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この剣の名前はね、マウザーグレイルっていうの

 ヴィルはその仕草を見て、わたしの指先から剣へ視線を移し、真剣に頷いた。


「そうだな。まず、その剣にまつわる謎を探ることが最優先だろう。以前お前から聞いた話からしても、メイレアの消失に関わっている可能性は高い。ユベルが最後のその時まで手放さなかったことから考えても……」


 ヴィルは低く言葉を切り、刃へ視線を落とした。湯の匂いが間に入り、白の輪郭だけが静かに浮く。


「それと、謎はそれだけじゃない。作りがどう考えても普通じゃないからな」


 その声は部屋の静けさに沈み込み、わたしの指先までじわりと伝わってきた。掌に残っていた布の温度が、少し遅れて引いていく。


「わたしは剣のことは詳しくないけど、そうなの?」


「ああ。握りの柄巻以外、すべて真っ白な剣なんて見たこともない。しかも、俺の見立てでは、刀身、鍔、柄頭のどこにも継ぎ目がない。まるで単一の素材から叩き出されたかのようだ。どうやったら、こんなものが作れるというのか……。しかもだ。ロングソードに匹敵するサイズでありながら、ショートソードよりも軽いなど、ありえない。いったい、どんな材質で出来ているというんだ……」


 興味と警戒が交じった眼差しで、彼は白い剣を凝視していた。


 わたしはそっと剣を持ち上げ、掌に重みを確かめる。重いはずのものが落ちてこない、その不自然さだけが静かに残った。窓からの光が刃をかすめ、滑らかな曲線に淡い輝きを落としている。どこにも境目はなく、ひとつの塊のように繋がっていた。


「言われてれば、たしかにそうね。でなければ、非力なわたしが扱えるわけがないわ」


 口にした「非力」が、舌に小さく引っかかった。剣の冷たさが指の腹からすうっと上がり、震えがほんの少しだけ手首へ回る。


 この剣がわたしにとって、どれほど大切なものか。言葉にできるのは、それだけだった。触れられたくない、という幼い独占欲が、口の奥で小さく鳴る。


 その時だった。


《《やだな、ヴィルったらじろじろ見て。ねぇ、美鶴。この剣の正体、わかってる範囲で明かしちゃってもいいんじゃない? さすがにわたしのことは信じてもらえないかもだけどさ》》


 湯の熱がゆらぎ、刃の白が一瞬だけ薄く霞んだ。


 母が剣を抱きしめていた横顔が、まぶたの裏に差し込む。袖口の布が指先にやわらかく触れて、畳の編み目の硬さが足裏に戻る。


 ヴィルは真剣に剣を見つめたまま、息を詰めていた。


 彼にこの真実を告げることが、どれほどの重さを持つのか――背筋の奥に石を抱え込んだようで、言葉が口の中で止まる。呼吸だけが浅くなり、唇の裏がひりついた。


 茉凜は、わたしの迷いを見抜いたのか、からかうように、それでいて優しく囁いた。


《《大丈夫、ヴィルならきっと受け止めてくれるよ。もう美鶴一人で抱え込む必要なんてない。彼はもう、わたしたちの仲間なんだから》》


 剣柄の冷たさが、汗ばんだ掌から熱を奪っていく。わたしは息を整え、その熱をこぼさないように唇を結ぶ。


「ヴィル?」


「ん、なんだ?」


 彼は静かにわたしを見て、気配を感じたように返事をした。目の色が、剣の白からこちらへ戻ってくる。


「実は……あなたにずっと黙っていたことがあるの」


 ヴィルは余計なことは言わず、じっとわたしを見つめる。湯飲みの陶が、机の上でかすかに鳴った気がした。


「うむ……」


 わたしは一度唇を噛み、迷いながらも言葉を継いだ。


「あなたにだけは打ち明けるべきだと、思っているの。父さまと母さまに『誰にも明かしてはならない』と言われていたこと以上の、もっと……大きな秘密を」


 言い切るほどに、息がきゅっと細くなる。剣柄を握る指だけが白くなり、冷えが骨の方へ入っていく。


「訳ありなことは、なんとなくわかっていた。……家族の絆である以上の、何か特別な意味があるんだな?」


 ヴィルの声音が、低く確かに響いた。


 わたしは視線をその剣に落とし、白く滑らかな刀身を見つめた。息が浅くなり、みぞおちの奥が詰まる。


「うん。……この剣には、わたしだけにしか聞こえない声があるの――」


「それは前に言っていた、メイレアが対話していた、というのと同じじゃないのか?」


「いいえ。母さまが話していたという相手とは別よ……」


 否定した瞬間、胸の奥で小さな波が立った。言葉が先に出てしまったぶん、指先が遅れて震える。


「……信じられないかもしれないけど、剣の中にはちゃんとした人格を持つ存在がいて、わたしと心を通わせることができるの。いいえ、心だけじゃない。わたしの五感を通して、この世界に触れているのよ」


