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欠けた中心

 パウエルが、慎重に口を開いた。


「では、中央公園の中心直上で観測された黒点は、その紋様が結んだ中心点と見てよろしいのでしょうか?」


「はい。……いえ、中心という言い方は、少し違うかもしれません」


 わたしは、紙の白い一画を見下ろした。


「欠けた中心、とでも言うべきでしょうか」


 パウエルの筆先が、紙に触れないまま止まる。


「欠けた中心、ですか?」


「はい」


 黒紫の壁。白い空白。人の流れ。王家の旗。急変点。未発動地点。灯信の死角。


 それらは、もう別々の出来事として置けなかった。


 紙の上に並べると、すべてが一枚の皮膚の上で動いているように見える。王都という大きな身体の上で、赤い点と青い線と黒紫の傷が、互いに触れないまま、同じ場所へ引かれていく。


「あそこは、何もなかったから白かったのではありません。欠けていなければならなかった。何かを受け取るために、空白でなければならなかったのだと思います」


「失礼ながら、私には、ミツル様のおっしゃることが掴みきれません」


 パウエルの声が、わずかに低くなった。


 責めているのではない。足場を確かめている声だった。けれど、その丁寧さが、かえって胸の内側を細く引っかいた。


 答えようとして、舌の裏が乾く。


 受け取るものは、物ではない。火でも、水でも、ただの魔素でもない。もっと底がない。器そのものの形を、内側から奪ってしまうようなもの。


「すみません。これではわかりにくいですね。実はわたしもまだ混乱していて、上手く伝えられる言葉を探しているところなのです」


 そう言ってから、指先で中央公園の白い一画を押さえた。紙の繊維が、乾いた皮膚のように指腹へ触れる。


「端的に言うならば……これは虚無です」


 その一語を、紙の上へ落とす。


 観測室の空気が、ほんのわずかに沈んだ。


 誰かの息が、細く鳴る。灯信器具の青白い光まで、一瞬だけ遠くなった気がした。


「あるいは、虚無を開くための条件とも。それも、ごく限られた目的と条件に基づく……」


「虚無とおっしゃいましたが、まさか、あの虚無のゆりかごそのもの、ということなのですか?」


 パウエルが、すぐに聞き返した。


 当然の問いだった。


「いいえ」


 否定は、すぐに出た。


「そこまでは断言できません。現段階では、それに近い、準ずるものとして扱うべきだと考えています」


 ヴィルの視線が、こちらへ落ちる。


「同じじゃない、ということか?」


「ええ。少なくとも、記録に記されている虚無のゆりかごとは違います」


 わたしは王都図から目を離せなかった。


 百年以上前に、キカロスの大森林地帯を分断し、巨大な渓谷を形成した事例。通称、ハムロ渓谷。一夜にして地形を変えたそこは、お祖父さまの許可をいただいて閲覧したいくつもの資料に、硬い文字で名を残していた。


 そして、二十数年前の西部戦線。


 当時、銀翼騎士団左翼を率いていたセバスティアン・ローベルトの手記。生き残った将兵たちの、震える筆跡。


 そこに繰り返し現れていたのは、まず音の消失だった。


 風の音が薄れる。


 鳥の声が消える。


 人の声が、急に遠くなる。


 それから空の色が変わり、大気が一点へ吸い込まれるような圧がかかる。


 光と衝撃が来る。


 爆縮。


 その語を思い出しただけで、指の腹が紙へ沈んだ。記録の中では、ひどく乾いた二文字だった。けれど、その二文字の向こうには、倒れた森と、割れた岩肌と、誰かが最後に聞いたはずの無音がある。


 後年の解析では、爆縮に近い現象と記されていた。


 押し込まれ、裂け、跳ね返る。世界の側が耐えきれず、空と大地の境目に穴を開ける。


 その衝撃は、森を倒しただけでは終わらなかったとされる。


 樹冠は同じ向きへ伏せ、岩肌は割れ、川筋は泥を巻き上げながら別の低みへ逃げた。橋も、見張り台も、古い街道の一部も、記録の上ではそこで途切れている。キカロスの大森林地帯は一夜で裂け、翌朝には、そこを渓谷と呼ぶしかなくなっていた。


