王統を継ぐということ
仮設市場を離れるときも、背中には明るい声が幾つも届いた。帽子を振る人がいて、店先から頭を下げる人がいる。そのたびに足を止め、女王の顔で笑みを返した。歩き始めれば、視線はまた重ねた手へ落ちた。
港の端で馬車の扉が開く。差し出されたヴィルの手へ、重ねていた右手をようやく載せた。革手袋の上へ指を置いたはずなのに、掌の形にうまく沿わない。ヴィルは何も言わず、わたしが座席へ収まるまで手を離さなかった。
扉が閉じると、槌の音も人々の声も、厚い板の向こうへ遠ざかった。窓の外では、斜めに落ちていた光が、もう建物の屋根に遮られ始めている。往路で見えた石壁の薄氷は消えていたけれど、日陰には濡れた色が残り、車輪が通るたび、冷えた水が細く跳ねた。
「手を開け」
向かいから低い声がした。
「……開いてるわよ」
「それでか」
視線を落とす。膝の上では、両手がまた固く組み合わさっていた。背筋を伸ばして座っているつもりだった。けれど、両肩は上がったままで、顎はわずかに胸もとへ寄っていた。ヴィルではなく、自分の手を見ていた。
組んでいた指を、一本ずつ引き離す。左右の手は離れた。けれど、どの指も内側へ曲がったまま、伸びなかった。爪の跡はなかった。それでも、付け根には、まだ何かを握っているような重さが残っていた。
ヴィルは窓の外へ目を戻した。
「あなたにも、聞こえていたわよね?」
「ああ」
馬車が曲がり、港へ続く通りが窓の後ろへ流れていく。仮設市場の布屋根は遠くなっていた。風に煽られた端を、二人がかりで押さえている。
「御子だって」
「ああ」
「あの人は、わたしたちを祝ってくれていただけなの」
「分かっている」
「いま始まったものが、その先も続くようにって。あの人たちには、女王と王配に御子がいることも、ひとつづきの願いなのよ。ふつうに考えて、当然よね……」
言いながら、老女を庇っているのか、自分が喜んだことを庇っているのか、分からなくなった。あの温かさまで、最後の一言で塗り替えたくはない。左右へ離した手を見下ろす。指はまだ内側へ曲がり、膝の上へ置いた形のまま動かなかった。
「わたし……ただ、うれしかったの。人々の暮らしが、ほんの少しでも動いたことが。喜んでくれたことが。わたしの選択のひとつひとつが実を結んでいくのが実感できたような気がしたから。でも……正直、浮かれすぎてたのかもしれない」
窓硝子に映る自分の口もとを見た。若緑の髪の下で、女王の顔はもう笑っていない。
「あの一言だけが、棘みたいに刺さって……あのひとは、なにも悪くないのに」
窓硝子の中で、ヴィルがこちらを見た。すぐに返す言葉はなかった。
車輪の響きが変わる。馬車が港近くの粗い道から、王宮へ続く敷石へ入ったのだと分かった。
窓硝子から目を離しても、ヴィルへは向けられなかった。視線はまた膝の上へ戻った。
「ねぇ、あなたはどう思った?」
「俺にも向けられた言葉だと思った」
それ以上は言わず、ヴィルは窓の外へ目を向けた。
膝の上で、冷えていた指を一本ずつ伸ばす。曲げたままだった節に血が戻り、遅れて細かな痛みが走った。
両手が開いても、肩に入った力はまだ抜けなかった。
◇◇◇
王宮へ戻ったころには、夕刻を告げる鐘より先に、回廊には灯がともされていた。
外套を侍女へ預け、執務室へ向かう。窓の向こうには、葉を落とした枝が黒く重なり、その隙間に残っていた空の色も、扉を開くころにはほとんど失われていた。机の上には、朝にはなかった書面が一綴り置かれていた。表紙には、『王統維持に関する建議』と記されている。
背後で、ヴィルの剣帯が小さく鳴った。
「これは、いつ届いたものですか?」
書面を運んできた侍従へ尋ねると、男は胸もとから受領控えを取り出した。
「昨日の朝にございます。貴族院から宰相府へ提出され、本日、陛下の御覧に入れるよう回されました。宰相閣下より、明朝の評議でご説明申し上げたいとのことでございます」
市場で老女の声を聞くより前から、この紙は王宮の中を進んでいた。
「分かりました。写しを王配殿下にもお願いできますか?」
「すでにご用意しております」
侍従が、裁可欄のない一束をヴィルの前へ置く。わたしはうなずき、下がるよう告げた。
扉が閉じたあと、表紙をめくった。最初に置かれていたのは、今は亡きギルク王子の後、女王の次に王位を継ぐ者が定まらないまま不測の事態が起きれば、諸侯のあいだに争いを招くおそれがあるという文だった。
