寝所から届くもの
その夜、寝台の中央には、前夜までと同じ幅の空間が残されていた。侍女の一人が左側へ掛け布を置き、もう一人が右側を整える。布の端をそれぞれ外へ引き、できた皺を掌で押し伸ばしてから、枕の位置を確かめる。中央には、誰のためでもない白い敷布が、細長く覗いていた。
侍女長は寝台の足もとに立ち、蝋燭の残りと水差し、呼鈴の紐へ順に目を向けた。毎晩、繰り返してきた手順だった。
わたしも、これまで何度も見ている。それなのに、その夜は、侍女たちの目がどこを通り、何を確かめているのかばかりが見えた。
右の掛け布の端へ添えられた指。左の枕へ残った窪みを直す手。中央の布地へ一度だけ落ち、それ以上は留まらなかった視線。
机の脇では、ヴィルが剣帯を外していた。金具が外れる短い音のあと、鞘が椅子の背へ立てかけられる。侍女たちは誰もそちらを振り返らない。けれど、彼がまだ室内にいることを知らない者はいなかった。
「陛下、お支度が整いました」
侍女長が一礼した。
「いつもありがとう」
答えると、三人は音を立てずに下がった。
扉が閉じたあとも、寝台の中央を見ていた。
「どうした?」
ヴィルが剣から手を離した。
「なんでもない。なんでもないから。気にしないで」
「……そうか」
何でもないという言葉を信じたのか、いまは聞かないことにしたのかは分からない。ヴィルはそれ以上問わず、暖炉の火を見に行った。
火が小さくなるのを待ってから、ヴィルがいつものように尋ねた。
「今夜も、ここでいいか?」
「もちろん」
掛け布を胸もとまで引き上げ、目を閉じた。暖炉で薪が小さく崩れる音がして、暗がりの向こうからヴィルの呼吸がかすかに届く。中央の空間は、今夜もそのままだった。息をひとつ長く吐くと、張りつめていた身体から少しずつ力が抜け、意識は静かに眠りへ沈んでいった。
◇◇◇
翌朝、窓掛けを開く音で目を覚ました。
細く差し込んだ朝の光は白く、床の上へ長い筋を作っていた。火の落ちかけた室内は冷えている。鼻先まで引き上げていた掛け布を下ろすと、向こう側でヴィルが身を起こした。
侍女たちは、わたしたちがそれぞれの側から下りるあいだ、湯と衣服を用意していた。視線を伏せているようでいて、足取りは迷わない。誰がどちらの側を使ったのかを、初めから知っている動きだった。
ヴィルが隣室へ移る。扉が閉じると、侍女の一人が寝台へ近づいた。左の枕を持ち上げ、形を戻す。右の掛け布も同じように畳む。中央に残った敷布は、直す必要がないほど平らだった。それでも侍女は掌を滑らせ、端まで確かめてから手を離した。こちらを見たわけではない。何かを言ったわけでもない。その手つきに、好奇心はなかった。港の報告書で、書記が日付と担当者の欄を確かめるのと同じだった。昨日もそうだったか。前の日と違うところはないか。見落としがないか。
「陛下、お寒くはございませんか?」
背後から侍女長に問われ、わたしは寝台から目を離した。
「ええ。大丈夫よ」
「お湯をもう少し熱くいたしましょうか?」
「いいえ、このままでいいわ」
椅子へ座ると、侍女長が若緑の髪を留めていた金具へ手をかけた。重ねられた髪が持ち上がり、その下で押さえられていた黒髪が肩へ落ちる。鏡の中で、侍女たちの手は止まらなかった。一人が若緑の髪を台へ置き、もう一人が黒髪を梳く。梳き終えた髪をまとめ、見えなくなるよう丁寧に留めてから、若緑の髪を再び載せる。額の生え際と耳の後ろを確かめ、金具を差し込む。
――この人たちは、メービスの正体を知っている。
黒髪の巫女を女王の姿へ整えるため、クレイグが選び、ここへ置いた人たちだった。けれど、いまのわたしたちの事情を知る由もない。わたしたちが、魂と呼ぶしかない情報だけを五百年遡ってこの時代へ移され、メービスとヴォルフの身体を借りていることも。その身体の奥で、本来の二人が眠っているのかもしれないことも知らない。毎朝、自分たちの手の下にいる女が、何を恐れて鏡を見ているのかまでは知らなかった。
最後の金具を差し込んだあと、侍女長が鏡越しに目を合わせた。
「陛下。お支度のあと、少しだけお時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「なにかあったの?」
「皆が下がってから申し上げたく存じます」
声はいつもと変わらなかった。けれど、金具から離れた指が、すぐには腹の前へ戻らなかった。
「わかりました」
着替えと髪の支度が終わると、侍女長はほかの二人へ朝食の確認を命じた。二人は一礼し、若緑の髪を収めていた箱と湯の器を持って部屋を出ていく。
扉が閉まる。
侍女長は、鏡台の脇へ立ったまま頭を下げた。
「恐れながら、わたくしどもは、陛下と王配殿下の御様子を案じております」
