生活が動く喜びと、善意ある「御子」
朝の敷石に残った薄氷は、日が昇っても、なかなか縁を失わなくなった。夜番の靴音を聞かずに眠ったあの夜から、三週間ほどが過ぎていた。庭の木々はほとんど葉を落とし、細い枝の向こうにひらけた空は、朝ごとに白さを増している。南から吹く風にも、海の匂いに紛れて、指の節へ入り込むような冷たさがあった。
初めの数日、執務室で動いたのは紙ばかりだった。港の荷揚げ場と倉庫の状態、仮設市場へ移る店の順番、荷車を通せる道と補修しなければ使えない道、掘り返されたままの水路。それぞれ別の者がまとめた報告を同じ机へ並べると、ひとつの案で空白になっていることが、別の案ではすでに決まったこととして扱われていた。わたしは、そのたびに原議を差し戻した。誰が調べるのか。いつまでに答えを出すのか。工事のあいだ、そこで商いをしていた人々はどこへ移るのか。賃金はどこから支払い、遅れたときには誰へ申し出ればよいのか。
元の時代にいたころ、わたしはこの世界を知ろうと足掻いていた。昼は王立魔術大学の大図書館で、魔術理論をはじめ、歴史や政治、経済についての書を読んだ。夜や休日は離宮のお祖父さまの書斎で、王国の政に関わる記録や、諸国と交わされた書簡に目を通した。差出人と年代、封蝋に刻まれた紋章を照らし合わせ、散らばった断片を何度も並べ直した。
わたしが知っている王都は、五百年を経たあとの姿だ。港から市へ荷を運ぶ道も、倉庫の並びも、報告に記された現在とは違っている。五百年のあいだに何が必要とされ、何が失われ、どうしてあの形へ変わったのか。わたしは、その途中を知らない。
未来の姿へ近づければよいわけではなかった。傷んだ場所を直せば足りるのか。荷揚げ場や倉庫を組み直す必要があるのか。港そのものを広げる必要があるのか。どれも、いまの船と荷と人の流れを知らないままでは決められない。だから、五百年後のやり方を持ち込む代わりに、この時代の人々が持ち場ごとに知っていることを、次の人へ渡せる形にしたかった。
「調査中」とだけ記されていた欄へ担当者の名が入り、空白だった期限には日付が置かれた。仮に使う場所には、利用できる期間と、使えなくなった場合の連絡先が添えられた。街路を広げるために店を移す案には、先に仮設市場の区画と利用順を定めるよう求めた。
完了を示す印は、まだほとんどない。それでも、名のなかった仕事へ人の名が入り、いつかとしか言えなかったことに期限がつく。その日から仕事へ入れる人がいるのだと、戻ってくる報告が教えてくれた。
一方で、冬が近づくぶん、屋外で働ける時間は短くなった。仮設市場の屋根を張る者も、道の窪みへ石を入れる者も、灯りだけを頼りに同じ仕事を続けることはできない。食料を濡らさず置く場所も、冷え込む夜を越す住まいも要る。けれど、急ぐという一語で、立ち退く人や傷む道を見えなくしてよいはずもなかった。
戻ってくる紙には、以前より多くの筆跡が重なるようになった。最初に案を出した者の文字へ、現場を確かめた者と費用を算じた者が、どこで止まり、何が揃えば再び動かせるのかを書き添えている。朝の紙は冷たい。指で筆跡を追うと、誰がどこで手を止め、次に何を待っているのかを、空欄だったころより思い浮かべやすくなった。
朝は、冷えた紙を押さえながら報告を読み、昼には担当者の説明を聞く。日が傾くころ、書記が持ち帰る束には、決まったことと決まらなかったことが、別々に綴じられていた。
幾日か経つうちに、報告の言葉も変わり始めた。「調査する」は「調査を終えた」になり、「選定する」と書かれていた欄には、選んだ場所の名が入った。人手を集める予定だった仕事には、実際に働き始めた人数が添えられた。
荷揚げ場の一部では、傷んだ箇所を避けて仮の板道が組まれた。移転を待って店を閉めていた人々には、港へ続く通りの一角が仮設市場として開かれた。道幅と路面を調べる者のあとを、荷を積んでいない荷車が実際に通り、車輪の沈む場所へ印を残していった。
作業に入った人々へ、賃金が支払われたという記録も戻ってきた。
紙に並ぶ名を見ていると、その人たちがどんな顔をしているのか知りたくなった。賃金を受け取った手が、次に何を買うのか。その荷が、どの家へ運ばれていくのか。執務室へ届く報告の、その先を自分の目で確かめたかった。
