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地図のうえの均衡、隠された森

 それからわたしたちは、これからの旅について静かに話し合った。最初の議題は、目的地だった。どの国境を跨ぐか、どこで補給を挟むか。順番が決まらないと、先の話が宙に浮く。


 卓の端で、湯の香りがゆるく立っている。


 ヴィルは手持ちの地図を広げて見せてくれた。紙の端がすり減り、角は丸くなり、陽に焼けた部分はうすく色褪せている。いくつもの旅の記憶が染み込んだような地図――彼はその古びた紙面を、どこか誇らしげに、愛おしそうに撫でた。


 窓から差し込む朝の光が机の上の地図を淡く照らし、埃がひとつ跳ねて舞う。彼は地図中の目印や注釈を指先でなぞりながら、穏やかにこちらへ視線を向けた。


「今俺たちがいるのは、この中央大陸だ。そして——」


 彼は地図の中央を指で押さえ、それから北へ、ゆっくり線をなぞった。


「ここエレダンは、北方地帯の南側に位置する小国家『ケリン』の領内にある。この十年来、魔獣が濃い土地だ。――それゆえ、今では魔石の一大産地として知られている」


 墨の線が朝の明るさを含んで、薄く沈む。舞った埃が、ひとつだけきらりと光った。


「そういえば、ここって中立なのよね。……どうして均衡が保てるのかしら?」


 わたしは身を寄せ、地図の細い国境線を目で追った。線は簡単に引けるのに、越えるのはいつだって人の欲だ。


「国際条約と、隣国同士の協定で辛うじて持ってる」


 ヴィルの視線が、地図からいったん外れ、こちらへ戻ってくる。落ち着いた声のまま、警戒の温度だけがひと匙混じっていた。


「条約って? そんなものがあるの?」


 ヴィルは一度だけ瞬きをして、言葉の形を整えるみたいに息を吸った。


「ああ、『中央大陸国際条約の第四条二項』ってやつだ。――魔獣が出る地帯を抱える国家の管理下に帰属する。要するに、石は国庫のものになる。世間じゃ《銀環条約》なんて呼び名で通ってるが――」


 彼の指が、ケリンの領域を円く囲むようにひと撫でした。


「たとえ隣国の救援要請を受けて国境を跨いだとしても、討伐で得た魔石については、基本的に権利を放棄しなきゃならないってことだ。拾って懐に入れたら、盗人扱いだな」


 皮鎧の継ぎ目がわずかにきしみ、彼の肩甲が小さく上下した。


「その代わり、あとで協議して損失分を補償してもらうのが常だ。馬や食糧、金……人的損耗の扱いまで、形は国による。帳面に乗れば、って話だが」


「それくらいは当然の権利よね」


 言い切った瞬間、わたしの指が湯飲みの縁を余計に押した。正しさだけで回らないことを、わたしはもう知っている。


「まぁな」


 ヴィルは短く返して、地図の端を押さえ直す。紙が持ち上がり、また落ちた。


「他にも、魔獣の発生が国境線を跨いで広がるような状況だって起こり得る。そうなれば、多国間で協力するしかない。放っておけば、隣の国の火種が、次の瞬間には自分の畑に落ちる」


「基本の大枠は定めつつ、持ちつ持たれつ――というわけね」


 わたしは頷きかけて、そこで止まった。地図の上の“中立”という文字が、薄いインクのくせに妙に重い。


「でも、魔獣の発生が少ない国としては、隣国が妬ましいし、侵略したいという欲も出てくるんじゃない?」


 窓の外で鳥が一声鳴いて、すぐに音が引いた。


 ヴィルは息を置き、唇の端だけで笑った。笑みは薄いのに、蒼の眼差しは猛禽みたいに鋭く、周囲を掃いている。


「そりゃあ、出るだろうな」


 その一語が、机の上に小さく落ちた。


「だから条約は、“善意”じゃなく“損得”で縛ってる。ケリンみたいな小国が成り立ってるのは、周りが『守ったほうが得だ』って思わされてるからだ」


 言い終えると、ヴィルは地図の端を押さえていた指をいったんほどき、息を吐いた。視線が窓の外の白みに逃げる。


 湯の匂いに紛れて、わたしは口の奥を湿らせたくなる。熱いのに、乾きだけが小さく鳴ってしまいそうだった。


「……面白いものね。均衡って理想や高潔さじゃなくて、各々の計算の上に成り立っているのね」


 言葉にした途端、皮膚の内側がすうっと冷える。それでも、逃げずに見ておきたかった。


「ま、綺麗事だけじゃ、国は守れんからな」


 ヴィルは肩を竦めるでもなく、ただ淡々と、当たり前のことのように続ける。


「だが損得で縛っておけば、少なくとも人がまともでいられる余白は作れる」


 その言い方が、妙に優しい。剣の話ではなく、誰かの息継ぎの話をしている声だった。


「……意外、といったら失礼だけど、あなたって博識なのね」


 わたしは湯飲みの縁に指を当てたまま、視線だけで彼をつつく。


「叩き込まれただけにすぎん」


 そこで、ほんの一瞬だけ、ヴィルの口の端が崩れた。笑いというより、古い灯りを思い出したみたいな、短い緩み。


「国に仕える騎士であれば、必須となる知識だ。だが学がない俺には、どうにも座学はめんどくさくてな……そこでユベルのやつが『見てられん』とかなんとか言って、毎晩つきっきりで夜中まで猛勉強させられた」


