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素直になれない「私たち」へ

 花火の火薬が甘く焦げた匂いだけが、背中にまとわりついていた。


 ヴィルと別れたあと、わたしは沈んだ気持ちのまま宿屋へ向かった。石畳の冷たさが靴底から這い上がり、歩幅のたびに身体の芯が小さく揺れる。


 街は祝祭の余韻に包まれている。笑い声と音楽があちこちから湧き、夜空には魔法の花火が咲き誇っていた。幸福そうな顔が連なり、光の渦が石畳の上で揺れていく。


 それなのに、わたしの心はその華やかさに溶け込めなかった。


 輪の中に入ろうとするほど、皮膚の内側がひやりとする。外套の端をつまむ指が、ほどける場所を探して空を掴む。耳の奥に沈むざらつきが、足取りだけを重くした。


 足元がふらつくのはお酒のせいではない。呼吸が浅くなり、唾が引いていく。楽しいはずだった夜が、どうしてこんなふうに終わってしまったのか。考えても答えは出ず、遠い花火の破裂音だけが遅れて肋の奥を叩いた。


 ヴィルと出会ってから、わたしは確かに変わった。救われたところも、照らされたところもある。けれど触れられるたび、頭の中で糸が絡む。ひとつにまとめようとすると息が細くなって、いちばん言いたい言葉ほど、口の中で欠けたまま残った。靴音が一拍だけ乱れ、わたしはそれを誤魔化すように歩幅を揃え直す。


 ――なんなの、これ……。もう、わけがわからない。


 守ってほしいのか、導いてほしいのか。隣に立てると認められたいのか。どれも違うみたいで、どれも当たってしまうのが嫌だった。


 それに、言葉になる前の段階で胸が別の色に疼く気もして、ますます手に負えない。


 夜風が頬を撫で、酔いの霞を薄めていく。その冷たさがむしろ沁みる。見上げた星は変わらず瞬いているのに、光は遠く、隙間の奥までは届かなかった。


《《美鶴……?》》


 酒場で黙っていた茉凜が、ようやく声をかけてきた。声の端に棘がなくて、叱りも急かしもない。あの沈黙の重さを、彼女は知っている。


「なに……?」


 頬を少しだけ指先でなぞりながら、力なく返した。指の腹が夜気で冷たい。


《《ヴィルって、ああ見えて人を見る目があるから……美鶴のこと、なんとなくでも感じ取っているのかもね》》


 言葉が胸の奥へ沈むと、わたしはうっすら眉を寄せた。見透かされる不安が、皮膚の下でさざめく。


「そりゃあ……小さなミツルと二十歳過ぎの『おばさん』のわたしが一緒くたなんだもの。おかしいって思われても仕方ないよね。でも、いまさら子供らしく振る舞ってもぎこちなくなるだけだし……」


 言ってしまったあと、口の奥がひやりとした。視線を足元に落とすと、石畳の継ぎ目が不自然に歪んで見える。靴先で一度だけ線をなぞり、やめた。そこで足を止めたら、沈んでしまいそうだった。


《《べつにそれでいいんだよ。ヴィルが言っていたみたいに、自分の気持ちに素直でいれば。変に意識すると、かえって不自然かもしれないよ?》》


 語尾がほんの少し揺れた。いつもの明るさのまま、踏み込みすぎない距離を保っている。


 遠くで笑いが弾け、すぐ夜に吸われる。続いて、花火の残響が一度だけ街路を震わせ、石畳の下から小さく響いた。


「素直って……なんだか嫌だな。いちばん苦手なやつ」


 唇を噛むと、呼吸が細く途切れた。


《《……うーん。でも、美鶴だって“小さなミツル”の気持ち、大事にしてるよね?》》


 まっすぐすぎる問いに、わたしは胸元で手を組み、言葉を探した。指の関節が白くなるほど握るのに、力はどこにも行き場がない。


「それは、そうだけど……後になって冷めている自分に気付いて、胃の底がぞわぞわして、これってほんとうのわたしじゃないって気がして。恥ずかしいとかだけじゃなく、違和感みたいなものっていうか」


 胸の奥で、ひとつ息を呑んだ。花火がまた一輪開き、音だけが遅れて来る。


《《……それ、考えすぎかも。でも分かるよ。美鶴って、いつもいろんなものを一人で背負い込んじゃうからさ》》


 茉凜の声が、少しだけ沈む。落とすのではなく、寄り添う沈み方だった。


「あなたにはわからないわ。美鶴としての記憶と理性で自分を律しているつもりでも、どうしたって飛び出してくるミツルの感情に逆らえないってことの意味が。時々自分が何者なのか、何がしたいのか、輪郭すら見失いそうになる」


 肩にかかった夜気が、心細く沁みた。外套の端をつまむ指に、また力が入っている。


 言い過ぎたと気づくより先に、茉凜は息を整えるみたいに一拍だけ間を置いた。


《《……無理に逆らうことないよ。その時々に溢れる気持ちを大切にしていいんだよ。小さなミツルも、前世のあなたも、どちらも今のあなたを形作っているんだから》》


 夜風が頬をかすめ、茉凜の声だけが温かく残った。熱ではなく、冷えないところに残る温度だ。


 わたしは小さく頷いた。


「……頭ではわかってるの。彼の誓いが本気だってことも。論理的に考えれば当然でしょ。でも、ヴィルはこんな――ごちゃ混ぜのへんなわたしをどんなふうに思ってるのかな、って。ほんとうのことを知られやしないかって、考えるだけで怖くって……」