その朝も、窓辺の水差しには薄い曇りがついていた。港へ向かう馬車の中で最後の報告を開くと、紙は指先の熱をすぐに奪った。車輪が敷石の継ぎ目を越えるたび、細かな文字が上下に揺れる。
「仕事熱心なのもいいが、それでは酔うぞ」
向かいに座るヴィルが、窓の外を見たまま言った。
「あと一枚だけ。仮設市場の利用者から、風除けについて申し出があったみたいなの」
「そういうことは、現場で見てから指示すりゃいい。紙へ顔を近づけたまま着いて、降りた途端にふらつかれるほうが面倒だ」
「心配性ね。あなたのお手間は取らせません」
「そう言ってから、ふらつくのがお前だろうが。ただでさえ、睡眠不足だというのに。ああ、侍医に酔い止めでも貰っとけばよかった」
言い返そうとしたところで、馬車がひときわ大きく揺れた。紙の端が鼻先へ跳ね上がり、わたしは唇を結んで束を閉じた。
「はいはい……これで満足かしら?」
「ああ」
間を置かずに返されると、それはそれで腹が立つ。膝の上へ置いた束を革紐で留め、窓へ顔を向けた。
「帰りは、日が落ちるかもしれないな」
ヴィルの視線の先で、石壁の上を淡い光が流れていく。
「こちらに来てから、もうひと月ほど経つのね……前は同じ時刻でも、もう少し明るかったのにね」
「冬に差し掛かるのを実感するよな。なんだか寒さも増してきた」
「でも、王都は南からの温かい海風があったでしょう? 冬でも過ごしやすい気候だったはずよ」
「そのはずなんだがな、よくわからん。とにかく、王宮より冷えるのは間違いない。視察が長引いても、意地を張って平気な顔をするな」
「それは、あなたもでしょう? 風邪なんて引かないでね」
襟元の留め具が開いたままなのを見て言うと、ヴィルは眉を寄せた。反論するかと思ったが、先に片手を上げ、金具を留める。
「これでいいか」
「ええ」
今度は、わたしがすぐに答えた。
王宮を出たころには白く曇っていた空も、いまは雲の切れ間から薄い光が落ちている。けれど、通り沿いの木々は枝ばかりで、石壁の陰に残った薄氷は、馬車が通る時刻になっても透明な縁を残していた。
外套の襟へ顎を埋めた人々の息が白い。戸口で箒を使う女も、荷車の軸を確かめる男も、手を止めて馬車へ頭を下げた。顔を上げたあと、そのまま隣の人へ何かを告げる姿が、窓枠の向こうへ流れていく。
港へ近づくにつれ、潮の匂いが濃くなり、そこへ湿った木と縄の匂いが混じった。
馬車が止まり、扉が開く。前後を護っていた近衛騎士たちが先に道を確かめ、そのあとでヴィルが地面へ降りた。石畳と周囲を見渡してから、こちらへ手を差し出す。革手袋に包まれた大きな掌へ指を置くと、潮風が外套の裾をさらい、若緑の髪を留めた金具の下へ入り込んだ。
首をすくめかけ、外套の内側で肩を戻した。近衛騎士たちの向こうには、港で待つ者たちが並んでいる。息を細く吐き、どうにか背を伸ばした。
「足もとに気をつけろ。石が濡れている」
ヴィルは相変わらずだった。いつものように言い返しかけた言葉を、わたしは飲み込む。
「ありがとう。ヴォルフ」
手は、わたしが地面へ両足をつけるまで離れなかった。
海に面した荷揚げ場では、槌の音と滑車の軋みが重なっていた。潮を吸って黒ずんだ古い板のあいだで、新しく敷かれた板だけが、まだ白い木肌を見せている。太い縄を引く男たちの口からこぼれた息は、風に千切れた。積み上げられた袋の脇では、空の荷車が一台ずつ板道へ入り、組み上げた箇所が重みに耐えるか確かめながら進んでいる。
港の状態を説明する官が、わたしたちの前で深く頭を下げた。その後ろには、現場を預かる組頭と、帳面を抱えた書記が控えている。
「仮の荷揚げ場は、今朝から荷を入れております。まずは重量を抑え、間隔を空けて荷車を通しております」
官の示した先で、一台の荷車がゆっくりと板道を進んでいた。車輪が継ぎ目を越すたび、組頭が腰を屈めて揺れを見る。少し離れた場所では、別の男が板の裏へ手を差し入れ、支えの位置を確かめていた。
「朝、使い始める前には、誰が確かめるのですか?」
「荷揚げを預かる者と、現場の組頭がともに見ます。傷みがあれば、荷を止めたうえで修繕を預かる者へ知らせます」
「止めたあとの荷を、どこへ回すかも決まっていますか?」
