見ているだけでは
「あの……ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」
扉の縁に片手をかけ、観測室の中を窺っていたのはソレイユだった。亜麻色の髪は、眠りから抜け出したばかりのように少し乱れている。胸には台帳を抱え、肩掛けの上からは、控え室の毛布の匂いがまだ薄くまとわりついていた。目の縁がほんのわずかに赤く、頬には眠りの熱が残っている。
その後ろから、リディアの控えめな気配が追いかけてくる。止めきれなかったのだろう。前室の扉枠に添えた手が、まだそこから離れずにいた。
「どうしたの、ソレイユ。朝まで休むと言っていたでしょう?」
「うん、そのつもりだったの。でも……台帳の続きが気になって。赤い印のところまでは写し終わったけど、青い印の未確認分が、まだ三行残っていたから」
言いながら、ソレイユは台帳の角を押さえ直した。彼女の手の温もりが、革の表紙にまだ残っているように見える。観測室の冷えた空気の中で、それがひどく無防備だった。
「それに、キーロンさんに聞いたの。新しい灯信が来たって。わたしが休んでいるあいだに、何か変わったことがあったんじゃないかと思って」
彼女の目が、まっすぐわたしの顔を見た。その目は、何も知らないままだった。
中央公園の孔のことも、王都の足元へ引かれた線のことも、わたしの腹にある痣のことも、ソレイユは何ひとつ知らない。知らないまま、台帳を抱えて起きてきた。わたしの力になりたい、と言った、あの日と同じ目をして。
「ソレイユ……」
彼女の名を呼んだきり、言葉が続かなかった。
この子には言ってはいけない。どこが危ないのかも、何が起きようとしているのかも、その場所に誰が立っているのかも。言えば、彼女はきっと考えてしまう。知ってしまう。知ったうえで、なお手伝おうとする。肩掛けの毛布の匂いを残したまま、台帳を抱え直し、できることを探してしまう。
――だめ。この子に背負わせてはいけない。
その思いが先に喉を塞ぎ、声は奥のほうで小さく固まっていく。
「ソレイユ。ここから先は、もう……」
一度、唇を噛む。言葉を選ぶ時間だけ、観測室の青白い灯が紙の上で揺れていた。置き場を失った影が、王都図の端で細く震える。
「こんな言い方をして悪いけれど、もう記録で済むような話ではなくなったの」
言葉を選びながら、わたしは台帳へ視線を落とした。
革の表紙は、まだソレイユの腕の中にある。控え室の温もりごと抱えられたそれが、この部屋には似合わないものに見えた。紙へ写せることと、紙へ写してはいけないこと。その境目が、灯りの下で細く浮かんでいる。
「ええ……」
ソレイユの返事は小さかった。納得ではない。けれど、反発でもなかった。睫毛が一度だけ伏せられ、台帳を抱く腕に力が入る。
「それに、これ以上あなたに危ないことはさせたくないの。でも、理由については、ちゃんとは言えない。それがとても申し訳なくて……ごめんなさい。ずるい言い方をしているわね」
「うん。それはまあ、なんとなく分かるよ。ミツルさんの雰囲気、さっきとぜんぜん違うから」
ソレイユの声は落ち着いていた。ただ、台帳を持つ手の甲がわずかに強張っている。何が起きているかは知らなくても、空気の色が変わったことは分かっている。そういう子だった。
「わたし、邪魔だったらお屋敷に帰るよ。でも、もしまだ何か手伝えることがあるなら……」
「ソレイユ」
名前を呼んだだけで、声が思ったより低く出た。彼女が迷いなくこちらを見る。亜麻色の睫毛の先に、灯りがひとつだけ映っていた。
その目の奥に、別の人の姿が見えた。
濃紺の外套を翻し、夜通し指揮を執っている、背筋の伸びた人。ユベル・グロンダイルの志を受け継ぎ、銀翼騎士団を動かし、水と毛布と名簿を届けた人。いまもこの夜の王都のどこかで、封鎖線を引き直し、避難導線を組み替え、人を守るために立っている。
――ローベルト将軍。ソレイユの――お父さん。