国土の再建には長い時を要する。そのあいだに王統の先行きが見えなければ、現在進めている施策が次の御代にも保たれるのか、国内にも国外にも疑念を抱かせる。ゆえに、できるだけ早く王統維持の方針を示すべきだと続いている。
傍系から養子を迎えることも考えられる。けれど、直系を重んじるこの国では、どの家から選んでも、貴族と民衆の双方に異論を残すおそれがある、と記されていた。
向かいで、頁をめくる音がした。視線は手もとの文字へ落としたままなのに、その薄い擦れだけは妙に近く聞こえた。肩が、またわずかにこわばった。
最後の頁に置かれていたのは、女王と王配とのあいだに御子が授かることが、異なる家々の主張を招きにくく、もっとも確かな安定へつながるという意見だった。指が、その行の上で止まった。市場で聞いた言葉より、ずっと整っている。祝う声も、笑う顔もない。頁を押さえた指先から、紙の冷たさだけが伝わった。
もう一度、最初から読む。王統が定まらない、とある。けれど、現行の定めでは誰が候補となり、何を根拠に王位を継ぐのかは書かれていない。実子以外の継承に定めがあるのか、過去にどのような扱いがなされたのかにも触れていなかった。諸侯の争いを招く、とある。けれど、すでに何かが起きているのか、将来の危険を述べているのかは分けられていない。早く、とある。けれど、その期限が法によるのか、政治上の判断なのかは書かれていない。『不測の事態』の文字へ目を戻した。誰に何が起きた場合を想定し、どの家が何を主張し、政務のどこが止まるのか。主語のない言葉の内側へ、読む者が自分で最悪の形を入れるような書き方だった。余白へ問いを書こうとして、ペンを取る手が止まる。分からないことが多いから不安なのか、不安にさせるために多くを空けてあるのか。それさえ、いまの書面だけでは決められなかった。
向かいで、長く息を吐く音がした。わたしはそこで初めて顔を上げた。
「確かに、建議ではあるが」
ヴィルが、向かいで書面を閉じた。
「ええ。とても調査の報告とは言えないわね。報告というよりは、通告というべきかしら?」
結論を求める書面と、結論を出すための材料は、同じものではない。それでも、継承を巡って別々の名が掲げられたとき、争いに巻き込まれるのが王家だけではないことは分かった。紙の向こうにある危険を、書き方が足りないという理由だけで退けることもできない。喉の奥に、細い冷えが残っていた。王統に空白があるのなら、まず、その形を確かめなければならない。どこまでが定まり、どこからが定まっていないのかも知らず、『御子』の一語で埋めたことにはできなかった。
「明日、何を聞く?」
建議の最初の頁を開き直し、『不測の事態』と『できるだけ早く』の二か所へ細い紙片を挟んだ。
「まず、この二つの根拠について詳細な説明を求めること。それから、いまの定めで分かっていることと、分かっていないこと。そこからでしょうし、それ以上もできないわ」
ヴィルは自分の写しを持ち上げ、表紙に並ぶわたしたちの名を指で叩いた。
「俺が何を決め、何を負うのかは書かれてない。なんとも言えん気分だが」
余白へ、『王配』とだけ書きつけた。
「ほかには?」
「明日、聞いてからだ。無論、向こうも想定通りの答えを揃えてるんだろう。俺たちは、この時代の王家の事情について知らなすぎる。後手に回るしかないのが癪だな」
「そうね……」
ペンを置くと、指の節がまた固くなっていた。
◇◇◇
翌朝、評議の部屋の窓は、内側から触れても冷たかった。卓上へ届く光は白く、窓枠の影だけをくっきりと紙の上へ落としている。
長い卓を囲んでいた者たちが立ち上がる。正面には宰相クレイグ。ヴァロワ侯とヴァルナー卿が左右に座り、その下座には、前夜の建議を携えてきた貴族院の者と、王家の系譜や法令の記録を預かる官が控えていた。
席へ着くと、クレイグが書面を開かずに一礼した。
「初めに、区別して申し上げます。この建議は貴族院から提出された意見書であり、宰相府が法令と先例の調査を終えて整えた答申ではございません。判断に必要な資料は、別に揃える必要がございます」
「宰相殿にお尋ねします。前もって相談ひとつもなく、今朝の評議へ上げたのはなぜですか?」
「ギルク殿下亡き後、陛下の次に王位を継ぐお方が公に定められていないことは事実でございます。復興が動き始めたいま、その施策を一代限りのものと疑わせぬためにも、王統をいつ、どのように定めるかという問いまで退けることはできません」
クレイグは建議の表紙へ目を落とした。