官は書記へ目を向けた。書記が帳面を開き、挟んであった紙を示す。紙の端は、海からの湿気を吸って、わずかに波打っていた。
「別の仮置き場を定めております。ただ、そちらへ通じる道は幅が狭く、一度に入れられる荷車の数が限られます」
「では、使えない場合があったことと、回した荷の数も残してください。ここが順調に動いた日だけでは、必要な広さを見誤ります」
「かしこまりました」
書記のペンが紙の上を走る。すぐ隣で槌が鳴り、ペン先の擦れる音が一度消えた。
その数字が積み重なって初めて、いまある荷揚げ場を直せば足りるのか、新しい場所まで要るのかを考えられる。まだ、どちらにも印を置くことはできなかった。
港の端には、作業へ入った人々の名を確かめる小屋が設けられていた。戸が開くたび、紙と新しい木、それに人の体温が混じった匂いが流れてくる。壁際では、仕事を終えた者が順に名を告げ、書記が帳面へ印をつけていた。
「賃金は、定めた日に渡せているのでしょうか?」
「はい。作業日と持ち場を照合し、こちらで支払っております。名がない、日数が違うという申し出も、この小屋で受けるようにしております」
答えを聞いていると、戸口のそばにいた若い男が、帽子を胸へ押し当てた。縄を引いていたのだろう。手のひらは赤く、指の付け根には新しい擦り傷がある。
「受け取れていますか?」
声をかけると、男は目を見開き、慌ててもう一度頭を下げた。
「は、はい。先に働いた分は、きちんと。おかげで、家へ薪を持って帰れました」
「そう。よかった。でも、手当てもしてもらってくださいね。その手では、明日、縄を握れなくなるかもしれないでしょう?」
男は自分の手を見下ろし、指を握り込もうとした。腫れた皮膚が引きつれたのか、途中で力が止まる。
「これくらい、平気です」
「平気かどうかは、手当てのできる人に見てもらって。あなたが働けなくなれば、困るのはあなただけではないでしょう?」
「……はい、陛下」
男の返事を聞くと、組頭がその肩へ手を置き、手当てを受けるよう促した。男はもう一度頭を下げ、仲間に連れられて歩き出す。赤く腫れた手が外套の陰へ隠れるまで見届けてから、わたしは市場へ続く道へ向き直った。
その通りを進むと、仮設市場の布屋根が風を受けて大きく鳴っていた。
真新しい柱と、別の場所から運ばれたらしい古い板壁が、まだ不揃いな列を作っている。それでも台の上には、籠や壺、布包みが隙間なく並び、客と店の者の声が絶えず行き交っていた。煮炊きの湯気に潮の匂いが混ざり、その奥から、焼いた生地の香ばしさが流れてくる。
仕事を終えた男が、賃金の袋を外套へしまい、小さな店の前で足を止めた。袋から出した貨幣の一部が、店の女の手へ移る。女はそれを腰の袋へ落とし、包みを差し出した。男は受け取った包みを両手で庇いながら歩き出す。その横を、空になった籠を抱えた女が、頬を緩めて通り過ぎた。
少し先では、荷車を引いてきた老人が、店先へ積まれた品をひとつずつ眺めていた。値を聞き、手の中の貨幣を確かめ、迷った末に小さな布包みを選ぶ。店の女は代金を受け取ると、包みの口をもう一度きつく結び、風に飛ばされないよう老人の外套の内側へ押し込んだ。
その隣では、湯気の上がる器を抱えた若い女が、冷えた指を縁へ添えている。ひと口飲むと目を細め、連れの男へ器を渡した。男の頬にも、同じような笑みが浮かぶ。
紙の上では、賃金も、仮設市場も、それぞれひとつの欄に収まっていた。ここでは、貨幣と品が人の手を渡り、温かな器がまた別の手へ渡っていく。
「動いている……」
こぼれた声は、自分の耳へ戻るより先に風へさらわれた。半歩後ろにいたヴィルは聞き返さず、通りの先へ目を向ける。
「ああ。お前が細部まで目を配り、通してきたものが、確かにここにはある」
「いくら書類を突き詰めたところで、実際はどうだかわからないものよ。足りないものも見えてくるしね」
泥の乾きかけた路面には、港の側から市場へ入り、店先で向きを変えた荷車の轍が幾筋も残っていた。荷を運んだ跡も、空になって戻った跡も、同じ道の上で重なっている。肩に入っていた力が抜けた。潮を含んだ冷たい空気が、さっきまでより深く入ってくる。まだ仮の場所だ。屋根も壁も足りない。荷揚げ場も、すべての荷を受けられるわけではない。一本の道が使えなくなれば、荷車は狭い道へ回らなければならない。それでも、昨日まではなかった轍を、今日の荷車が残していた。