そう思った瞬間、その名が公的な肩書きから、誰かの家へ帰るはずの人へと変わった。そして、その帰りを待っている妻がいる。何も知らされぬまま、伝令が来るたびに窓を見て、娘がいつ戻るかも分からないまま、屋敷で朝を待っている人がいる。
王都には、そういう人たちがたくさんいる。地図の上では点と線にすぎないものが、名前を持ち、手を持ち、誰かの帰りを待っている。この夜の底で、息をしている。
「ソレイユ」
「はい?」
「お母さまは、お元気かしら?」
問いは、自分でも予想しなかった場所から出た。ソレイユは少し驚いた顔をして、それから台帳を抱き直す。革の角が肩掛けの布に触れ、かすかな音を立てた。
「えっ……うん。元気だよ。たぶん。でも、さすがに今はすごく心配していると思う」
「お父さまが帰ってこないから、当然よね……」
「うん。母は何も聞かされていないと思う。いま何が起きているかも、どこが危ないかも、いつ終わるのかさえも。だからよけいに……」
そこで、ソレイユの声が少しだけ細くなった。革の表紙が肩掛けの布へ沈み、それを支える指だけが、声よりも先に震えていた。けれど、彼女はすぐに息を吸い直し、目の奥へ光を戻す。
「でも、父ならきっと大丈夫。だって……ずっとそうやって、みんなを守ってきた人だから。いつだって、笑顔で帰ってくるから。約束は、ぜったいに守る人だから」
その言葉が、指先から入ってきた。紙を押さえていた手が、ふいにひどく重くなる。同じような言葉を、かつてヴィルに向かって口にしたことがある。
『父さまは強い。どんな魔獣がやってきたって絶対に負けない。わたしだってそう信じていた』
視界の端が、白く滲んだ。
もし、中央公園で虚無の孔が開いたら。それがたとえ極小規模だとしても。王都図の白い空白が、奥行きを帯びた。そこから何かが出てくる。記録に残っている通りの、黒紫の塊が魔素を吸い、輪郭を得て、爪と牙と甲殻を張り出していく。
それが王都の中で、人のいる場所で起きる。ソレイユの父が立ち、ソレイユの母が待ち、掲示板の前で灰月の男が紙を押さえ、水桶を抱えた女がいて、箒で煤を払っていた老人がいる、その場所で。――あれがやって来る。それも、尽きることなく。そして、その人たちが。
――あの日の父さまのように。
視界が赤黒く染まった、あの瞬間の色。鋭い爪と牙が父の身体を貫き、飛び散った血しぶきが、まだ小さかったわたしの頬に生ぬるく降りかかった。鼻の奥に鉄の匂いが入り、指で拭ったものが赤いと分かった瞬間、わたしの中で何かが壊れた。
そのとき、天井近くで、きん、と灯信の金具が鳴った。薄い金属が夜気に触れて立てた、乾いた小さな音だった。その音で、わたしの目は一瞬だけ現在へ戻る。石の床と紙の匂い。パウエルの筆が止まっている。ヴィルの気配と、ソレイユの亜麻色の髪。
――ああ……。
胸の奥で息が漏れる。けれど頬にはまだ、あの温度が残っていた。あの瞬間に、わたしの中で柚羽美鶴が目を覚ましたのだ。あの慟哭のなかで。もう二度と戻らない父の体温のなかで。無力な子どもの叫びのなかで。
深淵の黒鶴が目覚めたのは、そのあとだった。怒りが先ではなかった。ただ怖くて、悲しくて、助けられなくて、父がいなくなって、それでもまだ温かいものだけが頬に残っていて、あの感触だけが、いまも消えない。
「ミツルさん?」
ソレイユの声が、遠くから戻ってきた。
わたしは王都図の上に手を置いたままだった。指先が白い。爪の先が薄く紫を帯びている。紙の繊維に、指が食い込むほど押さえつけていた。
「……ごめんなさい。大丈夫よ」
「ううん、大丈夫じゃない顔してる」
ソレイユの声は、見たままを言っていた。
ヴィルは動かなかった。半歩の距離のまま、こちらを見ている。駆け寄りもしない。肩に手を置きもしない。ただ、わたしが何を見たのか、何に触れてしまったのかを、測っている目だった。
パウエルの筆も止まっていた。記録板を胸に抱え、呼吸だけがそこにある。観測室には、灯信の金具が鳴ったあとの細い余韻だけが残っていた。
「ソレイユ。あなたに言えることと、言えないことがあるの」
「うん。知ってる。でも、ミツルさんがそういう顔をしているのは、初めて見たかもしれない……」
