揺れる二つの心
ヴィルと並んで歩く夜道は、ひどく静かだった。足もとで小石が鳴り、衣擦れが追いかけてくる。その一定の拍が、耳の奥のざらつきをいったん撫でてくれる。けれど、さっき卓上で胸に残ったものは、夜風に晒しても薄まらなかった。
メニューを追う指先、グラスを持つ角度、待つときの肩の置き方。どれもわざとらしくはなかったのに、だからこそ、見過ごせない。
街灯の輪から外れた瞬間、足もとだけ闇が濃くなり、背中の影がかえって重さを持った。外套の端が指に引っかかり、ほどけない。
靴音と衣擦れが重なって響く。冷えた風が裾を揺らし、肩にひやりと降りてきた。
見上げれば、雲間からのぞく星々が散らばり、かすかな瞬きが夜の底へ沈んでいる。その光を見上げるヴィルの横顔は穏やかで、遠いものを見守るような眼差しを湛えていた。
わたしはふと、その横顔に目を留める。けれど次の拍で、口の奥の乾きが現実へ引き戻した。吐いた息が白くほどけ、すぐに消えた。
「ミツル、寒くはないか?」
ふと、ヴィルが目を向けてきた。
「ううん、ぜんぜん……」
笑って応じる。けれど、自分の頬がうまく動いていないのをわかっていた。ヴィルの眉が、ごくわずかに寄る。
「さっきから気になっていたが、何か心配事でもあるんじゃないのか?」
心の奥を撫でるような声音。わたしは視線を逸らす。遠くで誰かの笑い声が夜気に溶けていった。
答えなくてはと思うほど、言葉の表面に薄い膜が張る。優しさはたしかにそばにあるのに、受け取るたび、喉の奥だけが細くなった。
沈黙に耐えかねて、小石をつま先で蹴った。石が乾いた音を立て、闇へ吸い込まれる。
「……そういえば、さっきの料理、本当においしかったね。特にメインのソースとか。あの味付け、わたしにも作れるかな?」
無理に笑みを浮かべる。風が髪を揺らし、頬に冷たさを残した。
ヴィルはわずかに表情を和らげ、わざとらしく首を振った。
「そいつは無理だな」
「むぅ……」
「同じ素材、調味料、香辛料を揃えたからといって、そう簡単に真似できるものじゃない」
言い切ったあと、彼は夜気をひとつ飲み込む。外套の襟がわずかに鳴り、視線が宙を滑った。
「あれは職人の長年の研鑽があってこそだ。剣でもそうだが、結局は積み重ねた手の数がものを言う――」
声は淡々としているのに、奥だけが少し固い。思い出を語るというより、うっかり触れた場所からすぐに手を離したような響きだった。
わたしの靴音が一つ、遅れて響く。話しているのに、どこか黙っているみたいだった。
「お前が作れるようになるには……相当な修行が要るだろう」
その真面目すぎる口ぶりに、わたしは思わず肩をすくめて笑った。彼はこういうところで、急に背筋が伸びる。言葉が整いすぎて、かえって愛嬌が出るのがずるい。
「修行か……じゃあ、旅に出ようかしら」
「旅か……悪くないかもしれん。俺もそうやって生きてきたからな」
ぽつりと落とされた声は遠い響きを帯びていて、星明りが彼の頬を淡く照らしていた。拍の合間に、横顔へ影がひと筋落ちた気がする。けれど次の瞬きで、いつもの穏やかな瞳に戻っていた。
わたしは視線を星空へ戻し、散らばる光を辿りながら、外套の端を指先でつまみ直した。冷えた布の織りが節に残り、言葉にならないものだけが静かに寄ってくる。
わたしたちは、市場の奥にある、こじんまりとした酒場に立ち寄った。
扉を押し開けると、木の香がふわりと広がる。淡い琥珀色の魔道ランプが天井から吊るされ、カウンターやテーブルを優しく照らしていた。外の冷気とは対照的に、室内はほどよいぬくもりに包まれている。
