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リーディスの風に抱かれたい

 耳元に落とした名が、湯気の膜にひっかかって、ゆっくりほどけていく。


「マウザーグレイルか……。いい響きだ。なんとなくだが、こいつに似合う気がする」


 ヴィルの声は低いのに、刺を残さない。机の木目に一度触れて、すっと落ち着いた。わたしは息をひとつ、静かに戻した。


「うん。……わたしも気に入ってる」


 名を呼ぶたび、わたしと茉凜、それからこの世界で出会った家族の輪が、ほどけずに結び直される。いまはそこに、ヴィルの影も重なっていく。小さな、おまじないみたいに。


《《ちゃりーん! 『つよいけんしがなかまにくわわった』。ほらね、悩むことなんて何もなかったでしょ?》》


 ひんやりしていた空気が、その一声でふっとやわらぐ。湯の白が少しだけふくらみ、机の端の影がやわらいだ。頬の内側が勝手に緩んだ。


「茉凜、本当に楽しそうにしてる……。これでヴィルも、仲間……」


 言いながら、肋の奥に沈めていた息が、少しずつ戻ってくる。


 長いあいだ、秘密はひとりの体温で抱えるには重すぎた。歩くたび、同じ場所が擦れて痛む、終わりのない旅路のよう。けれどヴィルが隣にいてくれると、同じ重さでも、形が変わっていく。


 ぜんぶを語れるほど強くはない。舌の上でまだ引っかかる言葉もある。――それでも、ここに「聞いてくれる人」がいる。そう思えるだけで、肩がわずかに下がった。


 わたしはそっとマウザーグレイルを抱きしめる。柄の冷たさが掌に残り、目を閉じると、茉凜の輪郭が胸の奥に立ち上がる。笑っている気配だけが、刃の内側から返ってきた。


 そんな時、ヴィルがわたしの持つ剣をじっと覗き込む。


「その『マリン』ってやつは、俺のことが見えているのか? 話している声も聞こえているのか?」


「もちろん。わたしの目と耳を借りて、ね」


 そう言って、自分の目と耳を指さしてみせる。指先が空を切り、すぐ膝の上へ戻った。


「ほう……」


 ヴィルは少し驚いたように目を見開き、再びマウザーグレイルに視線を戻す。半信半疑の薄い影の下で、好奇心だけがはっきり光っていた。


《《ヴィルったら、まだ狐につままれたような顔してるね》》


 茉凜の声が、胸の中で弾む。新しい仲間に出会えたことが、彼女の喜びの速さで伝わってきて、わたしは思わず息を漏らした。湯の匂いが、その吐息をすぐ飲み込んでくれる。


「茉凜はね、わたし以外の誰かに直接話しかけることはできないけど、ちゃんとこの中で生きているの。わたしが触れるものを一緒に感じて、風の匂いや食べ物の味だって分かるのよ。もちろん、お酒を飲めば一緒に酔うんだけど……悪酔いすると都合よく感覚を切って逃げちゃうの。ひどいよね?」


 言葉が止まらない。嬉しさが、湯の温みみたいに勝手に立ち上ってしまう。


「ははは、そいつはひどいな。だが、面白いじゃないか」


 ヴィルは笑いをこらえながら、肩をすくめる。


「面白くないわよ。わたしだけ二日酔いだなんて、ずるいんだから」


「まあまあ、そう言うな」


 ヴィルはなおも可笑しそうに、その目尻を和らげている。わたしもつられて、息だけで小さく笑った。


「……でもね、茉凜はわたしが傷ついたときも、痛みを分け合ってくれるの。息が詰まるみたいな苦しさも、背骨が冷える驚きも、――言葉にする前に走る熱も……全部、同じように一緒に感じてくれてるの」


 言ってしまったあとで、胸の奥がしんとする。湯の香りの中で、ヴィルの視線がわたしから外れず、まばたきの回数だけがゆっくりになった。


 わたしは続ける。誰かに向かってこの話をするのは、初めてだった。


「茉凜はね、こう言ってくれたの。『わたしたちはふたつでひとつのツバサ』なんだって。辛いことや悲しいことがあっても、『ふたりではんぶんこ』にしようって……」


 湯飲みの縁に残る熱が、指の腹へじんわり移る。わたしはそれに縋るみたいに、肩を少しだけ落とした。


 茉凜が言った「はんぶんこ」は、甘い約束じゃない。転びそうになった瞬間に、背中へ手のひらを置くみたいな言葉だった。泣いていい、と言う代わりに、呼吸を整えてくれる。わたしが崩れない場所を、先に作ってくれる。