鏡の縁へ置いていた手が動かなかった。
「様子、というのは?」
「陛下は、このところ御公務が長引く日が続いております。お食事を残される日もございました。夜半にお呼びはございませんが、お休みが浅いのではないかと申す者もおります」
「心配には及ばないわ。ちゃんと眠れているし、食事を残したのも、毎日ではないでしょう?」
「はい。それだけであれば、わたくしもお疲れのためかと考えておりました」
侍女長は顔を上げなかった。
続く言葉が、何なのか分かった。
「あなたが言いたいのは、寝台のことね」
侍女長の肩がわずかに固くなった。
「……はい」
窓の外で、冬の枝が風に揺れた。葉のない枝先が硝子を掻くような影を落とす。
「率直に、見たことと考えたことを分けて話してください。あなたがどう思ったのかも聞きます。それを咎めるつもりはありません」
侍女長はゆっくり顔を上げた。
「見たことだけを申し上げます。この三週間、寝具は二組のままにございます。中央の間隔も、ほとんど変わっておりません。王配殿下は夜ごと御寝所へお入りになり、朝までお留まりです。夜半に人をお呼びになったことはございません」
「それだけ?」
「わたくしどもが確かに申し上げられることは、それだけにございます」
「では、侍女たちはどんなことを考えたの?」
侍女長の唇が一度閉じた。
「……御二人に、何か御事情がおありなのではないかと」
「事情とは? どのような?」
「御疲労か、御不調か、あるいは……御二人のお心が、すれ違っておられるのではないかと、案じております」
夫婦の営みがない、と断定する言葉は出なかった。それでも、中央へ残された空間に何を置いたのかは分かる。
「侍女たちが、その話を外でしたのですか」
「いいえ」
それまで抑えられていた声が、初めてはっきりと響いた。
「そのようなことはさせておりません。陛下の御髪を知る者たちでございます。見たものを口外しないことが、どれほど重い務めかは、皆、承知しております」
「知っているのは、わたくしが黒髪の巫女であること。そういうことよね?」
「はい。わたくしどもが承知しておりますのは、陛下の黒髪と、それを隠して公の御姿をお整えする務めまでにございます」
侍女長の返事には迷いがなかった。
「では、なぜ今日になって、わたくしへ話そうと思ったのですか?」
「外から、問いを受けたためでございます」
鏡台の上に並んだ金具が、朝の光を細く返していた。
「今朝、衣装を運んでまいりました者から、陛下は御加減がお悪いのかと尋ねられました。わたくしが理由を問いますと、王統についての建議が上がったにもかかわらず、御二方が仲睦まじくお過ごしとの話を、いっこうに聞かない、と」
「わたくしたちの仲を、ですか?」
「はい。王配殿下が夜ごと御寝所へお入りになることは、廊下番も近衛も知っております。ですが、寝所の内を知る者は限られております。知らぬ者ほど、何も聞こえてこないことに、理由を求めるのでしょう」
「その者は、何と言ったのでしょう?」
「御不仲なのではないか、と」
侍女長は、言葉を置く場所を選ぶようにゆっくり続けた。
「王配殿下は、形だけ御寝所へ通っておられるのではないか。そう申す者もいると、耳にいたしました」
――形だけ。
昨夜まで、二枚の掛け布は、わたしとヴィルのあいだだけにあるものだった。毎晩、同じ場所でよいかを確かめ、どちらも眠れるように残した空間だった。
扉の外へ出た途端、それは別の言葉になる。
「それは、寝所を預かる侍女たちが漏らしたことではないのね」
「そのような事実は確認しておりません。建議が出たことで、これまで気にも留めなかった者まで、王配殿下がいつお入りになり、いつお出になるかを気にするようになったのでしょう。風聞が先にあり、寝所の内を知っているはずの者へ、答えを求めているように思われます」
「それで、あなたは何と答えたの?」
「陛下の御体調に、御公務へ差し支えるような異変はないと。それ以外は、わたくしの口から申すことではないと申し渡しました」
――責めるべき言葉ではない。
侍女長は、見たことを広めてはいない。聞かれても答えず、そのうえで、外から問いが来ていることを先に知らせた。
「このことは、どこへ、そしてどこまで報告されているのですか?」
「陛下の御起居と御体調は、侍女長であるわたくしがまとめます。御公務や御身の安全に関わることは、宰相府へ上げる務めにございます」
「それは、寝具の置き方まで?」
「通常であれば、寝具の位置を一つずつ記すことなどございません」
「通常ではないと? どこがです?」
「些細な変化であっても見逃さぬこと。それが、わたくしどもの務めの一つでございます。ですが、同じ状態が続くこともまた、見過ごすわけにはまいりません」
