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旅立ちの朝と温かなパン

 紙箱の縁が、指の腹に乾いた痛みを残した。


 出発までの数日は、本当に目が回るようだった。街の人たちへの挨拶もそこそこに、最後に立ちはだかったのが、この部屋の片付けという難題だった。


 半年余り暮らした部屋は、すでに生活の残骸で埋もれている。棚には雑多な小物がひしめき、床の上には色とりどりの小箱が、午後の日差しを受けて長い影を落としていた。


 何から手をつければいいのか分からず、わたしは部屋の中央で立ち尽くしてしまう。指先に積もった薄い埃のざらつきが、躊躇をなぞった。


 机の上の箱は、まだ半分も埋まっていない。詰めては止まり、止まっては詰める。その繰り返しの中で、次の小物へ指を伸ばした。


 手近な机の端に置かれた木彫りの飾りに、そっと触れかける。木の冷えが指先へ移って――すぐに、茉凜の声が頭の芯で跳ねた。


《《ちょっと待って! それだけはダメ!! 捨てるの絶対にダメ!》》


 指が宙で止まり、影だけが机の上を揺れた。


 捨てる、という動作が怖いわけじゃない。怖いのは、捨てた瞬間に、自分の中の何かまで軽くなってしまいそうなことだ。


 前世のわたしは、弟の身体を借りて生きていた。借り物であるという遠慮と、いつ消えるかわからない恐怖の板挟みのまま、物を抱える理由を失っていた。持っていけないと知っている者は、手放すのが上手になる。


 茉凜は逆だった。世界の手触りを、ひとつも取りこぼしたくないみたいに笑っていた。美鶴として彼女と向き合えたのは、取り返しのつかない、ほんの一瞬だけ。それでも、その一瞬が、今もこの手を引き止める。


「これ?」


 わたしは掌サイズの木彫りのうさぎを持ち上げて、問いかける。細やかな木目をなぞるたび、茉凜が《《かわいい!》》と嬉しそうに声を上げた日のことを思い出す。


《《そう、それ!》》


 弾む声が、鼓膜の内側を打つ。


《《これがないとさ、なんか落ち込む気がするんだ……》》


 わたしは短く息を吐く。肋の内側で、未練と現実が静かにせめぎ合う。


「わがまま言わないの。いい? わたしたちはこれから長い旅に出るんだよ。荷物はできるだけ軽くしないと、スレイドがかわいそうじゃない。大事に思うのは分かるけど、できるだけ嵩張るものは……」


 持ち上げてみせると、手首がわずかに沈んだ。


《《でも、でも……!》》


 拗ねた響きが返ってくる。


《《思い出が詰まってるんだよ? 捨てたら全部消えちゃうみたいで……嫌だ》》


「そんな、子供じゃないんだから、駄々こねないでよ……」


 額に手を当てる。窓の外から、パン屋の朝の匂いを含んだ風が、すうっと入ってきた。


「わかったわよ、茉凜。どうしても捨てられない、ってものだけ厳選して? さすがに全部は無理だから」


 なるべく柔らかな声で伝えた。沈黙が落ち、拗ねた空気が漂う。


《《わかった……少しだけ妥協する……けどっ!》》


 茉凜の声が、ひとつ跳ねる。


《《超・厳選するから、ひとつひとつチェックさせてよ》》


 返事の前に、指先の力が抜けてしまう。


「う、うん……。ほんとに厳選してよ?」


 わたしは木彫りのうさぎを小箱に納め、静かに肩の力を抜いた。紙箱のふちが手のひらにさらりと触れる。擦れた紙の肌に、古い糊の匂いが薄く残っていた。


 縁の粉が指先に残り、白い筋がひとすじ走った。


 もともと、わたしは物にこだわらない。役目を終えれば元の場所へ戻すか、迷わず手放してしまうほうだった。


 紙の匂いに引かれて、ふと柚羽家の蔵がよぎる。限界集落のさらに奥、携帯の電波は届かず、テレビは衛星放送が関の山で、ネットもない。深淵の巫女として家督を継いでからは、本好きだった母・紫鶴の遺した蔵書の山に埋もれて過ごした。


