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黒髪のグロンダイルとして~白いケープは夜にひらく

 臨時共通王都図の白い空白から、まだ目を離せずにいた。


 中央公園。赤い印も、青い印も、黒紫の点も置かれていない場所。何も書かれていないはずなのに、そこだけ紙の奥が深く沈んで見える。観測室の灯は青白く、卓上の紙の端を、冷えた空気がかすかに震わせていた。


 それから、ヴィルが口を開いた。


「俺が、お前の決めることまで奪うわけにはいかん」


 短い言葉だった。けれど、観測室の冷えた空気の中で、その低い声はまっすぐに届いた。


「お前の目で見て、お前の頭で考えて、お前が決めた答えなら、俺はそれを尊重する」


 その声は、あたたかくはなかった。慰めてもいなかった。だからこそ、逃げ場を用意しないやさしさがあった。


「ここに留まると言うなら、俺はここでお前の横に立つ。飛び出すと言うなら、俺はお前の前を走る。どちらにせよ、お前を一人では行かせん。どこまでだろうと付き合う」


「ヴィル……」


「言っておくが、情だけで言っているわけじゃない。お互い生きて、守り抜く。そのための俺なりの答えだ」


 かつて父に向き合っていたときと、同じ立ち方だった。


 震えを包み隠すのではない。震えたまま立っているわたしを、そのまま認める距離。守るとは、こういうふうに相手の足を奪わないことでもあるのだと、胸の奥が遅れて知っていく。


 指先が震えた。恐怖だけではない。受け取ったものの重さだった。白い剣の柄が、掌の中でかすかに温まっている。そのほんの少しの熱の奥から、懐かしい声が届いた。


《《美鶴》》


 茉凜の声だった。いつもの茶化しも、ふざけた笑い声もない。けれど、重すぎもしなかった。雨上がりの布をそっと畳むような、やわらかく芯のある声だった。


《《それが、ふたつでひとつってことじゃない?》》


 白い柄を握る指の下で、何かが細く脈打った。


《《わたしたちだって、そうだったでしょ。覚えてる? あなたはどうしようもなく怖がってた。それでも、みんなのためにって立ち上がろうとしてた。ほんとはずっと、心の中で泣いてたのに……》》


 白い柄の奥で、声が一滴だけ沈んだ。


 沈黙というほど長くはない。けれど、その間に、昔の白い場所の匂いが薄く戻った気がした。消毒液のような冷たさと、乾いた光の匂い。どこにも逃げ場がなくて、それでも誰かの手だけは近くにあった、あの場所の気配。


《《わたしはね、そんなあなたの隣にいたかったんだ。あなたのことが好きだったから。放っておけなかったから。……いまは剣の中だけど、気持ちはあの頃と変わらないよ》》


「茉凜……」


《《さすがに、ヴィルの気持ちまでわかったふうな顔はできないけどさ。でも、美鶴のことがいちばん大切なんだろうなってことはわかる。それだけは、たぶん間違いない》》


 わたしは頷いた。


《《だから、行けるよ。どこまでだってね。このわたしが言うんだから、だいじょーぶ!》》


 言葉の最後で、茉凜の声が明るく跳ねた。足元に置かれた小さな灯みたいな明るさだった。


《《だからさ、美鶴。行くって思ったなら、そこは迷わない。あなたはあなたのまま、思うほうへ飛んじゃいなよ》》


 ――飛ぶ。


 その言葉が剣の奥から届き、凍りかけていた指先を内側からほどいていく。震えは消えない。けれど、震えたままでも、掌は開ける。


 わたしは、臨時共通王都図から手を離した。


 赤い印も、白い空白も、紙の上に残っている。分析は終わっていない。仮説は仮説のまま。けれど、もう紙の上だけでは足りなかった。


「パウエルさん」


「はい」


「全灯信へ。中央公園および周辺街区への滞留を禁じてください。通過予定の導線は、すべて北東街区側へ寄せて。理由は、未確認の魔素反応が中心域へ収束する可能性あり――そこまでに留めてください」


 パウエルの筆先が、一瞬だけ止まった。灯の青白さが、彼の指の節へ細く落ちる。


「危険警報として、でございますか?」


「いいえ。危険という語は使わないでください」


 自分で言って、喉の奥がひどく冷えた。


 危険という言葉は、人を遠ざけるだけではない。時には、灯火のように人を呼ぶ。見たいものへ、確かめたいものへ、人は足を向けてしまう。わたし自身がそうなのだから、なおさら分かってしまう。


「王都の市民を安全圏へ誘導するには、それが第一です。王家および将軍府からの予防的通行制限。中央公園は、通過点ではなく封鎖対象。新しい反応があれば、即時再送。詳細は書面で追わせてください」


 パウエルはすぐに顔を上げた。


「承知いたしました。復唱します。『全灯信へ、予防的通行制限。中央公園周辺、滞留禁止。北東街区側へ誘導。異常あれば即時再送』」


「それから、記録はここまでで一度区切ってください。再照合の指示は、出したまま有効です。新しい灯信が来たら、すべて控えておいてください。わたしが戻るまでは、あなたがここを繋いで」