 ユベルの名が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。紙と湯の匂いの向こうに、夜更けの机灯が透けるみたいに。


「まあ、父さまがそんなことを?」


 口が勝手に昔の呼び方を選んだのを、わたしは自分で聞いてしまった。湯飲みの縁が熱い。舌がその呼び方を拾ってしまい、唇の裏が小さく痛んだ。


 わたしの指先が無意識に膝の布をつまみ、ほどいていた。細い糸が戻る音が、小さく耳に残る。


「あの時のあいつは、まさに鬼教官だった。こっちは肝が冷えたぞ」


 鎧の継ぎ目がかすかに鳴る。思い出の中の廊下まで連れてくるような、乾いた音だった。


「どんなふうに?」


 問いが先に出てしまって、わたしは遅れて咳払いのふりをする。興味なんて、悟られたくないのに。


「それがな、目が笑っていない。机を叩く音がやたら響く。で、間違えると――」


 ヴィルはそこで一拍置いて、わざとらしく言葉を探す。


「『それで俺の副官が務まると思うな』って、静かに刺してくる。机の上には課題の教本の山が積まれ、どこにも逃げ場がない。まさに悪夢とはこのことだ」


 頷いた瞬間、こらえきれずに口元が緩んだ。


「ぷっ……」


 堪えたはずの息が胸の奥で裏切って、思わず漏れてしまった。


「なぜ笑う?」


 睨むようでいて、声音には怒気がない。むしろ、不意を突かれた子どもみたいに眉が寄っている。


「だって。あなたみたいな、お酒が大好きで剣に生きるみたいな人が、夜中に机に向かって真面目に勉強しているのよ。しかも父さまに叱られながら。……可笑しくならないほうが無理よ」


「……馬鹿にするな。俺だって、好きでやってたわけじゃない」


「ええ、わかってる。わかってるから余計に」


 笑いを噛み殺そうとして、また肩が揺れた。湯飲みを持ち直す指先の熱さが、その震えを誤魔化してくれるのが、助かる。


 そこへ――茉凜が、一刺し。


《《思ったんだけど、ユベルさんってなんだか昔の美鶴によく似てるよね。鬼教官なとことか!》》


 いま言う?――と思った瞬間、湯飲みの縁が指に当たって、かちりと小さく鳴った。笑いが胸の奥で引っかかり、危うくむせる。


 指先が勝手に「ぴとっ」を思い出す。冷たい氷の感触と、茉凜の悲鳴――『びゃあぁぁぁぁぁぁっ』。笑えるはずの記憶なのに、こういうところで引っぱり出されると、耳の奥まで熱くなる。


 わたしは手元の器の陰へ顔を隠し、咳払いで時間を稼いだ。


「……どうした」


 ヴィルの声が、机の上の紙の匂いを現実に引き戻す。わたしは湯飲みを持ち上げ、唇を湿らせた。


「なんでもない。……ただ、ちょっと、むせただけよ」


 湯の熱さが、遅れて胃の底に落ちていく。笑いはまだ肩先に残っていて、頬の内側だけが、くすぐったいままだった。


◇◇◇


 笑いの余韻をひとつ飲み込んでから、地図を軽く滑らせる音が、静かな部屋に残った。わたしは視線を落とし、深く息をつく。ひんやりした空気が肺に入り込み、遅れて鼓動がほどけていった。


「実をいうとわたし、地図なんてほとんど見たことがなかったの――」


 言葉が他人事のように浮かび、目がつい窓へ逃げる。朝の光が頬をなぞっていく。


「ここに来るのも人伝に聞いて、なんとか辿り着いたようなものだし……こうして見ると、中央大陸ってこんなふうになっていたんだね」


 指が地図の縁をたどり、紙のやわらかいざらつきが掌に残った。ヴィルは小さく頷き、穏やかに微笑む。


「……たった一人で、よくぞここまで……頑張ったな」


 その一言が、湯の熱みたいに肋の内側へ広がった。わたしは口を開きかけて、すぐ閉じる。言葉にした瞬間、ほどけすぎそうで怖かった。


 父が亡くなったあと、わたしは遺された荷物を必死で調べた。手がかりになる情報を探し出そうとした。けれど、どれほど探しても何も見つからない。絶望の底で、母の品をひとつでも見つけられたらと、幾度も願った。


「その時はただ……生き延びるだけで必死だったから……」


 唇の端に冷えた湿り気を感じ、指が僅かに震えたのを、わたしは見ないふりをした。生き延びるだけでは終われない、とどこかで分かっていた。噂が人を呼び、噂が記憶を呼ぶ。そう信じて、わたしはエレダンで名を拾い集めた。誰かの耳に、父や母の欠片が引っかかってくれることを願いながら。