ヴィルは奥の隅にある空席を見つけ、わたしを促して座らせた。わたしは彼の隣に腰を下ろし、背もたれにそっと身を預ける。カウンター越しには無口そうな初老の男がいて、黙々とグラスを磨いていた。布がガラスをなぞる音だけが、静けさの中に細く響く。
「何を飲む?」
ヴィルが尋ねる。声には優しさがにじんでいたが、さっき星空の下で聞いた遠い響きが、まだ薄く残っている気がした。
わたしは棚に並ぶグラスをしばらく眺め、照れくさく首を傾ける。
「うーん……ほんのり甘くて、口当たりのいいのがいい。わたし、強いお酒は苦手だから」
ヴィルは頷き、酒場の主に声をかける。その前のほんの一拍、店の空気を測るみたいに視線を置いた。その小さな間合いまで、妙に手慣れている。
声の端がふっと整い、さっきまでのぶっきらぼうが一段引っ込んだ。粗野さが消えるのではない。ただ、その下から、場に合わせて形を変える別の滑らかさがのぞく。料理屋で胸に残った違和感が、別の角度からまた静かに戻ってきた。
「では、彼女の雰囲気に相応しい軽めのものを、二つ頼みたい」
その丁寧さに、わたしの喉がかすかに鳴る。唾が引いて、舌の付け根が少しざらついた。
初老の男はちらりとわたしの顔を見て、短く頷く。奥から数本の瓶を取り出すと、氷を落とした金属の筒を手に取り、静かに振りはじめた。氷がカランと鳴り、液が混ざり合う音が、柔らかい光の下で心地よく響く。
やがて注がれた酒は、淡い緑色に揺らめき、そこに黒いシロップが一滴だけ落とされた。沈む黒が光を透かし、幻想的な陰影を作る。
――淡い緑の瞳と黒い髪か。わかりやすい。
わたしは目を奪われたまま、指先を膝の上で丸めた。
ヴィルがグラスを差し出し、少し照れたように笑った。
「どうだ? お前に似合う一杯だと思うが」
わたしは両手でグラスを受け取り、そっと口に運ぶ。冷えた縁が上唇に触れ、言えなかった言葉がそこで凍る。鼻先をかすめたのはフルーティーな甘さ。氷が小さく揺れ、口に含めば柔らかな甘味と、わずかなハーブの苦味が広がった。
「……不思議な味。優しくて……でも繊細で、少しだけ切ない」
わたしの言葉に、ヴィルは満足げに目を細めて笑った。
「お前らしい感想だな」
息がゆっくりほどけ、指先のこわばりが抜ける。けれど同時に、甘さの底に薄い苦みがにじみ、奥の方を静かに刺した。
ヴィルはグラスの縁を指でなぞりながら、沈黙に沈んでいた。氷の音だけが、その間の深さを測っている。わたしは耐えきれず、自分のグラスを少し揺らした。琥珀色の灯りが液面を跳ね返し、微かな煌めきが網膜に触れる。
やがて、彼は息を整えるようにして口を開いた。
「ミツル、俺はお前を守る……たとえこの命に代えてもだ」
背筋が反射で伸び、椅子の背がかすかに鳴った。グラスの脚を支える指が、知らぬ間に強ばる。
思いのほか真剣な響き。手にしたグラスが微かに震える。氷が触れ合い、控えめな音を立てた。
彼の瞳がまっすぐにわたしを見据えている。薄い微笑みの奥に、隠し切れない真剣さと、不安の影が揺れていた。
「……どうしたの、急にそんな深刻そうに」
なんとか軽い声を出そうとしたが、かすれが混じってしまう。鼓動が強く跳ね、音が自分にだけ響いている気がした。
ヴィルは視線を逸らさず、息をひとつ飲み込むようにして続けた。
「お前は……ユベルが遺した大切な一人娘だ。俺は親代わりなんてできる柄じゃないが、そんな気持ちで見守りたい。そう思っている……」
肺の奥で息が段差に引っかかり、飲み下せない熱だけが喉に残る。
優しいのに、受け取るほど狭くなる。さっきまで形を持たなかった違和感が、その言葉で急に別の痛みと結びついた。わたしはグラスの中の氷を見つめた。角が丸くなっていく音が、やけに遅い。