 パウエルが頷いた。


「承知いたしました。灰色の塔の記録は、私が繋ぎます」


 迷わず戻ってきたその復唱が、最後の背中を押してくれた。


 ヴィルが、ひとつ息を吐く。


「中央公園に人を寄せるな。ローベルトが『あれ』を目視しているのなら、それで意図は汲むだろう」


 それだけだった。ただ配置を見て、必要なことだけを口にしている。


 わたしはヴィルを見上げた。


「孔を閉じられるかどうか……それはわからないわ。けれど、ここからでは、孔の縁も、最初に何が出てくるのかも見えない」


 声にした途端、塔の空気が喉の奥へ触れた。


 できる、と言い切れることは少ない。止められると約束できるものもない。中央公園の白い空白が何を抱えているのか、わたしはまだ知らない。けれど、知らないからこそ、見なければならない。


「もし、推測どおり小さな孔から魔獣が湧き出してくるなら、わたしの黒鶴で出鼻を叩けるはずよ」


「待て。お前の実力を疑っているわけじゃない。だが、たとえ小規模でも、巣窟の発生初期は活性度が高い。湧きは止まらんぞ」


「そうね。それはわかってる。わたしがどこまでもつかは、わからない。でも、人のほうへ向かう前に、わずかでも遅らせることはできるかもしれない」


 掌の中で、白い柄がさっきより温かくなっている。


「塔にいたら、そのわずかすら、作れないでしょう?」


 ヴィルは、わたしの言葉を最後まで聞いた。


 その目は、もう止める者の目ではなかった。行く者の背を測り、退路を数え、最初に斬るべき影を探す騎士の目だった。


「行きましょう、ヴィル」


 ヴィルは革手袋の手で、銘無しの聖剣の柄を確かめた。ただそれだけの動作で、もう準備は終わっている。


「ああ、行こう」


 いつもの一言だった。


 それだけで、足裏に絡みついていたものが、ふっとほどけた気がした。怖さが消えたわけではない。中央公園の白い空白も、臨時共通王都図に残された赤い印も、まだまぶたの裏に貼りついている。けれど、ひとりでそこへ向かうのではないと分かっただけで、呼吸の通り道が少しだけひらいた。


「では、お願いするわね。わたしの護衛騎士さま」


「こんな時に、その呼び方はよせ」


「軽口じゃないわ。信じてるって、言ってるの」


「そんなことは、言われんでも知っている」


 ヴィルは一瞬、言葉を切った。


 観測室の灯が、その横顔の傷跡を淡くなぞる。


「俺も、お前を信じている。……それが相棒というものだろう」


 ――ああ、ずるい。


 わたしに言わせるだけ言わせておいて、自分はそんなふうに、何でもない顔で返してくる。飾りもせず、ためらいもせず、まるで当然のことみたいに。


 胸の奥が熱を持つ。いまは、その熱に名前をつけている場合ではない。だから、白い剣の柄を握り直し、扉へ向き直った。


 扉を開ける前に、前室の灯が視界の端を掠めた。


 ソレイユが、控え室の入口に立っている。もう一度眠ろうとして、眠れなかったのだろう。手には何も持っていない。台帳はもうパウエルに渡してしまったから。


 彼女はただ、そこにいた。


 薄い灯に照らされた亜麻色の髪が、眠りそこねた朝のように少し乱れている。肩掛けの端を指で握り、こちらへ駆け寄ってよいのか、それとも邪魔をしてはいけないのか、その境目で迷っている顔だった。


 目が合った。


「じゃあ、ソレイユ。行ってきます」


 ソレイユは一度だけ唇を噛んだ。それから、頷く。


「はい。……行ってらっしゃい」


 その声は、役目ではなく、友人が友人を見送る声だった。


 階段口へ向かおうとしたとき、前室の奥からリディアが歩み出てきた。


 両手に、畳まれた白い布を抱えている。見慣れない品だった。純白のケープ。薄手だが目の詰まった織りで、縁に細い銀糸が一筋だけ走っている。肩から腰までを覆う、外出用の軽い一枚だった。


 リディアは何も言わず、それをわたしの肩へかけた。


 手つきが迷わない。寸法を知っている手だった。わたしの肩幅に合わせて直しているのか、それとも記憶の中の誰かに合わせているのか。布が肩へ落ちた瞬間、夜気とは違う静かな冷たさが、首筋に沿って流れた。