 それでも、解けない疑問が残っている。過去の記憶は断片的で、幼い日の景色だけが、どこか切り取られているようだった。


「それとだけど……わたし、自分が暮らしていた場所がどこなのか、何も知らないのよ……」


 言葉にした瞬間、胃が小さく縮まる。ヴィルは驚いたように、真剣な眼差しを向けた。


「本当か?」


 微かな静寂が部屋に落ち、木の床が遠くで軋む音だけが聞こえた。わたしは静かに頷く。


 深い森の奥。木漏れ日が揺れる静けさの中で暮らしたあの家――外の世界と隔てられたあの匂いが、今もまぶたの裏に残っている。


「うん……」


 言葉は小さく、でも確かに存在した。わたしは遠い記憶を探るように、息を吐く。


「家は深い森の奥にあって、わたしは一度も森の外に出たことがなかった。唯一、父さまだけが時々森を出ていって……だいたい、いつも二週間くらいは戻らなかったと思う」


 視線が壁のほうへ泳ぎ、肩のあたりが冷えた。言葉にするうち、みぞおちの奥がきゅっと痛んだ。間が落ちる。


「母さまがいなくなってから父さまと旅に出たけど、行き先も知らされないまま……二年間ずっと後をついていくだけで、自分が今どこにいるのかさえ、わからなかった」


 膝の上で手が小さく握られているのに気づく。視線は足元の木目へ落ち、ふっと遠い記憶のなかへ沈んでいった。


 ヴィルは静かに話を聞いていた。眉間にしわを寄せ、地図の上を指先でゆっくりとなぞる。紙が擦れる音が、ふいに際立つ。


「うーむ、実は俺もそれが気になっていたんだ」


 その言葉が、部屋の温度を一段下げた。ヴィルの声が確かに、わたしの耳の奥へ届く。


「二十年近く大陸中を探し回ったっていうのに、何故居場所を見つけられなかったのか……。ところで、ユベルが亡くなってからここに来るまで、どのくらいかかった?」


 わたしは記憶の糸をたぐる。息がきゅっと細くなり、返事が遅れる。


「……半年、くらいかな。途中で小さな街をいくつか通り過ぎたけど、行く宛もなくただ彷徨っていただけだから……」


 地図の隅がわずかに揺れているのに気づいた。ヴィルは頷き、ふたたび地図へ目を落とす。その表情に、重い影が落ちた。


 彼の指先が地図の縁をゆっくり辿り、わたしの言った「二年」と「半年」を胸の内でつないだ。


「二年の後、半年ほどか……かなり遠くから来たことは確かだが――」


 言葉が間を割る。わたしは視線を戻し、ヴィルの顔を見た。沈黙が落ちる。


「お前の言う森がどこにあるのか――単純な距離だけでは掴みきれんかもしれん」


 ヴィルの指が地図の上をゆっくりと滑る。紙の乾きが、掌に残る。


「もしかすると、それほど遠くない場所に、巧妙にカモフラージュされていた可能性だってある。ユベルは隠密行動や陣地構築に長けていたし、何より慎重な性格だった。賞金首で追われる身であるならば、当然隠蔽工作は周到に施すだろう」


 視線が地図から静かにわたしへ戻る。


 背筋の奥がざわついた。父が何を守ろうとしたのか。誰にも見つからない場所にした理由――その結果が、今もわたしを縛っている。


「そういえば、母さまにこう言われたわ――」


 疑念が静かに広がる。その瞬間、母の柔らかな笑顔と声が、ふいに蘇った。


「――『外の世界には怖いものがたくさんあるの。でも、あなたもいつかそれを知るときがくるわ。それはあなたの髪がわたしと同じくらいに伸びた時かもしれない。でも、きっと大丈夫。あなたには“わたしにはない特別なもの”が眠っているのだから』って」


 幼かったわたしは、その言葉の重さなど気に留めなかった。ただ、母の手の温もりと、穏やかな声に包まれていれば、それで十分だった。


 けれど今になって思う。あの一言の奥には、きっと大きな秘密が隠されていたのだと。


 ヴィルは、わたしの揺れを感じ取ったのか、表情をわずかに和らげた。


「特別なもの……か。なるほど、隠れ住まねばならなかった理由が、なんとなく見えてきた」


「理由って……?」


 思わず問い返す。ヴィルは地図から目を上げ、真っ直ぐにわたしを見た。


「何が何でも、特別であるお前のことを守り隠し通す必要があった」


 ふっと息を吸う。腹の底が小さく震えた。


「わたしなんかが、そんな……」


 小さく漏れた声に、ヴィルは静かに頷いた。その瞳の奥には、探るような光が宿っていた。


「ユベルが意図してすべてを隠したのだとしたら、それはよほどの意味があるはずだ。――“見つかってはいけなかった、何か途方もない理由”が、きっとあったんだろう」


 耳の奥で、何かが落ちる音がした気がした。


「……それはたぶん、わたしの持っている魔術でしょうね。そして――一番の謎は、この白い剣なのだけど……」


 自然と腰の白い剣に手が伸びる。柄に触れると、ひやりとした冷たさが指先を伝い、頭の中だけを澄ませていく。

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