 だから――。


 ヴィルはくすっと笑ってこう言った。


「そいつは一心同体ってやつだな。いい相棒じゃないか」


《《ブーッ!!》》


「違うよ!」


 わたしたちは二人同時に反論した。


 声が重なった瞬間、顔が熱くなる。わたしは視線を落とし、剣柄を握り直した。握り直した指の腹に、冷えがきちんと残っている。


 相棒、という札は便利すぎる。便利だからこそ、落としたくない。彼女の温度は、仕事の言葉では測れない。


「じゃあなんなんだ?」


 そう問われると、急に落ち着かなくなる。言葉の置き場所が分からない。恋と呼べば違う。家族と呼べば足りない。姉、もしくは妹という響きは近いのに、血縁の匂いが混ざってしまう。


「それは……と、とにかく、茉凜は相棒なんかじゃ収まらないわたしの一番で、とても大切な人で……うまく言えないけど……」


 言いながら、自分の声が少しだけ子どもっぽく聞こえて、悔しい。伝えたいのに、伝えれば伝えるほど軽くなる気がして、口の奥が乾いた。


「そうか……聞くだけ野暮だったか」


 ヴィルの低く含みのある声に、なぜか心が揺れた。軽く流すふりをして、その奥で、何かを見透かしている響きがある。わたしの指が無意識に刃の近くへ寄って、すぐ引っ込む。


――そういうのとは違うって、言い切れたら楽なのに。


 金色の光の中で、指を絡めて、約束した。冗談に見える言葉ほど、本気だった。あの熱は、いまも消えていない。


 けれど、転生したわたしたちは、もう触れ合えない。茉凜は剣の奥へ、美鶴はミツルという少女の中へ――形を変えたまま、同じ場所に立っているだけだ。


 ミツルの胸の底で、母の姿がときどき揺れる。あの声、あの手つき、部屋の空気を整えてしまう温度。


――いつか、母さまみたいな素敵なお母さんになりたい。


 その願いがあまりにまっすぐで、わたしは誓ってしまう。ミツルを不幸せにはしない。せめてここからは、この子にだけは「ちゃんと生きる」を渡したい。


 だから今のわたしたちは、恋の箱にも、相棒の札にも収まらない。ひとつの席を分け合って、同じ方向へ進むだけの――盟友、とでも呼ぶしかない関係だ。


 わたしは視線をそっと反らし、静かにマウザーグレイルを見つめた。白は黙っているのに、黙りきれない気配だけがある。


 ヴィルが小さく咳払いをする。その一息で、張りつめていた空気がふっとほぐれた。


「それはいいとして、話を本題に戻そう。――最初に向かうべき目的地をどこにするかだ」


 話題を変えてくれたことに、胸骨の裏でこわばっていたものがほどける。これ以上踏み込まれたら、わたし自身が自分の言葉で迷子になりそうだった。


「そ、そうだね……」


 わたしは照れ隠しのように小さく頷き、手元の地図へ目を戻した。羊皮紙のざらつきが指先に残り、乾いたインクの匂いがかすかに鼻をくすぐる。粗く引かれた線と記号が、旅路の険しさを黙って語っていた。


 けれど、わたしの心の中では、もうひとつだけ大きい名前が鳴っている。地図の南側、山脈の向こう。海岸線と平原を抱く国。


 ――その名は「リーディス王国」。


 口を開きかけて、息が細る。思いが強すぎると、声はかえって小さくなる。ヴィルはそれに気づいたのか、湯飲みへ一度視線を落として、黙って待ってくれた。


「実はわたしね、リーディスに行ってみたいと思ってるの……」


 戸惑いを押し込めて、決意だけを口にする。


「うむ……」


 ヴィルは腕を組み、険しい表情で深く考え込んだ。沈黙が落ちて、湯の白が細く揺れる。やがて彼が重々しく口を開いた。


「それで、行ってどうするんだ? 何をするつもりだ?」


 言葉は短いのに、逃げ道がない。視線が、わたしの顔の奥を確かめている。父は母――メイレア王女を誘拐した指名手配犯。その娘であるわたしが「リーディス」に足を踏み入れることの危うさを、彼は数えている。


 わたしは首を振った。振り方が急で、髪が頬を掠める。


「ああ、誤解しないでね。別に何かしでかそうだなんて思ってないから。真相が不明である以上、父さまの無実を証明するだなんて息巻いたところで、どうにもならないってことはよく理解しているつもりよ。ただ……」