扉の鈴が微かに鳴り、外の風が一筋だけ入り込む。冷えが手首の内側を撫で、さっきの掌の温度を思い出させた。
「……わたしは、そんな守られなきゃいけないような子供じゃ、ないよ……」
小さな声で吐き出す。氷がまた、小さく音を立てた。
「こうして、お酒の味だってわかるんだから……」
ヴィルの目がわずかに驚いたように見開かれる。けれどすぐに柔らかな表情に戻り、わたしの言葉をそっと受け止めてくれる。
「ふ、そうか……」
苦笑と共に肩をすくめる仕草。
「確かに、お前は優れた魔術師としての才を持ち、実際にとんでもなく強い。黒髪のグロンダイルの名は伊達ではない。大人のハンター連中相手にだって堂々と渡り合い、臆することがない」
「そうは言っても、この街に来た当初は舐められたり子供扱いされたり、それは酷いものだったわ。けれど、そんな認識は数日のうちに覆してみせた。ただ、前にも言ったけど、ちょっとやりすぎちゃったんだけどね……」
「酒場で出会った時、お前は隅っこのテーブルに一人で座っていたよな。ハンター連中から“一目置かれている”って雰囲気は、すぐに伝わってきた」
「近寄りがたい雰囲気だった、でしょう?」
「まあな」
「でもね、一人でゆったりと時間を過ごすのも、心の癒やしになるんじゃないかしら? わたし、騒がしいのは苦手だし」
強がりめいた言い訳が口をつくと、ヴィルは小さく頷いた。否定も追及もせず、そのまま受け止める。そういう優しさが、今夜は余計に沁みた。
「その大人びた口ぶりといい、物事の見方にしても手順を大切にするところといい、よくできている。本当に不思議なものだ。だが……時々そんなふうには見えなくなる……」
「どうして?」
思わず問い返す。グラスの中で氷が揺れ、耳の奥の鼓動と重なる。
「年相応の娘らしさといったらいいか……無邪気に笑ったり、怒ったり、泣いたり、そんな純粋な喜怒哀楽が時折見え隠れしてな……」
その言葉は、心の奥深くまで届いてしまう。わたしは息を詰め、グラスを指先できゅっと掴んだ。
大人びようと必死に強がってきた。けれど、子供のような感情がふと零れてしまう。その矛盾を指摘されると、隠していたものを暴かれるようで、みぞおちが重く痛んだ。
「……そうかな?」
笑みを作ろうとする。けれどぎこちなさは隠せない。視線をグラスへ落とし、氷の角を数える。頭の中では話題を変えようと必死だった。自分の中の乖離を知られるのが怖い。
ヴィルの目に、一拍だけ問いかけの色がよぎった。けれど言葉にはせず、ただグラスを傾けた。
そのまましばらくわたしを見つめていたが、やがてふっと息を吐き、柔らかく笑った。
「俺が言いたいのは、無理に我慢をする必要はないということだ。お前は自分の気持ちに正直であればいい」
その言葉が胃の底へ落ちて、指先の力だけが先に固くなる。甘えたい気持ちと、そこへ滑り落ちたくない意地とが、胸の内で細く擦れ合った。
氷がカランと鳴った。その一音に救われた気がしたのに、また揺れは戻ってくる。わたしはヴィルの視線を避け、淡い緑の液面を見つめた。
ヴィルの優しさは変わらない。父にも、兄にも、仲間にも似た温度で、いつもそばにあってくれる。けれど、その温もりに触れるたび、なぜか泣きたくなる自分がいる。
無理しなくていい。そう思えたら、きっと楽になれる。なのに、力の抜き方だけがわからない。
「……ありがとう、ヴィル」
かすかな声を絞り出す。響きはグラスの中に落ち、氷と一緒に静かに揺れた。
ヴィルは優しく微笑んだ。その笑みは、心に沁みて温かい。けれど同時に、切なさも増していった。
カクテルの甘さが喉を過ぎ、腹に広がった。氷がひとつ沈む音。強がりはまだ溶けない――と、自分にだけ聞こえた。




