彷徨う風と共に
窓の隙間から射し込む光が、寝具の白で跳ねていた。瞼を押し上げた瞬間、太陽はもう高く、部屋の埃が細い粒になって漂っている。舌の付け根が乾き、首筋に昨夜の汗の名残が薄く貼りついた。
廊下の板が、遠くで一度だけきしんだ。階下からは湯気の気配にまじって、椀の縁が触れ合う小さな音が上がってくる。朝が先に進んでいるのに、自分だけが置いていかれたようで、まぶたの裏がまだ重い。
枕に頬を預けたまま、天井の木目をぼんやり追う。身体が重いというより、骨の内側にまだ熱が残っているようで、起き上がる合図が遅れている。
「なんだか、だらしないな……」
言葉のあとで、肩甲骨のあたりがひとつざわめいた。肋の内側がじわりと狭くなるのに、寝台の温もりはまだ離してくれない。
《《おはよ。大きな仕事の後の至高の贅沢じゃない。だらだら万歳だよ》》
茉凜の能天気な声が、頭の芯で弾けた。返事をしようとして、息だけが先に抜ける。叱ってくれないことに、ほっとしてしまう自分が少し悔しい。
「それはそうなんだけど。早く寝るつもりがいろいろ考え込んじゃって、なかなか寝付けなくて」
《《そんな感じだったね。ま、そんな日もあるさ》》
休息日を設けたのは自分だ。それでも午前がすぽり抜け落ちた感覚が、みぞおちに小さな棘を残していた。けれど彼女の明るさに、毒気がふっと抜けていく。寝返りを打つたびシーツが擦れ、罪悪感の角が丸くなっていった。
階下から、湯気といっしょに素朴な匂いが上がってきた。湯に溶けた穀物と、焼けた粉。気がつけば、胃の底が小さく鳴っていた。
《《うふへへへ。身体は正直だねぇ。早く食べよ》》
食卓には、温かい朝餉が残されていた。椀の縁に触れた指先へ、熱がじわりと戻ってくる。塩気の角が丸い。噛むたびに、身体の奥の張りが一段ずつほどけていった。
「おはようございます。すみません、今朝は寝坊してしまいました」
おかみさんは年配の女性で、皺の影が笑うと柔らかく動く。
「気にしなさんな。慌てないで、ゆっくりでいいからね」
声が耳裏を撫でる。湯気に混じった石鹸の匂いが、部屋の空気をすとんと落ち着かせた。
この宿が、わたしにとって息を置ける場所だと、あらためて確かめる。たった一膳なのに、肩の力が戻ってくるのがわかる。
器を重ねるころには、背中の芯がようやく立った。わざと元気を作って、扉のほうへ向き直る。
「それじゃ、行ってきます!」
《《はいよー! 今日もいい天気だね》》
木の戸を押し開けると、外気が腕を撫でた。ひんやりしているのに、嫌な冷たさではない。
おかみさんはにこやかに手を振り、
「気をつけてね」
と送り出してくれた。
祝祭の余韻が残る街を歩く。昨夜の明かりが引いたぶん、石畳の乾きが目につく。乾いた風が路地を抜け、どこかで鉄を打つ音が響いている。ここが魔獣狩りの最前線の街で、日々の暮らしが先に立つ場所だということを、そういう音が黙って教えてくる。
わたしは職人街に足を運んだ。革の匂いが濃い工房の戸口で、修繕を待つ革鎧がいくつも吊られている。自分の鎧を差し出すと、肩の縫い目が擦れて白く毛羽立ち、脇の留め具の糸が一本だけ浮いていた。指でなぞると、乾いた砂が革の皺にまだ噛んでいる。
職人の指が、ためらいなく針と錐を取る。蝋を含ませた糸がきゅ、と鳴り、油の匂いが濃くなる。直す、というより、今日も生き延びる形に戻していく手つきだった。
その足で靴屋へ向かった。新調したばかりのブーツをカウンターへ置く。真新しい革の匂いに、ほのかにオイルの香りが混じった。踵の厚みを指先で確かめると、たった数センチの差が、妙に大きく感じられる。
わたしは店主に「靴底を低く、滑らないものへ」と注文した。
《《えー、なんで? もったいなくない?》》
仕上がるのを待つ間、茉凜の不満げな声が響く。内心で小さく息を吐いた。
「……背伸びする見栄と、戦闘中に蹴躓いて死ぬのと、どっちがいいと思う?」
《《むぅ……それはそうだけどさぁ》》
指先でブーツの革をなぞる。本当は、少しでもヴィルの視線に近づきたかった。けれど、その数センチの高さが命取りになることを、身体は知っている。躓いたことがないから平気、なんて思えない。たった一度の踏み外しが、全部を奪う。