「ただ?」


 ヴィルが首を傾げて問い返す。そのまっすぐな視線に、自分の理由の頼りなさが浮かび上がる。こんな理由でいいのか、と口の奥が痺れる。


 それでも抑えられない。胸の奥で増えた熱が、言葉の形を探してしまう。


「……笑わないでよ?」


「笑うものか」


「その……一度でいいから、母さまの故郷を、この目で見てみたいの……」


 口にした瞬間、みぞおちのあたりがざわめき、肩がこわばる。反対される――そう身構えたのに。


 ヴィルはわたしの心配を裏切るように頬を緩ませた。柔らかくて、息が戻る笑みだった。


「そうか。それがお前の願いなら止めはしない。むしろ、俺は行くべきだと思う」


 驚いて、わたしは思わず顔を上げる。ヴィルの眼差しは穏やかで、わたしの揺れをそのまま受け止めてくれる。


 言葉が震えそうになって、わたしは湯飲みの縁を指で押さえた。熱が指先に移って、ようやく地面に立てる。


「ありがとう、ヴィル。わたし、母さまが見ていた景色や感じていた風……それをどうしても確かめたいって、ずっと思っていたの」


 ヴィルは頷いて、静かに言葉を紡ぐ。


「……その気持ちを大切にしろ。母親の生まれ故郷を知ることは、きっとお前自身を知ることにも繋がるはずだ」


「うん……」


 返事は小さい。でも、逃げない。


 わたしは地図の南を指先でなぞり、紙の上の山脈を越えた先に、まだ見ぬ海の匂いを想像した。


「それに、リーディスに行けば、この先どうしていけばいいのか、その何かが見つかるような気がするの」


 ヴィルは腕を組みながら、理路整然と続ける。


「よかろう。それなら賛成だ。リーディスは中央大陸屈指の大国であり、海に面した王都は交易の中心地でもある。世界中から集まる物産や、情報だって容易に手に入る。港からは他の大陸へ向かう船便だってあるし、旅を進める上で、最初に踏む場所としては、悪くないだろう」


 説明の硬さが、いまは頼もしい。わたしは小さく頷いた。


「そうだね……きっと何らかの手掛かりが見つかるはず」


 地図の上を乾いた風が通り抜け、紙の端をかすかに揺らした。湯の白が一瞬だけ細く裂ける。


「だが――」


 ヴィルの表情が引き締まり、わたしの呼吸もつられて浅くなる。


「一つだけ問題がある」


「リーディスは栄えた国だが、それゆえ警備や監視も厳重だ。特に王都は、外からの侵入者や旅人に対して敏感だ。無計画に入り込むのは危険だし、不審者扱いされる可能性だってある。それと――」


「それと?」


 ヴィルは少し眉を寄せ、わたしの顔を真剣に見つめた。


「お前のその漆黒の髪が少し厄介かもしれん……」


「ええっ?」


 不意に指摘され、わたしは自分の髪へ手をやった。指の間をすべり落ちる黒が、冷たく静かだ。母から受け継いだものなのに、光の下では目立ちすぎる。


 ヴィルの声は落ち着いていたが、言葉の選び方に慎重さが滲む。


「リーディスでは、特定の髪の色に対して強い偏見があるんだ。特に黒髪は、古い伝説や忌まわしい神話に絡んでいることが多くてな……。特に王都近辺では、黒髪を持つ者が何かしらの災厄をもたらす、と今も信じられているんだ」


 湯の温度と逆向きに、みぞおちがひやりと沈んだ。けれど、そこに留まる気はない。


 わたしは髪から手を離し、ヴィルを見た。


「そう……でも、それでもわたしは行くよ」


 ヴィルは静かに頷いた。覚悟を確かめる目だった。


「……わかった。それについては、リーディスに入るまでに手立てを考えよう」


 彼は思案するように腕を組む。


「たとえば黒髪を目立たなくする方法や、髪を隠すための工夫を考えればいい。変装用の道具や、使える小細工だって準備できるだろうからな」


 胸の奥に、細い光が一本だけ通る。わたしは息をつき、湯飲みをそっと置いた。陶の熱が、指先に小さく残った。


「そうだね。そうしよう。ありがとう、ヴィル」


 重ねて礼を言うと、彼はわずかに口角を上げて微笑んだ。


 そして、少し楽しそうに続ける。


「それとだな、リーディスはなんといっても飯がうまい。新鮮な魚介に、肉汁溢れる肉料理。世界中のありとあらゆる土地から集められた調味料や香辛料。それに、酒だって最高のものが手に入るんだ。どうだ、悪くないだろう?」


 緊張が解けきらないまま、笑いが先に漏れた。


「もう……結局、お酒の話になるんだから」


 からかうと、ヴィルは少し肩をすくめてみせる。その仕草があまりに自然で、わたしの背中のこわばりがほどけていく。


《《よーしよし。美食がわたしたちを待っている! あー、待ちきれない!》》


「まっ……」


 湯飲みの縁が指に触れて、かちりと小さく鳴った。茉凜の声が心の中で跳ねる。口元を押さえた指が、勝手にほどけそうになる。


 湯の白の向こうで、ヴィルが「そうしよう」と頷き、いたずらっぽく目を細める。わたしの胸の奥がくすぐったくなる。


 不安が消えるわけじゃない。けれど、ひとりで抱えていた頃の暗さとは違う。小さな灯が、消えずに残っている。


 地図の上の一本の線を、わたしはもう一度指で辿った。


 そこから先へ、わたしたちは歩いていく。湯の匂いと紙のざらつきが、まだ手の中にあるうちに。

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