視線を上げると、日差しはもう、布屋根の上を斜めに滑っていた。昼を過ぎて、それほど経ってはいない。店の者たちは明るいうちに縄の緩みを確かめ、夕方の風へ備えている。港のほうからは、短い間隔で槌の音が続いていた。
布屋根の端を押さえていた年嵩の女が、縄を握ったままこちらを見た。目を細めてわたしの顔を確かめ、隣のヴィル、後ろに控える近衛騎士へ視線を移す。縄から手を離すと、慌てて台の前へ出てきた。
「女王陛下……!」
その声に、近くの人々が振り返った。
店の奥から、通りの向こうから、荷を抱えたままの人々が少しずつ集まってくる。鍋の火を見ながら顔だけを向ける者もいれば、荷車を道の端へ寄せ、帽子を取る者もいた。仕事の音は止まらず、そのあいだから声だけがこちらへ寄ってくる。
「陛下、ここを開けてくださって、ありがとうございます」
年嵩の女が、冷えで赤くなった両手を胸の前で重ねた。
「前の場所を空けるよう言われたときは、もう店を畳むしかないと思いました。でも、ここなら港で働く人が寄ってくれる。今日は、持ってきた分が昼までにほとんどなくなったんですよ」
「それはよかったです。でも、風が強いでしょう。風除けについて、利用者から申し出があったと報告を受けています」
「ええ。まあ、この通りですからね。でも、店を閉めて待っているより、ずっといい。風除けがもう一枚あれば、文句なしです」
女はそう言って、布屋根を押さえる縄を見上げた。張りつめた布が大きく膨らみ、柱が低く軋む。女はすぐに片手を伸ばし、緩みかけた箇所を握り直した。
わたしは、後ろに控える官へ目を向けた。
「この声も、次の報告へ入れてください。仮の場所だからといって、不便を数えなくてよいことにはなりません。些細なことでも、後になって大きな意味を持つこともあります」
「承知いたしました」
官が頭を下げる。その向こうで縄を握り直した女と目が合った。女は赤い頬のまま笑い、もう一度深く頭を下げた。
人垣のどこかから、「女王陛下、万歳」と声が上がった。
すぐに別の声が重なる。
「末永く、お健やかで!」
「王配殿下も!」
笑い声が混じり、帽子や手が持ち上がる。半歩後ろにいたヴィルがわたしの隣へ進み、人々へ短く頭を下げた。剣帯の金具が、外套の下で小さく鳴った。
わたしも笑みを返した。唇の形を確かめる必要はなかった。
「復興はまだ始まったばかりです。困っていることも、足りないものもあるでしょう。どうか、遠慮なく知らせてくださいね」
「はい、陛下!」
「ありがとうございます!」
返ってくる声は明るく、風に押されながら通りの奥まで広がっていった。わたしが一人で成し遂げたものではない。港を調べ、板を渡し、荷車を動かした人がいる。市場へ品物を運び、買い、煮炊きし、また明日の仕入れを考える人々がいる。紙に並んでいた名のひとつひとつが、いまは声と顔を持って、目の前にいた。自分の暮らしが動き始めたことを、その人たちが喜んでいる。その声がこちらへ返ってくるたび、朝から冷えていた指の節が、少しずつほどけていった。
人垣の後ろから、白い布を頭へ巻いた老女が一歩進み出た。風に布の端を揺らされながら、隣の女に肘を支えられ、何度も頭を下げる。
「陛下。どうか、いつまでもお健やかに。この御代が、末永く続きますように」
「ありがとう。あなたも、どうかお健やかに」
老女は顔を上げた。目尻の深い皺が、やわらかく寄っている。
「お二人に、どうか健やかな御子が授かりますように」
老女は言い終えると、隣の女へ笑いかけた。肘を支えていた女も、うれしそうに何度もうなずく。その声の調子は、先ほどの「お健やかに」と少しも変わらない。目の前で動き始めた暮らしも、この御代も、その先へ続いてほしいと願っている。だから、すぐには息を吸えなかった。
周囲では、先ほどまでと同じように祝福の声が続いている。布屋根は風を受け、槌の音が港から届く。荷車の車輪が、乾ききらない道をゆっくり進んでいく。御子という一語を聞いたあとも、頬は先ほどと同じ形を保っていた。何を返せばよいのか、言葉は出てこない。わたしは老女へ、もう一度うなずいた。外套の前で重ねていた両手が、いつからか、ほどけなくなっていた。