 そして中心に、巨大な空洞が生まれる。


 裂け目というにはあまりにも深く、縁からは黒紫の瘴気が滲み、紫と赤の雷光が走り、そこから形のないものが湧いてくる。


 それは黒紫の塊として現れ、魔素を吸うたびに輪郭を得ていく。


 爪。


 牙。


 皮膜。


 甲殻。


 生き物を真似るようでいて、生き物とはまるで違う形が、ひとつずつ外へ張り出していく。


 それが、魔獣になる。


 穴が口を開けている限り、魔獣は尽きない。


 それが、少なくとも資料から読み取れる虚無のゆりかごだった。


 言葉を並べている間だけ、指先の強張りが少し遠ざかる。事実を辿っている間だけ、窓の外にある黒い点と目が合わずに済んだ。


 自分が何をしているのか、たぶん分かっていた。


 分かっていて、止められなかった。


「では、既知の現象とは異なる。つまり、前例にそのまま当てはめることはできない、と?」


 パウエルが、言葉を選ぶように言った。


「はい。完全な同一視は危険でしょう。それに――」


 紙を押さえる手に、力が入りすぎていることに気づく。わたしは、そっと指を緩めた。


「もし同じであったなら、王都はとっくに跡形もなく、吹き飛んでいたかもしれません」


 観測員のひとりが、小さく息を呑む。


 紙の上の中央公園は、まだ白い。けれど窓の外では、黒い点が少しずつ大きさを増しながら、まだ口を開けていない。


 少なくとも、記録に残る虚無のゆりかごのような兆候は見せていなかった。


「過去の事例については、お祖父さまから許可をいただき、資料に目を通しています。虚無のゆりかごとは、開いた瞬間に世界の側が壊れるものです。空も、大地も、川も、道も、そこにいた人たちの未来さえも、根こそぎ変えてしまう。けれど……中央公園のあれは、そうではありません」


「といいますと?」


「同じなら、もっと外へ出ているはずなんです。魔素の乱れも、風も、水も、人の動きも。ですが、中央公園では逆に、観測できるものが鈍っている。噴水の飛沫、樹冠の揺れ、群衆の流れ。そこでだけ、何かに吸われているように見えました」


「吸われている、ですか?」


 若い観測員の声が、思わずというようにこぼれた。


「はい。何も外へ噴き出していない。外へ出るはずのものを、内側へ押し殺している。そう見たほうが、いまの観測結果には合います」


「つまり、本来外へ出るはずのものが、あの一点で押さえ込まれているわけか」


 ヴィルの声が低く落ちた。


「……こういう言い方で合っているか。閉じた門の向こうで、何かが蠢いている。まだ門は閉じているが、開く前の兆しだけは見えている。お前はそう読んでいるのか?」


 わたしは、ヴィルの顔を見上げた。


「ええ。その言い方なら近いわ。開きかけている、というより……開くための焦点が、そこに結ばれている。そう見えるわ」


「焦点か」


「ええ。孔そのものではなく、孔を開けるための焦点。あるいは、極小の穿孔をそこへ縫い留める――マチ針、みたいなものかしら」


「なるほどな」


 そのとき、窓の外で灯信の覆いが動いた。


 短く二度。間。長く一度。


 パウエルが通信窓へ歩き、符号を読み取る。ペン先が記録板の上で速く走り、止まった。


「中央公園外縁部、地面の微振動報告。住民からの通報経由。魔導兵団観測班、確認中」


 ――地面が鳴っている? 始まったというの?


 その報告が、分析の途中で紙の上へ落ちた。


 窓硝子が細く震えたのは、風のせいだったかもしれない。けれど、わたしの足裏が、塔の石を通してかすかな振動を拾いかけた。拾えたかどうかも、確かではない。


 それでも、身体の奥はもう反応していた。


「……続けます」


 声を出し直す。


 乾いた舌を、上顎に一度押しつけてから。


「わたしからの推測を述べます。これは都市破壊級の大規模災害を目的としたものではありません。王都の中心、その一点へ、必要最小限の孔を開けるためのものでしょう」


 観測員たちが息を詰めた。パウエルの筆先が、紙の上で止まっている。


「……まだ仮の呼び名ですが……戦術的に制御された虚無のゆりかご、とでも呼ぶべきものかもしれません」


 パウエルが静かに口を開く。


「ミツル様、いまのお言葉、記録してもよろしいですか?」


「かまいません。ただし、用語は仮扱いで。まだ断定はしないでください」


「承知いたしました」


 パウエルは頷いた。


 その落ち着いた声が、ほんの少しだけありがたかった。


「ラウールが怖れていたものとは、これだったのね……」


 潮を含んだ紙。塩で膨らんだ手帳。燃え残った書庫の匂い。


 匂いの奥から、ラウールの横顔が先に浮かんだ。答えを断言する人ではなかった。怖れながら、それでも目を逸らせない人だった。


「以前、ラウールから聞かされました。ソミン共和国を簒奪した新生クロセスバーナ国内では、短期間に魔獣の巣窟が三つも生じた、と」


「三つも、ですか……」


 若い観測員が、掠れた声で繰り返した。


「ひとつなら災厄。ふたつなら不運が重なる。けれど三つとなると、場所を選んだ誰かの手を疑わなければならない。自然発生として見るには、あまりに偏っている。ラウールは、その三つの巣窟の背後に、人為的に開かれた虚無のゆりかごがある可能性を疑っていました」