 そして、いちばん怖いのは、彼にどう思われているかということだ。呆れられたり、嫌われたらどうしよう。


 美鶴であるわたしは一人でも構わないと思う。茉凜がいればそれで……そのはずなのに。


 爪が手のひらに沈む。痛みが、言葉の続きを止めた。


《《だいじょうぶ。たとえ全部は分からなくても、彼ならそのままのあなたをちゃんと受け止めてくれてるよ》》


 その一言が、背中の真ん中をそっと支えた。押される感覚はなく、倒れない場所ができるだけ。


「そうかしら……わたしって可愛げないし、いろいろ面倒くさいし、呆れられたりしてないかなって。あの時も迷惑かけちゃったし」


 吐息が曇り、視界が少し縮む。すぐ消える白さが、やけに頼りない。


《《ほーら、また出たネガティブ思考。だめだよ、その悪い癖》》


 わざと明るく跳ねた声が来て、指先の力がふっとほどけた。外套の端がようやく、指の腹から滑る。


「そんなこと言っても、しょうがないじゃない。これがわたしなんだから……」


 ふいに視線を遠くへ逃がす。光の渦がまだ街の上で揺れている。


《《ミスは誰にだってあるし、未熟なとこもぜんぶ含めて、彼は『守る』って言ってくれたの。あの誓いは、そういう意味だよ。命に代えてでもだなんて、普通は言えない。それだけあなたのことを大事に思ってる証拠だよ》》


 明るさの奥に、ほんの少しだけ息を選ぶ気配が混じる。花火の音が遠くで割れて、わたしの鼓動も遅れて追いついた。


「……でも、それは対等じゃないってことでもある」


 石畳を踏む足に、微かな重みが残る。


《《そりゃ、いまはそうかもしれない。でも、これから少しずつ頑張ればいい。追いつき追い越せって感じでさ。焦らなくていいんだって》》


 夜の空気が少し緩んだ気がした。肩に乗っていたものが、ほんのわずか軽くなる。


「……あなたみたいに、前向きになれたらいいんだけど」


 肩越しに、夜の光が瞬いた。


《《なれるよ。なにせ、このわたしがついてるんだから》》


 少しおどけてみせる茉凜の声に、思わず口元がほどけた。


「うん……」


 まだ心は絡まっていたが、肩の力が少し抜けた。


《《それにさ。ヴィルは美鶴が無理していることも、ちゃんと分かってくれてるんだから。サポート体制は万全じゃないか》》


 茉凜の軽やかな声音に、心が軽くなる。


「……それもそうだね。贅沢過ぎるくらいかも」


 冷えた空気に、言葉がゆっくりと溶けていく。


 サポートって、囲って守ることじゃない。石畳の継ぎ目で足が取られかけたときだけ、背中に手が当たってくれる。立ち直ったあとは、何も言わずに離れていく。その先の一歩は、わたしの足で踏むしかない。


 だからこそ、怖さが残っていても前へ進める。


《《だから、なにも気にしなくていいの。冷静でいるのも大事。でも、嬉しいときは素直に笑っていい。わたしを見てよ! 我慢なんて一度もしたことないんだから》》


 思い浮かんだ彼女の笑顔に、ふっと可笑しさがこみ上げる。


「そうだった……あなたは欲望まっしぐらだものね」


 夜風が頬に触れ、わずかに温もりが戻る。


《《そうだよ! 欲しいものは欲しいし、美味しいものは美味しい。楽しいときは全力で楽しむ。それでいいの》》


 声が弾み、わたしはその明快さにまた救われた。羨ましさと憧れが同居する。冷たい風が頬を撫でるなか、心に少しずつ温かさが戻ってくる。張り詰めていた感覚が、やわらかくほどけていった。


「ありがとう、茉凜。……でもね、ほんとうに楽になれるかどうかは、明日もう一度、自分で歩いてみてからだと思う」


 目尻の奥が、じんわりと熱を帯びる。


《《そういうこと。今日は今日。明日は明日。そうやって生きてくしかないんだよ。ほんとを言うとさ、わたしだって時々分かんなくなるとき、あるよ。でも、あなたといっしょに悩むのも悪くないって思ってる》》


「わたしも。こんな愚痴打ち明けられるのって、茉凜しかいないもの」


 わたしは微笑みを浮かべ、夜空を見上げた。


 星たちは変わらず美しく瞬き、冷えた空気に透明な輝きを落としていた。その光を仰ぎながら、ほんのわずかに前向きになれた気がする。心にはまだ絡み合うものがある。それらはすぐに解けないだろう。けれど、それでいい。無理にすべてを整理せず、少しずつ歩めばいい。  


 宿屋の扉の前で立ち止まる。中から漏れる明かりは温かいのに、どこか寂しさも伴っていた。深く息を吐き、取っ手に触れる。金具の冷えが指に移り、そこだけ現実がきっぱりする。  茉凜の声だけが、夜の中でやわらかく残った。


《《大丈夫。明日になれば、きっとまた歩けるさ。さぁ、今夜は早く休もう》》  


 わたしは小さく頷き、扉を押し開けた。


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