 茉凜のことを思うと、刃の冷たさの中に、ほんのわずかなぬくもりが混じる気がした。錯覚でもいい。いまは、その温度が必要だった。


 ヴィルはしばらく黙ったままで、わたしの説明を噛みしめているようだった。驚きと困惑が交差した表情が一瞬だけ浮かび、すぐに目を細めて、真剣な瞳で問いかけてくる。


「それは本当なのか?」


「うん、本当よ」


 頷いた拍子に、首の後ろが熱くなる。頷きが小さすぎて、わたし自身の耳にしか聞こえない。


「さっきも、あなたに伝えるべきかどうかって心配してくれてた……」


《《がんばれ》》


 その短い声が、胸骨の内側を軽く叩いた。崩れそうな場所だけ、そっと支えられる。


「いつもわたしのことを支えてくれているの。“彼女”がいてくれたから、わたしは……」


 言い切れない語尾が、湯の匂いに紛れる。唇の裏がひりついた。


 ヴィルは眉をひそめ、じっと耳を傾ける。


「彼女だと? ということは、その中にいるのは女なのか?」


 わたしは少し恥ずかしくなってしまい、顔をうつむけながらも頷いた。頬に朝の光が触れて、逃げ場がない。


「ええ、そうよ。女の子よ。名前は『茉凜』って言って、挫けそうになるわたしの心に寄り添ってくれて、優しく語りかけてくれる存在なの」


 口にした名前が、舌の上で一度だけ転がった。大切なものを、人に渡すときの音がする。


 ヴィルは目を見開き、信じられないようにわたしを凝視した。その驚きの表情が、不安をいっそう鋭くする。けれど同時に、彼が「逃げない」で聞いていることも、伝わってくる。


『わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなんだから』


 その言葉だけが、胸の奥で形を保った。


 ヴィルは真剣なまなざしを崩さず、じっとわたしを見つめ続けていたが、やがて小さく息をついて笑った。


「……お前が冗談を言うのが苦手だってことは、よく知っている。信じるさ」


 笑いではなく、言い置くみたいな声音だった。視線が揺れずに残っているのが、いちばん重い。


 その剣に何度か目をやりながら、信じようとしている自分と驚きを消化しきれない自分の間で揺れているのが見える。彼の指が、無意識に机の縁を一度だけ撫でた。


「もっとも、声が聞こえるようになったのは、父が亡くなった時なんだけどね。それから、あの魔術が使えるようになったのよ。彼女がいなかったら、わたしは今ごろここにはいない。とっくに力に呑まれて、暴走して、自滅していたはず。……彼女がわたしの手を握ってくれているから、あの危険すぎる魔術をなんとか制御できているの」


 ヴィルは驚きを含んだまま眉をひそめた。


「お前がたった一人で戦い続けてこられた根拠とは、それだったのか……」


「ええ……」


「どうりでおかしいと思った」


「なんのこと?」


「時々目立たないところに隠れては、剣を抱きしめながらぶつくさ言ってるのを見かけていたからな」


 血がさっと顔へ上がる。陶の熱さに紛れるのが、ほんの少しだけ救いだった。


「知っていたの?」


「まあな」


 笑われるより先に、指先がそわそわと落ち着かなくなる。


「仕方がなかったのよ。人前で剣に向かって話し始めたりしたら、頭のおかしい人だって思われちゃうでしょう?」


 わたしの必死の主張を、ヴィルは微笑んで受け入れてくれた。


「なるほど、それで納得だ。で、その“マリン”っていう子……どんなやつなんだ?」


 問いの温度が、やわらかい。探る刃ではなく、手を差し伸べる音だった。


「とても純粋で、いつも元気いっぱい。けど、ちょっと調子に乗りやすいところもあるかな。あとね、『お酒を飲もう』って、やたらうるさいの」


 ヴィルの瞼がぴくっと震えた。


「……ふ、酒か」


 小さく漏れた声に、わたしは苦笑する。けれど、すぐに指先へ力を込めた。冷たい柄の奥に、確かな熱を感じながら。


「……でも、わたしが落ち込んだり悩んだりすると、励ましてくれて、それだけでわたしすごく救われてるの。この剣はただの魔道具や魔導兵装じゃない。わたしにとって、大切で、かけがえのない存在なのよ」


 言い終えた途端、掌の汗が冷え、剣柄の冷たさが指の腹へ戻った。


 ヴィルはしばらく考え込むように唇を引き結んでいたが、やがて頷いた。


「うむ、理屈は通っている。あれだけ強力な魔術だ。引き換えに何らかの代償があるんじゃないかと気になっていた。だが、それなら納得できるし、安心もできる。信頼できて支えになってくれるなら、これ以上心強い相棒はいない」


「うん、そうだよ」


 肩の力が抜けた。抜けたぶん、心臓の奥の痛みがはっきりしてしまい、わたしは目を伏せる。


「ありがとう、ヴィル。あなたに話すの怖かったけど……信じてくれてうれしい」


「いやいや……」


 彼は少し照れくさそうに頭をかきながら、照れ隠しのように言った。


「俺たちは、これから旅を共にしようという仲間なんだしな。お互いに力を合わせて頼り合わないといけないし……その、話し辛い事情だったというのもわかる」


 茉凜がそっと笑っているような感覚が、刃の奥で微かに揺れた。白い光が朝に溶け、見えない場所だけがはっきりする。


 息を吸うたび、精霊子の気配が口の奥をかすめる。茉凜は、わたしの暴れそうな異能を抱き止めてくれている。結局、手の中に残っているのは、それだけだった。


 あの存在――『深淵の根源』がかつて言った言葉を、わたしは今も忘れない。


《《気の遠くなるような長い間、次元の狭間を漂いながら、世界を守るために戦い続けていた》》


 今はもう、その声は聴こえない。


 前世のわたしと茉凜が成し遂げた『解呪』により、守るべき世界に戻れたはずなのに、いったいどこへ行ってしまったのだろう――そう思うたび、指先だけが冷える。


 きっと、この状況には理由がある。母も、わたしの運命の道筋を知っていたのかもしれない。なら、この謎に触れることは、母の消息へ繋がる可能性がある。


「そうだ、忘れてた」


 わたしはふと思い出し、ヴィルに視線を向けた。


「この剣にはね、ちゃんとした名前があるのよ。ちょっとこっちに来て……」


 そう言いながら、彼を手招きして耳元に屈ませた。そして、そっと囁く。


「この剣の名前はね、マウザーグレイルっていうの……」


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