「だが、あれがそれだというなら、王都はもう終わっているはずだぞ」


 ヴィルが短く言った。


 否定ではない。確認だった。


「ええ。だから、これはそれではありません。開いた瞬間に王都が壊れていないのだから、まだ向こう側とは繋がりきっていない。それと――」


 言葉を重ねるほど、みぞおちのあたりが重くなる。


 ――おそらく、これは戦術的に制御された兵器だ。


 効果と被害範囲を測る意味でも、孔は小さくなければならない。魔獣の巣窟を作り、長期安定的に魔石資源を得る運用とは違う。


 前世でつまみ食いしていたような言葉が、胸の奥で冷たく形を取った。


 けれど、それは安全の意味ではなかった。


 小さいから、場所を選べる。


 小さいから、人のいる場所へ置ける。


 小さいから、都市の中心へ、祭壇の針のように落とせる。


 敵の首都を落とすだけなら、それで済む。


 済む、なんて言葉が浮かんだことに、喉の奥が冷えた。


「術式化魔石片は、人にだけ仕込まれていたとは限りません」


 パウエルが目を上げた。


「王都そのものにも、ですか。そこは、完全に見落としておりました……」


「はい。魔獣中核由来の魔石を微細加工した術式化魔石片であれば、人や物の流れの中に紛れ込ませることができます。石畳、灰泥、補修材、油、煤、排水沈殿物、防虫粉、漆喰。そういうものへ混ぜ込み、定着させれば、平時の王都では生活の汚れに見えます」


 指先の感覚が、少しずつ鈍くなっていく。


「でも、発動合図か、同調を続けるための信号が届いたときだけ、それは都市浸透線として働く。人に仕込んだ虚無の刻印は、目立つ赤い点。けれど、本命は王都の皮膚に沈めた線だったのかもしれない」


「都市浸透線」


 パウエルが、その語を低く繰り返す。


「それも仮称でお願いします」


「承知いたしました」


 彼の筆が、今度こそ紙へ触れた。


 かり、と乾いた音がした。


「敵は、ただ王都を壊したいだけではない。壊すなら、もっと早くできたはずです。ここまで段階を踏む必要なんてない」


 シンシアの姿が、一瞬、胸の内へ戻ってきた。


 王家の旗。人の目を奪い返す赤。


 あれは王女シンシアリーナとしての覚悟であり、勇気だった。その勇気さえ、敵が敷いた盤面の上に乗ってしまうのだろうか。


 そう思った途端、舌の裏に苦いものが滲んだ。


「敵は測っていたんです。恐怖で止まった人を誰が動かすのか。王宮が沈黙するのか。切り捨てるのか、救おうとするのか。そして、わたしの目がどこへ向くのか」


 王都図の端を押さえる指が、一度だけ震えた。


「悔しいですけれど、わたしは、敵が見せたかったものに目を奪われていたのです」


 パウエルの筆が動きかけ、止まる。


「赤い点を。倒れた人を。救わなければならない人たちを。……それは間違いではありません。でも、敵は、その目の向きまで測っていた」


 紙の上の赤と青が、急にひどく鮮やかに見えた。


「これは破壊だけを目的としたものではありません。観測されることを前提にした実証実験なのです」


 言い切ったあと、肩甲骨のあたりに鈍い痛みが走った。


「ラウールは、わたしに答えを寄越したのではなかった……」


 あの灯信は、伝令ではない。答えでもない。


 彼が見たものを、わたしが見ているかどうかを確かめるための、短い呼吸だった。


「だから、『見ろ』と言ったのね。わたしなら、塔の上から全体を見ると分かっていて。たぶん――気づくだろうと。常識に縋っていては見誤るのだと。クロセスバーナとは、そういう敵なのだと……」


 ヴィルが静かに息を吐いた。


「答えは自分で出せ、か。いかにも、あいつらしいやり方だ。ならば、お前はそこまで辿り着いたということだ」


「ええ。……彼には、感謝しているわ。本当に。地上にいたら、きっと無理だった。とても冷静ではいられなかったでしょうしね」


「で、どうする?」


 短かった。


 分析の先を、ヴィルは聞かなかった。読み解きの精度も、仮説の確からしさも、問わなかった。ただ、次の行動だけを聞いた。


 わたしは、答えられなかった。


 答えを持っていなかったから。


 紙の上では、赤い印と青い線と、白い空白が、ひとつの形を成しかけている。頭の中では、都市浸透線と穿孔の焦点と、敵の実証が、ひとつの構造に組み上がりかけている。


 ――だからなに……?


 理屈はいくらでも重ねられる。構造を組み上げることもできる。けれど、完成したところで何になるというのか。


 紙の上では、もう形が見えている。


 なのに、わたしの手は、その先へ一寸も進めなかった。


 爪の先が紙端を押さえたまま、白くなる。王都図は逃げない。黒い点も、赤い印も、青い線も、そこにある。あるのに、止めるための手順だけが、どこにも浮かばない。


 見ることを選んだ。


 見極めようとした。


 けれど、理屈を突き詰めれば突き詰めるほど、逃げ場が無くなっていく。


 わたしは、ようやく敵の仕掛けを見た。


 それでもまだ、敵の手の内から出られていなかった。


 ――わたしは、敵の用意した舞台で、踊らされていただけだ。


 ――ああ、なんて馬鹿なんだろう……。


 そのとき、前室の扉が開いた。


 わたしの名を呼ぶ声がした。


 リディアではなかった。


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