよいものでしょう? 普段は頭が痛くなるほど騒々しいですから、この静寂は貴重ですし、案外乙なものです」
その返事を受けた途端、背中の荷がもう一段沈む気がした。
彼の視線が、ほんの一瞬だけこちらを避けた。手元の書類へ落ちたその目が、必要以上に長く留まる。普段、この街の情報のすべてを把握しているはずの彼が、本当に知らないのだろうか。わたしは思わず首をかしげた。
《《いやいや、やっぱり変だよね? あの真面目で几帳面なベルデンさんが、『存じません』だなんて》》
茉凜の囁きが喉の奥をざわつかせる。
深呼吸をして心を鎮め、わたしは意識的に軽い調子で返した。ここでの用事を済ませてしまわなければ、足がすくんでしまいそうだったから。
「まあ――それはいいとして」
ベルデンさんに向き直り、懐から取り出した物を差し出す。
使い込まれて角が丸くなった羊皮紙の登録証と、小さな傷が無数に入った木製の認識票。
「ベルデンさん、今日わたし、エレダンの街を出る予定なの。だから、もうハンター業は休止……いいえ、一旦区切りをつけることにしました。これはお返しします……」
登録証と木製の認識票。流れ者のわたしにとって、この街での居場所を保証してくれる唯一の証だった。
初めてこれを受け取った日の、木の香りと重みを思い出す。あの時はまだ、自分がここで生きていけるのかすら分からなかった。
手放すとき、指先がわずかに震えた。木肌の温もりが、指の腹から剥がれ落ちていく。
ベルデンさんは黙ってそれを受け取り、骨張った長い指でしっかりと握りしめる。その瞳の奥に一瞬、揺らぎが宿った気がした。
「なるほど、それで大きな荷物を担いでおられるのですね」
背負う荷に視線を移し、彼は厳格さを崩さぬまま小さく頷く。カウンターの木目が、彼の手元で静かに光っている。
「大変残念です。あなたのような頼れる方を失うことは、当ギルドならびにこの街にとって大きな損失となりますからね……」
その言葉が、温かさと惜別を含んで胸の底へ沈んだ。
引き止めてくれる言葉が嬉しい。けれど、それに甘えてはいけない。わたしは首を横に振る。
「突然なことで、ごめんなさい。けど、これはもう決めたことだから」
「ですが……苦楽を共にした皆さんに何も告げず、このまま去られるおつもりですか?」
「……ええ、そのつもりよ」
声がわずかに震えた。すぐに深く息を吸い込み、揺らぐ決意を必死に押さえる。靴の中で足の指を丸め、床の感触を確かめる。冷たさが、迷いを断ち切る刃になってくれればいいのに。
「そうですか、しかし……」
ベルデンさんの声が途切れ、眉間に深い皺が刻まれる。その表情に、珍しく迷いが見えた。
「しかし……?」
わたしは続きを促す。鼓動が速まり、指先にまで脈打つ。静寂が痛いほど耳に圧力をかけてくる。埃の舞う速度まで遅くなった気がした。
その時、彼はふいに口元を和らげた。普段の厳しさとは異なる、穏やかな笑みだった。
「それを聞いて、はたして皆さんがなんと言うでしょうかね?」
「で、でも……」
――だって、余計に辛くなるだけだから……。
まぶたの裏が熱くなって、言葉が喉まで上がったのに、舌の先で空回りした。ベルデンさんの視線が、わたしの背後へ――入り口の大きな扉のほうへ向けられる。
空気が、ひとつ分だけ止まった。
次の瞬間、ギルド奥の両扉が一斉に開く。
ドアンッ、と重たい木が軋む音。堰を切ったように朝の光が流れ込む。硬い靴底の群れが一気に床を叩き、地鳴りのような響きが跳ねた。
「「「ミツルぅぅぅぅぅぅぅぅッ!!!」」」
押し寄せる人の体温に混じり、革と埃、そして昨夜の酒の匂いが満ちてくる。
姿を現したのは、大勢のハンター仲間たちだった。
カイルが、エリスが、フィルが、マティウスが――見知った顔が、波のように押し寄せてくる。笑顔、驚き、憤慨、そして惜別の色を浮かべて、全員がこちらを見つめていた。
視界の縁が熱を帯び、景色がにじんでいく。思考が白く飛び、頬に熱が一気に上った。わたしは思わず両手で口を覆った。
「えっ、えーっ!? な、なによそれっ!?」
自分の声が裏返って震えているのがわかる。
仲間たちのざわめきが、ロビーを満たす朝の光と混ざり合い、肋の奥をきゅっと締めつけていった。