「ミツルお嬢様。夜はまだ冷えますから、どうかこれをお使いください」


 それだけを先に言ってから、留め金具をひとつ、鎖骨の下で止める。金具の小さな音が、前室の薄い灯の中で澄んで響いた。


「メイレアさまが、お嬢様と同じくらいのお年頃でいらした頃、外出の折に好んでお召しになっていたものでございます」


「これを、ですか? 母さまが?」


「はい」


 リディアの指先が、ケープの襟をそっと整えた。


 この人は、同じ仕草を二度繰り返している。若緑の髪の少女の肩にこのケープをかけた日のことを、指が覚えている。そしていま、その少女の娘の肩に、同じ布を渡している。


「これをお召しになって、王都を駆け回っておいででした。もちろん、若緑のウィッグをおつけになって」


 その言葉の末尾に、笑みの気配があった。懐かしくて、たぶん少し辛い笑みだった。


 わたしにはそれが分かる。


 リディアがわたしの顔を見るとき、一瞬だけ目の奥を走るものを、ずっと前から知っていた。この人は、わたしの中に母を見ている。けれど、母の代わりとして扱ったことは一度もない。いつでも「ミツルお嬢様」と呼び、食事を出し、寝台を整え、朝の靴を揃えてくれた。


 わたしはケープの縁に触れた。銀糸の一筋が、爪の先へひんやりと触れる。


 若緑のウィッグは、もうつけていない。


 今夜のわたしの髪は、黒い。


「……リディアさん」


「はい」


「わたしは今宵、『黒髪のグロンダイル』として、王都へ参ります」


 リディアの手が、一瞬だけ止まった。


 その手は、母の若緑を梳いた手だ。離宮の朝支度で、ウィッグの乱れを直し、ケープの留め金を確かめ、門を出ていく少女の背に「お気をつけて」と声をかけた手だ。


 それから、彼女はケープの襟元をもうひと撫でして、半歩退いた。


「承知いたしました。お気をつけて、お嬢様」


 声は震えていなかった。


 退いた手が裾の前で重ねられたとき、指の節だけが白くなっている。


 わたしは、肩にかかった白い布の軽さを確かめた。母の体温が、まだ繊維の奥に眠っているような気がした。だからこそ、足が止まる。


「……ただ、これから荒事になるかもしれないのです。汚したり、破いたりしたらと思うと申し訳なくて……」


 言いかけたわたしを、リディアが静かに遮った。


「ご安心くださいませ。換えはあと二枚ございます」


「えっ……」


 思わず、瞬きをした。


「発注にあたり、ストックを含め常に三つというのが決まりでございました。なにせ、メイレアさまはたいへんご活発でいらっしゃいましたので」


 リディアの声は、いつもと同じ温度だった。


 侍女としての丁寧さの奥に、母に長く仕えた人だけが持つ諦めと愛情が、ひとすじ透けている。


 三枚のストック。汚れて戻ってくることを、最初から織り込んでいた発注。そこに、母とリディアの日常が、全部あった。


「……それ、活発というよりは、お転婆がすぎたから、ということですよね?」


「さようでございます」


 一拍の間もなかった。


 喉の奥がきゅっと詰まる。笑いたかったのに、笑おうとした場所から別のものが込み上げてくる。


 ――母さまはこの白いケープを翻して、王都の路地を駆け回っていたんだ。若緑の髪をなびかせて……。


 石畳に裾を引っかけて、銀糸をほつれさせて、帰ってきたらリディアに叱られて。それでも次の日にはまた、同じように出ていったのかもしれない。


 ――三枚あるから大丈夫でしょ、って笑って。うん、そうだ。母さまなら、ありえる話。だって、ほんとに能天気すぎるひとだったから……。


 リディアは、母のことを、わたしよりずっと知っている。


 母がいなくなった後も、離宮の部屋を守り続けた人だ。ケープを三枚、ずっと仕舞っておいた人だ。わたしが来て、「同じ顔」を見ても一度も涙を見せなかった。毎日わたしの髪を梳き、靴を揃え、スープを温め、寝台の皺を伸ばしてくれた。


 ――だから、帰る。この人のところへ、帰る。服をぼろぼろにして、煤まみれになって、いっぱい叱られる。そのために帰る。そうしなきゃ、わたしは何も返せない。


 目の縁が熱くなった。


 泣いてはいけなかった。これから走るのに。泣いたら、ヴィルが振り返る。振り返らせてはいけない。


 唇の内側を噛んで、呼吸をひとつだけ深く吸った。銀糸に触れていた指先の震えを、拳の中に握り込んで隠す。


「……いってまいります、リディアさん。帰ったらまた、いっぱい叱ってください」


 声が揺れなかったのは、奇跡に近かった。


「はい。離宮で、お帰りをお待ち申し上げております」


 リディアは深く頭を下げた。


 顔を上げたとき、彼女の目は乾いていた。けれど、重ねた手の指が、さっきより強く組まれている。


 わたしは階段を降りはじめた。


 ヴィルの足音が、半歩後ろから続く。白い剣の柄が掌に馴染んでいる。その奥で、茉凜の気配がいつもより近い。肩の上では、母のケープが夜気を受けて軽く揺れていた。


 王都は、まだ夜の中にあった。


 その夜の底で、黒い点がひとつ、静かに息をしている。


 わたしは走り出す。


 ――誰も父さまのようにならないように。わたしのように、声が枯れるまで泣き叫ぶ子が、もう生まれないように。


 肩の白いケープが夜気を受け、背で小さくひらいた。

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