 活字だけが友だった。物語の中には無限の世界があったけれど、現実の手触りはいつも希薄で、紙をめくるたびに指先が白くなる感覚だけが確かだった。


 だからこの世界に転生してからも、明確な目的と用途――それさえあれば足りるはずだった。


 けれど、茉凜は全然違う。


《《あーっ! これも捨てたらダメ!》》


 脳内で響く叫び声に、わたしの肩がびくりと跳ねた。手に持っていたのは、市場で「なんとなく目が合ったから」という理由だけで買わされた、歪な形をしたガラス玉だ。


「……これって、ただのガラスくずじゃない。持って行っても荷物になるだけよ」


《《違うってば! それは『太陽の涙』なの! 光にかざすとすっごく綺麗なんだから。旅の途中で寂しくなったら、これを見て元気出すんだよ》》


「元気出すって……」


 わたしは溜息をつき、ガラス玉を窓からの光にかざしてみた。気泡の混じった硝子の中で、光が乱反射し、小さな虹が壁に落ちる。


 綺麗だとは思う。けれど、それは「必要なもの」のリストには入らない。


《《ほらね、綺麗でしょ? 美鶴の心にも虹がかかっちゃうよー》》


「あー……はいはい。じゃあ、これは保留」


 わたしは渋々、それを「持っていくもの」の山へ移した。ガラスが硬い音を立てて木箱の底へ転がる。


 茉凜は何でも興味津々だ。小さな髪留め、光るアクセサリー、木彫りのぬいぐるみ、変わった形の石ころまで、見かけるたびに《《あ、これ欲しい!》》と声を上げる。わたしが「そんなもの無駄だよ」と諌めても、彼女は《《気持ちが明るくなるじゃん!》》と笑ってみせるのだ。


 机や棚の上には、彼女が集めた宝物のようなガラクタが、いつの間にか積み上がっている。


 リボンが巻かれた小瓶、素朴な刺繍の入ったハンカチ、乾いた木の実、誰かがくれた手作りの栞。その色とりどりの景色は、どこか夢のようで――けれど、まだ自分には馴染まない気がしていた。


 わたしは次に、少し色あせた赤いリボンを手に取った。


「これ……いつ買ったんだっけ」


《《ええっ、忘れちゃったの? ここの街に来てすぐ、露店で買ったやつじゃん! あの時、美鶴が『髪を結ぶのにちょうどいい』って言って選んだのに、結局一度も使ってないんだから》》


 茉凜の声に、記憶の蓋が開く。


 そういえば、そんなこともあった気がする。あの頃はまだ、この街に馴染むのに必死で、おしゃれなんて考える余裕もなかった。ただ、露店の賑やかさと、茉凜の浮き足立った声に押されて、つい財布の紐を緩めたのだ。


 布の感触を指の腹で確かめる。安物の生地特有の、少し硬い手触り。


「……置いていこうかな。どうせ使わないし」


《《むぅ……。美鶴ってば、ほんとに実用性一辺倒なんだから。せっかく可愛いのに》》


「わたしに色気なんて必要ないわよ。魔獣相手にリボンを見せびらかしてどうするの」


《《魔獣相手じゃなくて、ほら、ヴィルとかさ! たまには可愛く結って見せたら、彼だってドキッとするかもよ?》》


 茉凜のからかうような響きに、耳の付け根がじわりと熱くなる。


「何言ってるんだか……。どうせ『子供らしくて可愛い』とかじゃないの? そんなものよ」


 箱の縁から指を離した拍子に、底のガラスがかちりと鳴った。拳を作って、指先の奥の熱を握り込んだ。


 わたしはリボンを丸め、わざと雑に箱へ放り込んだ。


《《あ、入れた。なんだかんだ言って、持っていくんじゃん。素直じゃないなぁ》》


「……予備の紐として使えるかもしれないと思っただけ」


 言い訳が空気に溶け、部屋の埃といっしょに漂う。


 作業は遅々として進まない。小物をひとつ手に取るたびに、茉凜との記憶がほどけて、すぐ《《捨てないで》》が飛んでくるからだ。


 それでも声が跳ねるたび、胸の奥の硬さが一枚ずつゆるんでいく感覚があった。気づけば「案外、悪くないかも……」と、口の端から小さくこぼれている。たぶん、それが『小さなミツル』の感情の欠片なのかもしれなかった。


 指先で埃を払うたび、紙粉がわずかに舞って、鼻の奥に薄い匂いが残る。残す、と言われたものだけを箱の奥へ滑らせると、茉凜の笑いが、頭の奥で小さく揺れた。


 一日が傾く頃、箱はいくつか机の端に並び、抱える腕の内側に、紙越しのぬくさが戻ってきた。


◇◇◇


 旅立ちの朝。


 窓の隙間から射し込む光が、使い込まれた木のテーブルに斜めの線を引いていた。空中に舞う埃が、朝陽を受けて金色の粒になり、ゆっくりと旋回している。


 宿のおかみさんは、いつもと変わらぬ朝食を用意してくれた。湯気の立つスープ、焼き色がついたパン、そしてゴードンが持ち込んだ少量の果実。これが最後だと思うと、半年間繰り返してきた当たり前の光景が、急に縁取りを濃くして迫ってくる。


 匙を口に運ぶ。野菜の甘みが溶け込んだミルクの風味が、舌の上で優しくほどけた。パンの香ばしさも、スープの温さも、一口ごとに喉を通って、記憶みたいに沈んでいくようで、胸の奥が小さくきしんだ。


《《……この味とも、しばらくお別れなんだね。特別美味しいわけじゃないのに、なんかほっとしてさ。味噌汁みたいな、そんな感じ》》


 茉凜の声が、頭の芯で静かに響く。いつもなら「早く食べようよ!」と急かす彼女も、今朝ばかりは少し湿り気を帯びていた。


「そうね……」


 小さく呟き、最後の一欠片を口に含む。咀嚼するたびに、この宿で過ごした日々が蘇る。初めてこの街に来て、不安で押し潰されそうだった夜。疲れ果てて帰ってきた夕暮れ。何でもない日に、この食堂でぼんやりと外を眺めた午後。