台帳を持つ手が、そっと下がった。ソレイユは両手でそれを持ったまま、わたしの目を見ている。目元にまだ赤みが残る顔なのに、そのまなざしだけが妙にまっすぐだった。
「わたしにできることは、少ないんだと思う。でも、それでも、何かあるなら言ってほしい」
何も知らないまま、そう言う。何も知らないから、そう言える。けれどそれは、知らない場所へ手を伸ばせる者だけが持つ強さだった。わたしが、いつのまにか遠くへ置いてきてしまったものなのかもしれない。
ソレイユの思いが、わたしの中の何かを下から押し上げた。外から叩かれたときにはびくともしなかったものが、内側から膨らんだ熱に、音もなく裂けていく。
「ソレイユ。……帰ったら、お母さまをぎゅーっとしてあげてちょうだい」
声が震えた。震えたことが、自分でも分かった。
「……ミツルさん?」
ソレイユの睫毛が揺れた。何を言われたのか分からないまま、それでも何か大事なものを渡されたのだと気づいた顔だった。
「みんな無事でいてほしいの。あなたも、お父さまも、お母さまも、王都の人たちも。誰も……誰も傷ついてほしくない。いいえ、死んでほしくないの……」
言葉にした途端、胸の奥に押し込めていたものが、形を持たないまま溢れた。理屈で包もうとしていたものが、全部こぼれ出してくる。分析でも仮説でもない。ただの願いだった。言葉にしてしまえばあまりに幼くて、けれど、それ以外の名を持たないものだった。
もう、誰も失いたくない。前世でも、転生してからも、わたしはかけがえのないものを奪われ続けてきた。関われば壊れる。望めば失う。だから最初から望まなければいいのだと、胸の奥へ何度も言い聞かせてきた。
けれど、その奥で、茉凜の声がいまもかすかに残っている。
『欲しいものは、ちゃんと欲しがっていいんだよ』
『せっかく生きてるんだから、ちゃんと生きなきゃね』
軽い声で、何度も、何度も、わたしの手のひらへ戻してくれた言葉。そのぬくもりを知ってしまったから、もう、知らなかったころには戻れない。
だからこそいま、この街と、そこに生きる人たちを、失いたくなかった。
ソレイユの顔が歪んだ。泣くより先に、受け止めようとしている顔だった。台帳の角を握る指が白くなっている。彼女は一度、何かを言おうとして、けれど唇を閉じた。革表紙へ落ちた視線がわずかに揺れ、眠りの残っていた顔から、子どもらしい柔らかさが引いていく。
そして、ゆっくりと顎を上げた。まだ泣きそうな目をしているのに、そこにはもう、誰かの帰りを信じて待つだけの娘はいなかった。父の名を知り、その重さを知り、それでも背筋を折らない子が、静かに立っていた。
「ミツルさん、あなたは……」
「ごめんなさい。あなたの前で口にしていいことじゃなかったわね。なんて情けないのかしら……」
「ううん。言ってくれてよかった。ミツルさんって、いつも我慢しすぎだと思うから」
その言葉を最後に、ソレイユは台帳へ視線を落とした。
革表紙を抱く指はまだ白い。けれど、さっきまでの迷いはそこから引いていた。泣きそうな顔のまま、彼女は自分の役目を思い出すように、台帳をパウエルのほうへ差し出した。
「パウエルさん。赤い印のところまで写し終わっています。青い未確認分の三行は、朝、わたしが書き直します」
パウエルが受け取った。革の表紙には、ソレイユの手の温もりがまだ残っているだろう。
「それでは、わたし戻ります。ミツルさんも無理はしないでね」
「ええ、肝に銘じるわ」
ソレイユはもう一度だけわたしを見て、頷いた。それから、リディアに促されるように前室のほうへ戻っていく。扉が閉まるとき、肩掛けの端が一瞬だけ揺れた。
観測室に残ったのは、ヴィルと、パウエルと、若い観測員と、わたしだった。
紙の匂いと、石壁の冷えだけがある。さっきまで積み上げていた分析が、ひどく薄い壁に見えた。答えを探していたのではない。怖いものを見ないために、わたしは考え続けていたのだ。
虚無のゆりかごと、そのあとに生じる魔獣の巣窟に、都合のいい解決手段は存在しない。その言葉を、わたしはもう聞いている。