――足手まといにだけはなりたくない。
理由はそれだけだ。ほかにはない。
店主が木槌を振るう音を聞きながら、わたしは踵を返した。実用性を選んだ自分の判断が正しいはずなのに、足の裏にはわずかな重みが残った。見栄を削ったぶん、別の何かが浮き上がってくる。
休みの日は馴染みの食堂で昼を食べるのが常だったが、今日は朝が遅く、お腹もまだ本格的には空いていない。ふらりと酒場を覗いてみた。ヴィルがいるかもしれない――そう思った瞬間、足裏だけが勝手に方向を知る。
《《おや? そっか、そういうことか……うふへへ》》
意地悪く笑う声に、わたしは唇を尖らせた。
「……ただの気まぐれよ。べつに意味なんてない」
《《はいはい、そういうことにしておきましょ》》
からかう気配を無視して、わたしは扉に手をかけた。
扉をそっと押し開ける。古い木の看板が軋む音が、午前の光へ溶けた。室内には熟成した樽の匂い。窓から射す薄い光の中で、埃がゆっくり回っている――昼の静けさが、目に見えるほどに。
◇◇◇
酒場は昼の顔をしていた。夜の喧噪はなく、器の触れる音も遠い。
ヴィルはカウンターの端。ぼさぼさの金髪が影を落とし、横顔には気怠げな線がある。木の杯を回す手には古い傷の白が走り、節がはっきり浮いている。けれどその動きだけは静かで、縁を撫でる指が思いのほか丁寧だった。甘い酒の香りが、そこからひそやかに立つ。
わたしは息が引っかかりそうになり、口の中でそっと唾を転がした。視線だけがあとから戻ってくる。
――本当に、お酒が好きなんだな……。
床板が微かに鳴るたび、それが鼓動の代わりになる。背中は無防備にも見えるけれど、きっともう気づいている。そう思うと、逆にいたずら心がくすぐられた。
軋まない場所だけを選ぶ。足裏で板の癖を探り、影が彼の背へ触れる直前に息を止める。
けれど次の瞬間、淡々とした声が落ちた。
「あいかわらず、気配を消すのが下手だな」
言葉が空気を切る。その瞬間、わたしの肩が少し遅れて落ち、苦笑が先にこぼれた。
「えっ、バレてた?」
ヴィルは片方の眉を軽く上げ、指先で手元を揺らす。
「近づいてきた時点で、周りの空気が変わったんだ。それで誰だかくらいわかるさ」
その繊細さに、指先の冷えがゆるんだ。気づかれたことが悔しいのに、どこか嬉しい。彼は何も言わずに一口飲む。わたしの心情には触れないふりをしているのが、逆に刺さる。
「どうしたんだ? こんな時間に酒場に来るなんて、珍しいじゃないか」
光がガラス越しに跳ね、視線が揺れた。わたしはカウンターの木目へ目を落とす。木目の黒い点が、ひとつだけ目に残る。
「特に理由はないよ。ただ……暇だったから覗いてみたくなっただけ。そうしたらあなたがいて、ちょっとびっくりさせてやろうかな、って思ったの」
言いながら、誤魔化しの感触が口の端に残って恥ずかしい。彼は深く追及しない。
「そうか」
それだけで、木に触れる音が一度だけ鳴った。
「それにしても、昼間っから飲んでるなんて、いかにもあなたらしいわね」
冗談の形に、昨夜の暗さが薄く混じる。ヴィルは短く笑った。その笑いは気だるげなのに、温かい。
「いつものことさ。それよりお前、本当に大丈夫か?」
首をわずかに傾ける。その問いが、昨夜の余韻を肋の裏へ引き戻す。わたしは息を整えるふりをして、返す言葉を口の中に留めた。
「問題ないわ。それより――あなたに話しておきたいことがあるの。ほんとは、昨夜のうちに言うべきだったのだけれど……」
唾を飲み込むたび、口の奥の乾きが戻ってきた。
指の動きがふっと鈍り、彼の目がこちらへ戻る。
「聞かせてもらおうか」
言葉の前に、唇の裏をそっと噛んだ。
「護衛の仕事も終わったし、わたし、そろそろこの街を出ようかなって思ってるの」
一拍。木の杯が、ことり、と置かれた音だけが残る。
「……街を出る、か」
わたしは小さく頷いた。その拍で、椅子の脚がかすかに鳴った。
「うん。この半年でお金もだいぶ貯まったし、魔獣狩りとして名を上げることで、『当初の目的』は達成されたわけだし――」