 それらすべてが、胃の腑にゆっくり落ちていく。


 食器が空になる音を見届けて、わたしは席を立った。椅子の脚が床を擦る音が、しんとした食堂に響く。


 厨房の奥から出てきたおかみさんが、布巾で手を拭いながらこちらへ歩み寄ってきた。エプロンの紐が、使い込まれて柔らかく揺れている。


 彼女はわたしの前に立ち、真剣な眼差しで見つめてきた。目尻の笑い皺が、今は少し寂しげに下がっている。


「あんた、本当に行っちゃうのかい? なんだか……急に寂しくなるねぇ」


 みぞおちがひやりと沈み、返事が遅れた。この半年の笑顔が一瞬にして浮かび、言葉が喉の手前で詰まる。


「はい……。いままで本当にお世話になりました」


 ようやく口に出す。唇の裏を噛んで、笑みの形だけ作った。木椀の縁に残っていた熱が、指先からふっと退く気がした。


「この半年もの間、ここは我が家のように落ち着ける場所でした。おかみさんにはずいぶん良くしてもらって……なんとお礼を言ったらいいか」


 言葉を重ねるほど、それが別れの合図になってしまうのが怖かった。けれど、伝えなければならない。


 わたしは想いを込めて深く頭を下げた。身体が覚えている角度で、息だけが一瞬止まる。


 おかみさんは多くを聞かず、優しく笑んでくれる。


「……そうかい。なら身体にだけは気をつけてね。あんたはしっかりしているようで、どこか危なっかしいところがあるから」


 母のような声に背を押される。その響きに、目頭が熱くなりかけた。


「はい、ありがとうございます」


 頭を上げた瞬間、視界の端がわずかに潤んでいるのを悟られないよう、わたしはあえて姿勢を正した。


 その姿に、おかみさんはくすりと笑った。


「あんたね、そんなにかしこまる必要ないよ。前にも東の大陸から来た客がそうしてたけど、ここじゃ珍しい。ほら、肩の力を抜きな」


 やわらかな掌が、わたしの肩をぽん、と叩く。


 その軽やかな重みに救われ、息を吐く。張りつめていた肩の奥の力が、ようやく抜けた。


「そうですね。……つい、癖で」


「まったく、律儀な子だねぇ」


 おかみさんは呆れたように笑うと、ふと思い出したように「おっと、忘れてた」と声を上げた。小走りで厨房へ戻っていく。皿が触れ合う乾いた音がすぐ遠くで鳴り、やがて戻ってきた手には、二つの膨らんだ紙袋が握られていた。


「これを持っていきな。今朝焼いたばかりのパンだよ。数日分にはなるからさ、旅の糧にしておくれ」


 差し出された袋を受け取る。


 袋はまだ温い。口を絞る紙の隙間から、酵母と小麦の甘い匂いがほのかに漏れた。その匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、肩甲骨の内側が静かにほどけた。


《《わぁ! おかみさんのパンだ! やったね美鶴!》》


 茉凜の歓声が、湿っぽくなりかけた空気を明るく弾く。


「ありがとう、おかみさん。……嬉しいです」


 紙袋のふくらみが、手袋越しの掌にやわらかく当たった。ただの食料ではない。彼女の想いそのもののような重みだった。


「礼には及ばないよ。あんたが美味しそうに食べてくれる顔を見るのが、私の楽しみだったんだからさ」


 おかみさんは目尻を細め、静かに頬をゆるめた。その表情を見ていると、舌の裏がきゅっと乾いた。


 椅子の軋みも、木の卓の擦り傷も、ここで交わした何気ない声も、ひとつずつ身体に染みてしまった。言葉にした途端、全部が一度きりになりそうで怖い。


 だから、息を鼻へ逃がして、いったん飲み込む。


 代わりに、ちゃんと戻ると決めた言葉を差し出した。


「わたし、必ずまたここに帰ってきます」


 誓うように告げる。


 おかみさんは少し驚いたように目を見開き、それから深く頷いた。


「ああ、必ず戻ってくるんだよ」


 その声が、じんわりと体の奥に染みた。背負った荷物の重みと、手にした紙袋のふくらみ。その両方を抱え直すように、わたしはもう一度、深く頷いた。


「それじゃ、行ってきます。おかみさんもお体に気をつけて」


 おかみさんも笑顔で返す。


「ああ、行ってらっしゃい」


 その言葉が、見えない手となって背中を押す。わたしは扉を押し開け、外の世界へと踏み出した。


 朝の冷気が、火照った頬を撫でる。街はすでに動き始めていた。荷車の車輪が石畳を転がる音、商人たちの掛け声、遠くで鳴く鳥の声。それらすべての喧噪が、新しい旅の始まりを告げている。


 振り返らず歩き出す。紙袋から立つパンの匂いが、歩き出す背中に小さな灯をともすようで、振り返らぬ道の先まで、そのぬくもりは途切れなかった。


 空は高く、どこまでも青い。吸い込んだ空気は冷たかったけれど、肺の奥は不思議とほどけていった。

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