まだ「お祖父さま」と呼ぶ前の「グレイ総長」から。冷えた塔の空気の中で。茶器の縁に触れた指が止まり、低く静かな声が、現実のほうへわたしを引き戻したあの場所で。
あれを都合よく閉じる結界も、封印も、願えば届く奇跡もない。できるのは、周囲地域を封鎖し、溢れ出す魔獣を堰き止め、活性度が落ちるまで耐え、それから防壁を築くことだけ。嵐が過ぎるまで、外側で数え続けることだけ。
あのとき、わたしはそう聞いた。聞いて、何も言えなくなった。父が立ち向かったものの大きさを、そこで初めて知った気がした。守れるかどうかも分からないものへ、それでも剣を向けた人だった。民の命を守りたい、その一つの願いだけで、戻れない場所へ踏み込んだ人だった。
王都図の中央公園が、白く沈んでいる。もし、そこに本当に孔が開くなら。もし、あの白い空白から、記録に残っていた黒紫の塊が這い出してくるなら。ソレイユの両親も、王都の人たちも、あの日の父のように、誰かを守ろうとして、あるいは誰かに守られながら、引き裂かれるかもしれない。
そう思った瞬間、理屈の壁はもう役に立たなかった。
「ヴィル?」
「ああ」
「わたしには、これから起こるだろうことが見える」
声が低かった。自分でも驚くほど平らだった。震えていたのはさっきまでで、いま残っているのは、震えの底にあったもののほうだった。
「クロセスバーナが、この王都で何をしようとしていたのか。核心とは言い切れないけれど、紋様がどう関わっているのかも朧げではあるけれどわかってきた。わたしの痣が、あの紋様と同じ根を持つかもしれないということも。孔の向こう側に、答えがあるのかもしれないということも」
王都図の上に手を置く。指先はまだ白い。力を抜こうとしても、完全には戻らなかった。
「ラウールは、見ろと言ったわ。わたしは見た。見て、それを理解できた気がする」
「ああ」
「でも、見えたところで、いまのわたしには止める術がないのも事実よ」
言葉が、喉の途中で一度だけ引っかかった。窓の外には、王都の屋根が夜の底に並んでいる。どこかで灯信の光が一度だけ瞬き、すぐに消えた。
「中央公園へ行けば、何かできるかもしれない。できないかもしれない。でもここにいて、見ているだけよりは……」
そこから先を、すぐには言えなかった。
王都図の上では、もう形が見えている。けれど、見えているものに手が届かない。そのもどかしさが、舌の付け根に張りつく。息を吸うと、石壁の冷えと紙の匂いが肺へ入ってきた。
見ているだけ、という言葉が、古い傷の縁へ触れた。
「行かなければ、何もしなければ、わたしはまた、あの日と同じことを繰り返すだけのような気がするの」
ヴィルの目が、かすかに細くなった。
「あの日あのとき、わたしは死にゆく父さまを見ているしかなかった」
言った瞬間、観測室の夜気の底で、別の夜の匂いが薄く立った。
土と獣と、焼けた鉄のような血の匂い。指先は王都図の上にあるのに、掌のどこかだけが、あのとき掴めなかった父の外套をまだ探していた。
「突然、視界が真っ赤に染まったの。一瞬、何が起きたのかわからなかった。額や頬に生温かいものがへばりついて、鉄の臭いがした。すぐにわかった。目の前で父さまが引き裂かれて、血を噴き出していたのだって」
舌の奥に、古い錆の味が戻った。まばたきをしたはずなのに、赤は消えなかった。ただ、父の背中だけが、最後までわたしの前にあった。
「わたし、何もできなかった。見ているだけしかない、無力な子どもだった……」
声は平らだった。泣いてはいない。泣けなかった。泣くには、もう一度あの温度を思い出さなければならない。それは今ここではできない。
「もし王都の人たちが、あの日の父さまのようになったら。ソレイユのお父さまが。お母さまが。わたしの目の前で、いなくなってしまうようなことがあったら……それだけは、いやなの」
ヴィルは何も言わなかった。しばらくのあいだ、観測室には窓を掠める夜風の音と、灯信の細い余韻だけがあった。