「ただし、その問いと、この書面が推す答えは別でございます」
「別でございます」と言葉が落ちると、貴族院の者の口もとが固くなった。膝の上で組んでいた手を、一度ほどいて組み直す。
わたしは、その手からクレイグへ視線を戻した。
「問いを退けるとは申していません。わたくしに知らせるより先に、評議へ上げた理由を尋ねています」
窓枠の影が、クレイグの前の書面へ斜めに落ちていた。彼はわたしから目を逸らさなかった。
「先にお諮りすれば、王統の空白を評議で扱うこと自体が、陛下と宰相府の内々の意向によるものと受け取られます」
「意向を尋ねることは、答えを先に決めることではありません」
「承知しております。しかし、何を問いとして扱うかをお諮りすれば、評議に先立って、その範囲を陛下の御判断で定めることになります」
「それを避けたのですか?」
「はい」
クレイグの声は変わらなかった。書記のペンも動かない。卓を囲む者たちのあいだから、衣擦れひとつ聞こえなかった。
「王統を定める必要があるか。その一点は、御子を答えとするか否かに先立って、評議で扱うべきと判断いたしました」
「その判断は、どなたと共有したのですか?」
「宰相府から、王統の空白を評議で扱う必要を、貴族院の主だった諸卿へお伝えしました。法令と系譜を預かる者にも、調査の要否だけは確かめております」
「そのうえで、貴族院から建議が出されたのですね?」
「提出は貴族院の判断にございます」
「では、評議で扱う条件について、宰相府が先に整えたのですね?」
「御子を唯一の答えとしないこと。実子以外の道も調べること。そして、王統の空白そのものは放置しないこと。その三点については、事前に異論の有無を確かめております」
「貴族院の意向は先に確かめても、わたくしの意向は確かめないのですね……」
「建議を出す側の異論を確かめることと、最終裁可をなさる陛下の御意向を先に伺うことは、同じではございません」
「わたくしが先に口を挟めば、建議を止めたと見られると?」
「その疑いを残さぬためでございます」
「この建議は、いま起きている争いへの対処ですか? それとも、将来の争いを避けるための提案ですか?」
「建議が根拠としているのは後者でございます」
クレイグが答える。
「現在の動きを示す報告として、宰相府からお出ししたものではございません」
「しかし、動きが表へ出てからでは遅うございます」
貴族院の者が、今度はまっすぐ顔を上げた。
建議の角を押さえた指の下で、厚い紙がわずかに反っていた。
「陛下と王配殿下との御子であれば、血統を巡る異論をもっとも招きにくい。後継を明らかにすること自体が、争いを抑えるのでございます」
書面の不足を指摘されても、男の手は離れなかった。この建議を急がせたものまで、調査が足りないという一言で退けるわけにはいかない。
「争いを予防する必要は、否定しておりません」
手もとの建議を開く。昨夜、紙片を挟んだ頁がすぐに現れた。
「だから、何をもって後継を定めるのかを確認したいのです。現行の定めでは、わたくしに子がない場合、王位はどのように継がれるのですか?」
記録を預かる官が、用意していた帳面へ手を置いた。
「この場に用意した資料のみでは、確答いたしかねます。王家の系譜と現行の法令、過去にどのような扱いがなされたかを照合して申し上げる必要がございます」
「では、ここで候補の名を挙げる必要はありません。何が法に定められ、何が過去の扱いに依り、何がいまも解釈の分かれるところなのかを示してください。実子以外の継承について定めがあるなら、それもです」
「承知いたしました」
官が頭を下げるより先に、クレイグが書記へ視線を向けた。
「法令、系譜、過去の裁定は、別々に確認したうえで照合させる。異なる解釈があれば、結論を一つに整えず併記せよ」
書記のペンが動き出す。
「建議には、できるだけ早く、とあります」
わたしは二枚目の紙片を指で押さえた。
「この『早く』とは、法に定められた期限を示しているのですか?」
「この建議で申し上げているのは、政治上の判断にございます。法に期限があるかは、調査のうえで別にお示しいたします」
貴族院の者が答えた。
「復興が動き始め、民の支持が陛下へ集まるいまこそ、先行きを示すべきだという政治上の建議にございます」
市場で受けた祝福とは、別の場所から出た言葉だった。それでも、その支持を理由として使う者は、もう王宮の中にいる。