口にした瞬間、言葉の質量が変わった気がした。
みぞおちに、飲み下せない小さな棘が引っかかる。果たして自分の選択は正しかったのだろうか。両親の過去を知りたくて名を上げた。けれど、その結果引き寄せた事実は、期待していたような輝かしいものではなかった。
『グロンダイル』の名は、大国リーディスでは指名手配の賞金首扱い――そんな血生臭い真実なんて、知りもしなかった。
杯の中で氷が崩れ、微かな音が現実の苦味を連れてくる。
「――そろそろ次の目標に向かって動くべきなのかな、って。ここにいるのは楽しいけど、いつまでも甘さに浸ってると前に進めなくなりそうで……」
言い切ったつもりなのに、声が揺れた。自分でも意外で、指先が膝の上でほどけなくなる。
「それで、どこへ行くつもりだ?」
「どこへ、と言ってもね……母さまの行方を探したいのは山々だけど、何の手がかりもないままじゃ……どうしようもないし」
言葉の端を噛む。膝が微かに震えて、掌が木肌のざらつきを探した。
「それよりもまず、この広い世界をもっと知って、経験を積んで、強さを手に入れたいの。それは何も戦うための強さだけじゃない。人として、もっと揺るがない自分になりたいの――」
深く息を吸い、吐いた。吐息は白くならず、胸骨の奥だけを冷やした。
「そう……それは、たとえばあなたみたいに……」
言ってから、後悔が一瞬遅れて来る。彼の影がふっと濃くなる。
「俺みたいに、か……」
静かな声。中身が小さく揺れ、匂いだけが動く。
「俺などは取るに足らんさ。ただ長く生きて、それなりに経験を積んで、取り繕うのが上手くなっただけといえる。守るっていうのも……失ったものを繰り返さないための、ただの癖にすぎんのかもしれん」
軽く笑う。その笑いの奥に、乾いた影がある。わたしは木目を見つめたまま、口の奥で言葉を探した。
――父はもういない。だからなの?
胃の底がひやりと硬くなる。守るという言葉の裏に、贖いの匂いを嗅いでしまう自分がいる。
「でも、ヴィルは本当に強い人だと、わたしは思う。誰かの前で弱音を吐いたり、言い訳したりなんかしない。ちゃんと人を守って、時には自分を犠牲にしてでも……そんな姿を見て、わたしもそうなりたいって思った」
声にすると、背筋が伸びる。けれど指先はまだ冷たい。
彼は黙って聞いていた。最後の一口を飲み干し、それをそっと置く。音が小さいほど、耳の奥へ響く。
やがて顔を上げ、まっすぐ見た。
「そういうこと言われるとなんだかむず痒いんだがな。お前が言ってくれるなら信じよう……だが、どこに行くにせよ、迷いや不安を感じることもあるはずだ。強くなりたいって言ったが、そう簡単には得られるもんじゃない。辛いことだって多いぞ」
その言葉は穏やかで、深さがある。責めずに、逃がさずに、机の上へ置く言い方だ。
「……わかってるつもりよ。でも、それでも前に向かって歩きたいの。それがわたしの生きることの意味だと思うから」
木肌へ掌を押しつける。硬さが返ってきて、決意がひそやかに震えた。
ヴィルの指が杯の縁で止まり、甘い酒の匂いだけが少し遅れて届いた。
「……なら仕方があるまい。俺もお前と一緒に行く」
呼吸が止まった。視界の端が白くなる。理解が追いつく前に、歯の裏だけが熱い。
「あなた……それ、本気で言ってるの?」
耳の奥が熱を帯び、心拍が一つ跳ねた。
「俺はいつだって本気のつもりだ」
ヴィルはにっこり笑う。その軽さの奥に、決めてしまった硬さが透ける。
泣きそうになるのを堪えて、わたしは首を小さく振った。笑う形を先に作っておく。
「ありがとう、ヴィル。……すごく、心強いよ」
目が上がりきらず、視線が一瞬だけ木の縁に落ちた。指の腹へ温度が戻ってくる。
彼は何も言わず、杯を手に取って持ち上げる。乾いた木の音が静かに鳴った。
「じゃあ、俺たちの新しい旅路に、乾杯だな」
わたしはくすっと笑って、掌を同じ高さまで上げた。昼下がりの酒場が、なぜかひときわ明るく感じられた。
この先、どんな未来が待っているかはわからない。でも、ヴィルと一緒なら――と、思ってしまう。揺れたままでも、揺らぎを抱えたままでも、旅は始まってしまうのだ。