「でしょうね……」
「それを理由に陛下の御不調や御不和を問う者が現れました。いま何も申し上げなければ、わたくしが都合の悪いことを伏せたと受け取られるおそれがございます」
侍女長は両手を腹の前で重ねた。右の親指が、左の指の節を押している。
「次に上げる報告には、見たことだけを記します。寝具は二組であること。王配殿下は朝までお留まりであること。夜半のお呼びはなく、陛下の御体調に、いまのところ明らかな異変はないこと。御二人の御仲について、わたくしの考えを、事実として書くことはいたしません」
「報告しないよう、わたくしが命じれば、あなたはどうするのですか?」
自分の声が、思っていたより平らに出た。
侍女長はすぐには答えなかった。
「陛下の御命令には従います」
右の親指が、もう一度、左の指を押した。
「ただ、陛下の御身に関わることを、宰相府へ届かぬようにする。その先例を、この件で作ることを、わたくしは恐ろしく思います」
毒が入り、熱が出て、眠れない夜が続いたとき、寝所の扉の内側でしか見えない異変を最初に知るのも、この人たちだ。
――彼女はなにも間違ってない。
わたしがいま見られたくないものだけを隠すために、その道を塞げば、次に何が届かなくなるかはわからない。
「報告を止めるようなことはいたしません。それでは、あなたの立場がなくなるでしょう」
侍女長の肩から、わずかに力が抜けた。
「ただし、確かに見たことだけを記してください。風聞を事実として記さぬこと。誰から何を聞いたのかは、同じ紙へ混ぜず、別に報告してください。いいですね?」
「かしこまりました」
「それから、侍女たちには、わたくしが責めてはいないと伝えてちょうだい」
「お心遣い感謝いたします」
「どうか、これまでどおり、側仕えとしてわたくしたちを支えてください」
「はい。誠心誠意務めさせていただきます」
侍女長は深く頭を下げた。すぐには身を起こさない。
「いろいろ心配をかけて申し訳ないけれど、これからは、遠慮なく言ってくれると助かるわ」
「……もったいなきお言葉にございます」
顔を上げたとき、侍女長の目もとは、いつもより固かった。
「わたくしどもは、決して陛下と殿下を急き立てたいのではございません」
「わかっています」
「ただ、近頃の陛下は、皆の前ではお笑いになっていても、お一人になられたあとまで、その御笑顔が残りません。何か御心を苦しめることがあるのなら、お休みになる御場所だけでも、お安らかであっていただきたいのです」
髪を整えていた手と同じ手が、胸もとで強く重なっていた。
「大丈夫よ。眠る場所は、いつだって安らかだから」
答えると、侍女長は寝台へ目を向けた。何も言わずに戻した視線に、納得できないものが残っている。
「御不仲でないことだけでも、人々に分かる形でお示しになれば、風聞の一部は収まるやもしれません」
「どうやって?」
侍女長の口が開き、閉じた。
「評議や御視察の折に、王配殿下と親しくお言葉を交わされるなど……」
「それは、少し難しいかしら。この寝所を出れば、わたくしは女王で、殿下は王配です。それに、まだ即位したばかりですし、いまは国政が第一。わたくしも余裕がありません。ただ、仲がよいと示せば示すほど、次は御子はいつかと聞かれるでしょう?」
返事はなかった。
市場では、ヴィルの手を借りて馬車を下りた。人々の前にも並んで立った。老女の目には、それで十分、仲のよい女王と王配に見えたはずだった。
祝福は、そこから御子へ進んだ。
「少し意地の悪い聞き方かもしれないけれど、仲がよいと見せることと、御子を望んでいると見せることを、周りは分けてくれるのかしら?」
「……わたくしには、はっきりとは申し上げられません」
「そうでしょうね」
侍女長は、何も解決できなかったことを詫びるように、もう一度頭を下げた。
「朝から、重いことを申し上げましたこと、どうかご容赦くださいませ」
「気にしないで。あなたが勇気を出して言ってくれなければ、わたくしは、もっと後で知ったことでしょう。そのほうが困ったと思う。ほんとうに、ありがとう」
侍女長の目がかすかに揺れた。
扉の外から、朝食の用意が整ったと声がかかった。
侍女長は応じ、扉へ向かう。取っ手へ手をかけたところで、わたしは呼び止めた。
「今夜も、寝具はいつも通りにしてください」
侍女長は振り返った。
「二組で、中央を空けたままでございますか?」
「ええ。いまのわたくしたちには、それが必要なのです」
――いまはいい。でも、この先はどうなる――。
「はい」
「でも、あなたには誤解してほしくないの。わたくしたちは、決して不仲などではないわ」
「……かしこまりました」
開いた扉の向こうから、朝の食器が触れ合う音が届いた。