「では、法による期限と、政治上の判断を分けて記してください。今日答えなければ失われるものがあるのなら、それも具体的に」
「そのようにいたします」
クレイグが引き取った。
隣で、紙の擦れる音がした。
「宰相殿に訊く。私の名は、何の根拠で置いた?」
ヴィルは建議の表紙を開いたまま、貴族院の者を見ていた。
「王配殿下は、陛下とともに王統を支えるお立場にあられるためでございます」
「支える、では分からん。何を決め、何を負う?」
短い問いのあと、答える声はすぐには出なかった。
「王配に求められる役割と権限も、現在の定めと過去の扱いに分けてください」
わたしが言うと、クレイグはもう一度、書記へうなずいた。
「宰相府で調査項目を整理し、担当と必要日数を本日中にお出しします。その後、法令、系譜、過去の扱い、現在確認される動き、建議の政治上の根拠を分けて報告いたします」
「必要な資料が揃うまで、この建議への答えは出しません。よろしいか?」
貴族院の者の眉が、わずかに動いた。
「方針を示されぬことも、ひとつの答えと受け取られましょう」
「ですから、何を調べ、いつ報告するかは今日示します。黙ったままにはいたしません」
貴族院の者は、組み直した手を膝から卓上へ移した。爪の先が、建議の下端に揃う。
「何を調べ、いつ報告するかを示されることと、王統をいつまでに定めるかという方針を示されることは、同じではございません」
「根拠も分からないまま、期限だけを先に定めることはできません」
「期限を先に定めていただきたいのではございません。ただ、調査が終わるまで何も示されないのであれば、その空白もまた、諸侯にはひとつの意思として読まれます」
「ほう……すでにそのような動きがあるのですか?」
「現在の動きを申し上げているのではございません」
男の指が、建議の下端から離れた。
「危険が事実となってからでは、後継を明らかにするだけで争いを抑えられるとは限りません。その前に、争いの余地を狭めるための建議にございます」
「起きていない争いを理由に、答えを急がせることは認めません」
「急がせるのではなく、王統を定める意思があるとお示しいただきたいのでございます」
「その意思がなければ、調査は命じません」
「調査は、定めないという結論のためにも行えます」
貴族院の者の声は変わらなかった。言葉の切れ目で、窓の外を渡った風が硝子を細く鳴らした。
「陛下。調査項目と必要日数を本日中にお出しします。その報告日を、次の評議日として記録させてください」
「その日までに、必要な資料が揃わなければどうしますか?」
「足りない資料と、その理由を明らかにします。分からないことを隠して、結論を整えることはいたしません」
「では、次の評議でも、分からないことを理由に答えを一つへ寄せないでください」
「承知いたしました。ただし、分からないことが残るという事実も、後継をいつまで未定のまま置けるかを判断する材料に含めます」
ヴァロワ侯もヴァルナー卿も、閉じた書面へ手を置いていた。顔を見合わせる者はいない。閉じた書面を開き直す者もいなかった。女王の身体に関わることを、なぜ、わたくしのいないところでここまで整えたのか。その問いだけが、喉の奥に形を失わずに残っていた。けれど、いま記録されようとしているのは、御子を設ける期限ではない。実子以外の道を調べ、異なる解釈を併記する。次に開く評議も、結論を出すためではなく、報告を受けるためのものとなる。ここでその先へ踏み込めば、王統の空白をどう扱うかという問いは、わたしが何をされたくないかという訴えへ変わる。少なくとも、記録の上ではそうなる。
卓の下で、親指の爪が人差し指の側面に触れた。爪が食い込む前に離した。
「次の評議日は、報告を受ける日として記してください。結論を出す日とはしません」
「承知いたしました。建議を退けたとも、棚上げにしたとも記録させません」
クレイグの言葉とともに、止まっていた書記のペンが再び動いた。
評議を終え、執務室へ戻ると、昨日の港から新しい報告が届いていた。仮設市場の風除けに必要な布の幅と枚数、柱を補う場所、作業を預かる者の名が記されている。わたしは報告の余白へ了承の印を入れ、次の頁をめくった。
その脇には、『王統維持に関する建議』が置かれていた。最後の頁を開く。昨日と同じ『御子』の二字がある。書記から受け取った調査項目の控えを、その上へ置いた。紙は少しだけずれ、『御』の一字が端から覗いた。指で押し戻さず、港から届いた次の報告を開いた。




